【水もろこし】
雨粒のような果実がたっぷり実ったとうもろこし。ひと粒ひと粒が水滴そのもので、光にかざせばきらりと輝く。芯だけはきちんと色が通っていて、色を持たぬ水の果実によく映える薄い藍色、浅葱色をしている。
「とても信じられませんわ。なんて神秘的なとうもろこしなのでしょう」
大鍋に水を張り、沸かしながらメイドさんが雨粒を実らせたとうもろこし──正式名称、水もろこしを手にうっとりと見惚れる。
「感触はとうもろこしと変わりませんわね。……茹でてしまって大丈夫なのでしょうか?」
「大丈夫みたいですよ。あっちでも茹でて食べているそうですし」
「食べるのがもったいないくらいですわね」
メイドさんはくるくる、くるくると楽しそうに水もろこしを手元で弄ぶ。水もろこし越しにメイドさんの胸元で輝くサファイアのタイリボンが輝いていて、まるで水もろこしの粒ひとつひとつがサファイアの宝石と化したよう。
「足マットの次はブラジャーと呼ばれたいか。さすがの我輩も引くぞ」
「いきなり出てきていきなり何ぬかしてんだてめえ」
てめえじゃあるめえし、いくらメイドさんが巨乳だからって〝僕〟に欲情しねえよ。
「そうか? 〝我輩〟であるぞ──興奮するだろう」
「しねえよ」
「我輩はするがな?」
「僕を見るな」
くそ、ナルシストはナルシストでもこいつのナルシズムはレベルが違う。自己愛性パーソナリティ障害とはワケが違う。自己愛性パーソナリティ障害は自分を自分ではなく〝特別〟と認識する類のものだから執事さんとはまるで違う。執事さんはありのままの自分どころか、〝自分〟でさえあればそれがどんな欠点であろうと欠損であろうと欠落であろうと欠陥であろうと愛する。愛し抜く。愛してやまない。
一応、酩酊状態のメイドさんには手を出さないとかポリシーはあるみたいだが。執事さんの自己愛、どころじゃない自分愛っぷりは常軌を逸している。常軌を逸しているというか、もはや踏み外している。しかも自分から進んで。むしろ常軌を自分で爆破している。
執事さんやメイドさんとの付き合いもそれなりに長くなってきたけれど、執事さんは相当我が立っているなあとつくづく思う。メイドさんと館長も立ってるっちゃ立ってるが、執事さんに比べるとちょっと劣る。なんというか、メイドさんも館長も我が強いっちゃ強いんだが……どこか、ぼんやりとしたところがあるんだよな。もちろん、僕という〝僕〟も含めて。
「足マットさま、茹で時間はどの程度でございましょう?」
「ああ、水もろこしがお湯に浮いたら大丈夫だそうです」
メイドさんはなるほど、と沸かした湯の中に水もろこしを数本沈める。水もろこしは鍋の底に沈み、雨粒のような粒が湯と同化して浅葱色の芯しか見えなくなる。
水もろこしは滅んだ世界における貴重な栄養源のひとつで、沈み畑という珍しい、ってか見たこともない栽培方式によって育てられている野菜だった。栽培方式ってか……水に沈んだかつての畑を利用しているというか。村の人たちみんな素潜りに長けていて、五歳くらいの子どもでも二分ほどの潜水をして魚を獲っていた。
酸素パールはスコープレンジのような長時間潜水及び長距離移動者しか使わないらしく、村の人たちは水草を噛んで酸素を絞りながら作業していた。
「おやつの匂いがするぞ!」
ばぁーん、と扉を蹴り開けて大量の万年筆と紙をファンネルの如く背後で舞わせている館長が入ってきた。
それを見計らったかのように、ぷかりと水もろこしが浮く。
◆◇◆
「もきゅきゅきゅきゅきゅ」
執事さんが膝に館長を載せて水もろこしを構え、館長がものすごい勢いで粒を消費していくのに合わせて芯を回転していく。それを眺めつつ、僕も粗熱が取れてほどよいぬくさになった水もろこしにかぶりついた。
浅葱色の芯に雨粒の実が茂った水もろこし。感触はとうもろこしそのもの──茹でた後も、とうもろこしそのもの。けれど歯を立てて数粒かじり取ると、とうもろこしのそれとは比べ物にならないほどの甘みが舌を滑り落ちる。くどい甘さではない。とうもろこしというよりはじゃがいもに近いだろうか。ひと粒ひと粒はシャキシャキとしていて歯応えがあるが、歯を立てるとぶつっと皮が弾け飛んでほこほこと温かく柔らかいペースト状の中身が出てくる。ペースト状ではあるが、どろっと形が崩れるような柔いものではない。数粒の水もろこしから出てきたペースト状の実をまとめて噛み締めるとますます、とうもろこしというよりはじゃがいもを食べているような気分になる。
「うまいけど、僕は普通のとうもろこしの方が好きだな」
「そのまま召し上がるよりは具材のひとつとしてお使いになる方がよろしいかもしれませんわね。サラダに和えますと見栄えもよくなることでしょう」
「なるほど──しかし見た目透明なのに中身が詰まってるってのが、不思議ですね。どうなってるんだ?」
そうぼやきつつ、水もろこしからひと粒指でもぎり取って皮を剥いてみる。皮がある状態でのひと粒は雨粒そのもののよう。けれどひと皮剥いたそれは、雨粒というよりは薄霜の張った氷のよう。何故皮を剥いた後の方が透明度が落ちるんだ、と首を傾げる。
「その皮が光を屈折させているんだ。要はステルス迷彩──水クラゲほどじゃないが、水もろこしも外敵から身を守るために水の中で生き抜く進化をしたってところだな」
「なるほど」
滅んだ世界で新たなる進化の道を辿る野菜、か。
そのロマンに右手がうずくが、残念ながらうずきを落ち着かせてくれるカメラはどこにもない。
館長に言えば調達してくれるか、あるいは調達しに渡る世界を選んでくれるかもしれない──が、なんとなく僕は館長に頼む気になれなかった。
カメラが欲しい。うずく右手を落ち着かせるカメラが、欲しい。右手がうずくままにファインダーを覗き込みたい。右手がうずくままにシャッターを切りたい。
けれど、なんとなくそこらにあるカメラでは嫌だった。
僕が愛用していたであろうカメラはCYANONのFOS XⅨ。一眼レフのデジカメ。性能、使い勝手ともに評判がよく優れてはいるが最高級の一品というわけでもない。むしろ一眼レフ初心者にいいとされるカメラであったはずだ。
「…………」
たとえ同じものが目の前にあろうと、僕の右手はそれを手に取ろうとはしない。
その理由が──僕にはやはり、思い出せない。思い出そうとしても途中で思考に霞がかかって考えるのすらままならなくなる。
はあ、とため息を吐きつつ水もろこしにかぶりついた。