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自分図書館  作者: 椿 冬華
第一幕 「僕」の章
22/138

【生肉】




 電車の音がする。




 鼻孔を(くすぐ)る湿気って苔臭い土の匂いに目を覚ます。

 電車の音はもうしない。代わりに、すすり泣きが聞こえる。すすり泣きってか、すすり鳴き……。


「きゅぅううぅん……」


 虎がむっちゃ心配そうに僕を見下ろしていた。へにょんとトラミミが垂れ下がっていて、不覚にも可愛いと思ってしまった。


「起きたか。ほれ、血抜きはしておいたから喰え」


 と、館長の声がしたかと思えばべちゃりと顔面に赤い何かが被された。生臭く生暖かく、それでいて生々しい感触──生肉だった。


 死体。


「ッ」


 脳裏に蘇った肉塊でしかない人間に反射的に飛び起き、顔面から生肉を払いのける。

 死体は、どこにもなかった。代わりに多少形はいびつであるものの、僕の知っている〝生肉〟が転がっているだけだった。


「…………」


 館長が処理してくれたのだろう、ということはすぐわかった。わかったけれど、わかったからといって。

 あの生肉が元は人間の死体であったことには変わりない。


「食べないと虎が心配し続けるぞ」

「きゅううぅぅうん」


 僕が払いのけた生肉を咥え、ぽとりと目の前に落とした虎はひどく心配そうな顔をしていた。それは、そうだろう。虎の中では僕と館長はまだあどけない子どもなのだ。子どもが食べなかったら、心配する。


「…………」


 虎の今にも泣きそうな顔に圧される形で、足元の生肉を拾う。人間。違う。違う。違う違う、考えるな。考えるな──これは牛肉だ。そう、牛肉。人間違う。違う。

 生肉についた土汚れを払い落として、震える手で口元に持っていく。心なしか──唇も震えている気がする。血という血が僕の上半身から足元に向けて流れ落ちてしまったように、とても寒い。冷たい。指先が、かじむ。


 だめだ。

 どう頑張っても人間の肉にしか見えない。もう死体はどこにもないのに。ぱっと見、よく見る加工肉と同じなのに。アレは人間の形をしているだけで牛だってわかっているのに。


 やっぱり、人間の肉だ。


「生きる、それ即ち生命(いのち)を喰らうこと」


 喰らえ。

 自分以外の生を喰らい、生き延びろ。

 それがこの世界の掟だ。

 自由であるための、掟だ。


「ッ……」


 館長の声に背中を押される形で、ぎゅっと両瞼を握り込んだ拳のように強く強く瞑って、思いっきり生肉に喰らいついた。

 犬である僕の犬歯はいとも容易く生肉に穴を開けて食い込み、顎にぐっと力を入れて顔を引くだけで面白いほどに千切れていく。胃液が逆流してこようとしているのを根性で抑えつけつつ、口内に入れた生肉に再び歯を立てる。いくら血抜きをしたとはいえ、専門の業者もいなければ専用の設備もないところで行った血抜きである。歯を嚙合わせるうちに血が滲み出て口内いっぱいに血錆の香りが満ちる。

 けれどそれでも、歯を噛み合わせるのを止めない。止めることはこの世界においては、死を意味する。

 図書館に帰ればおいしい食事が待っているのだから少しくらい食事抜きでも、と思うが──それはしたくなかった。どうしてかは、うまく説明できない。説明できないが……なんとなく、冒涜しているような気分になるのだ。世界を、冒涜しているような気分に。


渡界者(旅行者)の鑑だな」


 旅行者──ああ、旅行者。確かに。郷に入れば郷に従え。旅先の風土を踏み荒らすことなかれ。なるほど、旅行者としてのマナー。そうかもしれない。


「…………牛ユッケ、みたいだな」

「牛だからな」


 ……うん、牛だ。いや、鳥や豚の生食はしたことねえだろうけど……僕の体が覚えている生食肉に近い。牛ユッケとか馬刺とか。

 調味料が欲しいところだが、そんな贅沢言っていられないので我慢してひたすらモシャる。虎が嬉しそうにターンターンしっぽを打っているのがなんだかかわいい。くそ、コスプレ風味虎(それも雄)のくせに。


「もっと食べるか?」

「……ああ」


 まだ脳裏から死体は離れない。

 うつろな死んだ人間の目が僕を見つめているような感覚がある。

 けれど、そういうものなのだろうと思う。

 生きるために喰らうとは、そういうことなのだろうと──思う。


 生きること、それ即ち生を喰らうことと自覚せよ。


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