第十自我 【影あるところに自我あり】
第十自我 【影あるところに自我あり】
主体が影にないと、どうして言える?
〝自我〟の在り処について、脳に存在するんじゃないのかと答えた僕に〝僕〟はひどく嗜虐的な──執事さんとは比べ物にならないほど、狂った笑みを返してきた。
地球系列平行世界第十五種 №25──影科学世界、影科学者工藤問実。齢三十の、首都東京影下研究機関に勤務している痩せぎすの男。
「光あるところに影あり、然れど光なきところにも影あり。ならば我々は前提の誤認について思考すべきではないかね。光があるからこそ影があるのではない。影しかないところに光が差し込んでいる、ただそれだけのこと──主体が影にないと、どうして言える?」
影科学。
光をエネルギーにできるならば影もまたエネルギーに成り得るという考えの下、生み出された影活用術。古代エジプトにおいて影の濃度変化による温度変化を利用したエネルギー変換術が編み出されて以来、この世界では影を用いることを基礎に敷いている。
それが人類の身体構造に変化を呼び、人類は影を操る力を得た。
「影を作らないようにするにはどうすればいいか」
「……完全球体密閉空間における全方向からの照射」
「そうだな。実際、警察も犯罪者を取り締まる際にまず、影の動きを抑制すべく広域照射を行う」
〝僕〟──工藤の影が蛇のように鎌首をもたげて机を這い、コーヒーカップの影に喰らいつく。ずず、と喰らいつかれた影が引き摺られるのと同調して実体も、机の上を這い移動し──そうして工藤の手元に届き、工藤はカップを手にして口に含んだ。
「では、影が作られない世界はどうなるか」
「……何も見えないだろうな」
「その通り。我々は普段、光の下でモノを見ていると錯覚しているがね。実際は逆だ──影の下でモノを見ているのだ。色が見える仕組みについては?」
「赤い物体は赤い光を反射する性質が、青い物質は青い光を反射する性質が。つまり物質の色を見ているようで実際には光の色を見ている──」
「その通り。だが例えば、リンゴにナイター野球用の照明を当てたとしよう。どう見えると思うかね?」
「……光が強すぎて、色は見えねえだろうな」
「然様。我々がモノを安全に視認できているのは光を遮る影があるからこそ。制御のない光は我々から全てを奪う」
だからこそ我々は光の下ではなく、影の下で世界を見ているということになるのだ。
そう言って工藤は手を組み、犬歯を剥き出しにして笑った。
「先ほど、影を作らないようにするには完全球体密閉空間で全方向から照射すればいいと君は答えた。問おう。影のない空間で君は動けるかね」
「……いや」
「そう。光しかない空間は影しかない空間よりもはるかに、行動を制限される。なぜか」
「……強い光は、痛みを生むからだな」
「然り。影を完全抑制するほどの光ともなれば瞼は機能不全となる。目を閉じていようと網膜が光を拾い、視神経が収縮する」
それに、それほどの光ともなれば同時発生する熱量は膨大なものとなる──皮膚だって無事じゃあ済まない。
「我々が感謝すべきは光の恩恵ではない。影の恩恵なのだ」
何故人類は屋根を作る?
雨風を凌ぐため? ならばカーテンを何故作る? 遮光性を何故大事にする?
「盲よりも晴の方がいいと何故言えよう」
工藤は、二度と光を映さない両の盲で僕を見据え、嗤う。
病魔により失明したのではない。工藤は、〝僕〟は自らの手で両眼を潰したのだ。より深く昏い影を求めて。
「さて、再度問おう。主体が影にないと、どうして言える?」
「…………」
「むしろ影こそが主体であり、肉体はあくまで影に操られているに過ぎないとは思わないかね?」
「…………」
「所詮肉体なぞ影のマリオネットに過ぎないのだ。実際、私は盲になったことで世界がよく見えるようになったよ──影から、世界がよく見える」
その言葉に同調するようにぐにゃりと工藤の影が歪んで、顔のところに三日月のような笑みが浮かび上がる。
「影を制せよ。さすれば物質依存から脱却できよう!」
楽しそうな、心底楽しそうな──愉悦に満ちた声で高らかに宣言したのちに、工藤はテーブルライトに切り絵をかざして机の上にフルーツバスケットの影を作り出す。
工藤の影から手が伸びて、そのフルーツバスケットの影からりんごを取り上げる。手はそのまま、りんごを工藤の頭部にあたる部分に持っていく。影がぐにゃりとまた歪んで、工藤の影がりんごをしゃくしゃくと咀嚼し始める。
「ああ、なんて新鮮な果実だ。──わかるかね。影は物質に囚われない。影科学の発達はありとあらゆる社会問題を解決する」
「その代わりに、ありとあらゆる犯罪も横行する羽目になってしまったんだな」
物質が作り出す影。
影が作り出す物質。
影で成せることを物質に反映する技術、影科学。その発達によりこの世界は食糧問題が解決した。日照りによって実らない果実を影絵で再現し、食糧とする。この世界においてはそれが可能となっている──だが、何事にも善用と悪用がある。
切り絵のナイフで人を殺せば証拠は残らない。
影の角度を調整すれば近付かずに人を殺せる。
一個の爆弾で一万回の爆発が影の中で起きる。
影を磔にしているだけで、人は動けなくなる。
床に伸びた影を縫い留めるように這い回っている毛糸の山と、毛糸から零れ落ちる影。
床に伸びた影と繋がった先にいる──磔られてぴくりとも動かない館長。
「然り。このように毛糸を放り投げて影を作り出し、繋げる。それだけで人は動けなくなる」
工藤の嗤い声がいびつに響く。
その拍子に、工藤が手にしているもう一枚の紙──鋏を象った紙が揺れて、その影が館長の首元に届きそうになる。
「影にこそ主体あり。──然れど、我々は未だ物質に依存せねばならない。こうやって物質を利用し、影を作り出さなければならない」
嘆かわしいことだと、工藤は嗤う。嗤う。嗤う。
「盲となり意識と視界を影に移した私とて、こうして肉体を操らなければならない。影を作り出すのに物質を用意しなければならない。ああ、嘆かわしいことだ──まだ影科学は未踏の地へ至れない」
だからと、工藤の手が揺れて鋏が館長の首元をなぞる。つう、と館長の首筋にひと筋の赤い切れ目が入る。
「だから──僕らを呼び寄せたのか」
「然り」
「〝僕〟に、完全なる影の存在にしてもらうために」
「然り」
工藤は嗤う。やはり、嗤う。
そのいびつな口元を眺めながら、どうしたものかと思案する。
ここ、影科学世界に渡ったのは二日前。マッドサイエンティストとして知られる〝僕〟を遠巻きに観察しながら都内観光と洒落込んでいたのはいいものの、さあ県外に行ってみるかと駅に向かった僕らは誘拐されて今に至っている。
目的は先述の通り、完全なる影にしてもらうため。
「科学者が魔法に頼るのか」
「そう言うなよ。科学だって魔法の延長線のようなものだ」
「さも科学が魔法よりも優れているような口ぶりだな。頼るくせに」
苛立たしげな僕の声にも、工藤は意に介することなく嗤う。
──その時だった。
彼の人は影る。
光差すところに影あり。影差すところに光あり。
然れど光を否定する。拒絶する。蹂躙する。哄笑する。
影にその身を浸して、悦楽に身を浸す狂人。
「──いいだろう。魔女たるワタシを捕えたご褒美だ」
その願い、叶えてやる。
嘯くような館長の嗤い声がそこに木霊すると同時に、館長を磔ていた影が飛散した。かと思えばぷくりと館長の影が持ち上がって──いや、館長の影だけじゃない。僕の影も、机の影も、本棚の影も、部屋中の影という影が伸びをする猫のように持ち上がって。持ち上がって、そのまま。そのまま。
工藤を、呑み込んだ。
「さて、狂人たる〝ワタシ〟が影に成った結果、この世界はどうなりゆくか」
「館長──いいのか? DR-Mの時とはわけが違うぞ。こんな〝僕〟の願いを叶えちまって……いくら、世界線が分岐するとはいえ……!」
「最悪、世界が〝ワタシ〟に支配されるかもな。だが、構いやせんよ」
所詮、他人事だ。
そう囀って、含むように嗤う館長は──〝魔女〟だった。
最初からわかっていることのはずであった。館長は館長である以前に魔女であり、魔女でしかない。
僕は館長の庇護下にたまたまいるから守ってもらえているだけであり、親しんでくれているだけであって──館長にとっては、全てが観察対象でしかないのだ。
たとえ〝僕〟であろうと。
館長にとっては、観察できる素材のひとつでしかない。
〝魔女〟、その真髄。
〝魔女〟、その心髄。
〝魔女〟、その深髄。
──僕は、初めて〝僕〟が怖くなった。
◆◇◆
「……なんつうか」
「何だ?」
「……普通にエンジョイしてるな、〝僕〟」
「まあ狂人といえど所詮は〝ワタシ〟だからな」
念願の影の体を手に入れて嬉しそうに影の世界を走り回っている〝僕〟を眺めて、なんとも言えない気分になりつつシャドウカフェラテを啜る。
コーヒーカップにカフェラテ模様の透明なシートをかざして、照射された影を影の手で飲む。それだけでカフェラテの風味が口内に広がり、胃が満たされゆくのだ。一体どういう原理なのか、と工藤に問うたけれど専門用語の連続で意味がわからなかった。
影には影素という原子があって、元素と違い一種類しかない。その一種類の影素のみでありとあらゆる元素記号を再現できる。いわば万能粒子なのだそうで、影科学はそれを操れるようにするところから始まる。
影素を操作できる、つまりは影を操れる機械のようなものが身分証代わりに配布されていて、人々はそれを駆使して影を操る。
とりあえず、このくらいしかわからなかった。館長によれば影素はこの世界にしかない原子なのだそうで、たとえ機械を他の世界に持ち込んだとしても同系列世界でない限り使えない代物とのことだった。
「……影になったら好き放題してやるみてえな論調だったくせに。いや好き放題してるっちゃしてるがよ……」
「所詮〝ワタシ〟だし」
僕らが現在いるのは首都東京影下研究機関の工藤の研究室で、僕と館長がソファに向かい合って寛いでいる中、影が影で遊んでいる。
うん。
館長によって完全なる影となった工藤が、ありとあらゆる影で楽しそうに遊んでいる。より具体的に言えば、プラモの影で遊んでいる。プラモの影を飛ばして壁を走り回っている影を眺めていると、なんというか、なんというか。
先ほどまでの狂人ぶりはどうしたと切ない気分になるのだけれど何故だろう。
「所詮〝ワタシ〟だし」
影に傾倒し、自ら影になることを望み〝魔女〟を誘拐したマッドサイエンティスト、工藤問実。
僕と同じ〝僕〟であるはずの彼の狂いっぷりに恐怖し、館長の〝魔女〟たる片鱗を垣間見て恐怖し、いつだったかメイドさんに問われた、自分を知ることの恐ろしさについて思案していた時間を返してほしい。
今や無邪気に遊び回る幼子の影にしか見えねえぞこいつ。
「くっくっく、面白いだろう? 世界が違えど境遇が違えど人格が違えど、結局は〝ワタシ〟でしかないのさ」
「……根本が〝僕〟なのは絶対、というわけか」
「ああ。魂は同じだからな」
僕と〝僕〟は同一だが、一致ではない。
──そういえばあの図書館に初めて訪れた日、館長がそんなことを言っていた気がする。僕と館長、そして工藤は生きる世界が違えば生きてきた環境も違うし、人格にも大きな隔たりがある。だが、魂を同じくする存在だ。
根本は同じ。
根底は変わらない。
ゆえに、どんな狂人であろうと所詮は〝僕〟でしかない。
「……根底にある〝僕〟って何なんだ」
「そんなの〝ワタシ〟に決まっているだろ。〝ワタシ〟なんだから」
僕は〝僕〟で、〝僕〟は僕でしかない。
そんな当たり前のことに、僕は何故だか奇妙な気分になる。当たり前だ──当たり前のはずなのだ。実際、僕とて〝僕〟にまみえるたびに鏡と面しているような心地になる。今とて、完全に影でしかない〝僕〟を見ても鏡の中の僕を見ているような心地なのだ。
〝僕〟は僕だ。間違いなく、僕だ。
けれど──わからなくなる。
冷静に、主観を捨て主体を棄て、客観的に〝僕〟を見据えると僕とは違う。当たり前だ──生きている世界が違う。生きてきた環境が違う。生き留まっている肉体が違う。生き抜く意識が違う。何もかもが違う。根こそぎ違う。ありとあらゆるもの全てが、違う。
けれどやはり、〝僕〟なのだ。
同一だが一致ではない。
〝僕〟だが僕ではない。
けれどやはり、〝僕〟なのだ。
一致してはいないけれどやはり、同一なのだ。
この矛盾──この奇妙さ。わかるだろうか。
「……〝自我〟って、そもそも何なんだ」
「〝認識・感情・意志・行為の主体としての私を外界の対象や他人と区別していう語〟」
「出典、広辞苑。──じゃなくてな。いや、その通りなんだが」
自我。
認識・感情・意思・行為の主体。つまりは僕だ。
では、〝僕〟はどうなのか。〝僕〟は僕だ。ならば、〝僕〟の自我もまた僕になるのだろうか。
この命題には否定の決断を下すのが正解だ。
これまでに僕は何十人もの〝僕〟を見てきた。鏡に映る〝僕〟は、けれど鏡としての役割を果たしていない。同一だが一致ではない──どの〝僕〟も、僕でありながら自我を共有していない。共通の自我はない。僕にとって〝僕〟は、他我であった。
どの〝僕〟もそれぞれ、孤立した──個立した自我をきちんと持っていた。例外といえば、統率された世界の完全管理下にある〝僕〟くらいか。だがしかしあの〝僕〟とて、管理されている自我という明確な個性を有している。
自我。
それ即ち、僕にしかないもの。
そんな当たり前の結論に辿り着くのにそう時間はかからない。かからないが、それでもすぐこの命題は僕の前に立ちはだかる。
何故〝僕〟の自我が僕でないと言える?
僕は〝僕〟を知らない。僕を知らない。名前を知らない。故郷を知らない。家族を知らない。境遇を知らない。記憶を知らない。
それでなぜ、〝僕〟の自我が他我であると否定できる?
──僕は〝僕〟を、僕を知らない。
──もしかしたら僕は、僕が狂人と称した工藤と同系列別世界の〝僕〟なのかもしれないのだ。僕はこんな狂人じゃない、と僕の意識は言う。けれど彼を見て僕は〝僕〟だと感じるのだ。この矛盾。この奇妙さ。
「……よくこんな感覚と、四百年間も付き合ってるもんだな」
「くっくっく、世界を渡り始めたばかりのころはお前と同じように気持ち悪くなっていたものだよ。だがワタシにはワタシにしかない明確な〝自我〟があった──それが救いとなったとも言えよう」
「〝僕〟にしかない明確な自我?」
「ワタシは自分図書館の館長」
──〝魔女〟である。
だからこそ明確な違いを見出せていた、と館長は囀って僕にお菓子をねだる。テーブルランプに映し出されているクッキー缶の影からひとつ、クッキーを取り出して館長の影に持って行ってやる。
──待て、影なんだからお前も手使えるだろ。
「嫌だ」
「なんでそんなに嫌なんだ?」
「知らん」
「……四百年間〝僕〟を探し続けているんだろ? 〝僕〟について何かわかったことはあるのか?」
「ん~……魔女たるワタシが特別であるという確信だけは持てたがなあ」
──だからこそ余計にわからなくなった、と館長は首をひねる。
魔女。
世界を渡り歩き、世界の狭間に図書館を創ってしまえるほどの魔女。
なるほどと納得する。〝魔女〟という自覚がある館長にとっちゃ、〝魔女〟でない〝僕〟らとは明確な境界線がある。
「だからこそ厄介、というのもある。ワタシの故郷は地球系列平行世界のどれか──それは間違いない。だが地球系列平行世界で〝魔女〟がいる世界を探してみても該当せんのだ」
「〝魔女〟がいる世界……」
「たくさんあるのだぞ? 魔法が使える世界だとか、魔法少女とか変身ヒーローとかがいる世界だとか、非魔法族と魔法族で区別されている世界だとか、魔女が永遠に循環している世界だとか」
だがどれもワタシの世界ではなかった。
そう言って館長はごろりと寝転がり、僕の膝に頭を載せる。相変わらず蓑虫のようにぼうぼうと伸びた髪を手ぐしで整えてやりつつ、館長のような魔女がいなかったのか問う。
「魔女たるワタシに際限はない。なぜならば、魔女だからだ。だが数多の世界に蔓延る魔女は魔女ではない。魔法が使える女を魔女と呼称しているに過ぎない」
「……違うのか?」
「違うな。ワタシは魔女だが、アレらは生物だ」
「せい、ぶつ……人間じゃなくて?」
「ワタシだって人間だぞ。だが、人間である以前にワタシは魔女だ。アレらも同様に人間だが、人間である以前に生物なのだ」
「……すまんが意味わかんねえ」
「生命であるか魔女であるか、その違いであろう」
唐突にぎいぎいといびつな音を立てて作動しだしたラジカセから、〝僕〟の声が流れる。驚愕する僕をよそに館長はごろりと態勢を変えてラジカセを見上げ、その通りだと肯定する。
「我々は──私と、そこの私もどきは基盤が生命体だ。生きているかどうかはさておき、根本は血肉で構築されたヒト生命体に過ぎない。だがそこの私もどきは違う──根底が〝魔女〟だ。つまりは、そういうことなのだろう?」
きいきい、きいきいとラジカセが本来の機能とは違う方向に捻じ曲げられたことによるいびつな音を立てながら──ラジカセの影に触れている〝僕〟の、声を形にする。
影に成ったことで声帯を失いはしたが、こうやって影を介して言葉を作ることは可能──と、いうことだろうか。
それはともかく。
「……館長は命ある生き物、じゃない……のか?」
「元からそうだったのかはわからんが、少なくとも今のワタシは一個の生命体ではない──魔女だ」
魔女であり、魔女でしかない。
館長に〝命〟の概念はない。何故ならば、魔女だから。だから四百年もの時を過ごしてなお不変でいられるし、有象無象の現象を操るばかりか世界を渡り歩くことができる。何故ならば、魔女だから。
「私から見れば私もどき、君もまた既に生命体からは逸脱しているように見えるがね。影たる私が言えたことではないが」
〝僕〟の言葉に、僕はなんとなしに胸に手を置く。
とくとくと、鼓動がする。指先を血が流れる感覚もある。呼吸もあるし体温だって人並みだ。
けれど、なんでだろう。
〝僕はちゃんと生きている〟と、言い返すことができなかった。
【愉悦】