【焼き本】
窓の外には何も見えない。
空どころか庭さえない。ただ、不思議な空間が広がっているだけだ。イメージとしてはタイムマシンで移動する時に通る空間みたいな──タイムマシン? 実在するわけがない。……青い猫型ロボットの……そうだ、未来からやってきた青い猫型ロボットの物語。……どこで僕はそれを──いや、やめよう。
ともかく色彩も空間も、それどころか次元さえも不安定な景色が窓の外に広がっている。ここ、〝自分図書館〟に外はない。そもそも、扉がない。窓も固定されている。
〝僕〟──館長曰く、世界と世界の狭間にあるらしいが、意味は当然、わかっていない。
「おはようございます、雑用さま」
「おはよう、ございますメイドさん。……おはよう、でいいんですかね」
「こちらに時間の概念はございませんものね。ですが代わりに、あの振り子時計が時間の役割を果たしてくださっていますわ」
昨夜──と、言っていいのかわからないけれど、ともかく四体の〝僕〟でカレーをつついた時からひと眠り経た今。
厨房の壁際に置かれている巨大な、柱と見紛うほどに巨大なダークウッド色の振り子時計。錆色の振り子が時を刻んでいて、けれど奇妙なことに文字版の部分には針がない。代わりに、数字が並んでいる。
四四八年目 〇二ヶ月〇一日 〇六時間三六分
「四百四十八年目……?」
「館長さまがこちらに住まわれるようになってからの時間を記録していらっしゃるようですわ。この振り子が三十往復して左端の〝分〟の数値が一、増えますの。それが六十溜まれば〝時間〟が一、増加いたします。〝時間〟は二十四まで数えられておりまして、二十四で〝日〟が一増えます。〝日〟は三十、〝月〟は十二」
……ややこしい言い方してるが、要は〝今〟は四百四十八年二ヶ月と一日、六時間半ば過ぎたあたりってことで──いや、ちょっと待て。
「館長がここに住むようになってから、四百四十八年目?」
「そのようですわね」
館長さまは長生きでいらっしゃいますわよね、とメイドさんは微笑む。いや、微笑んで済ませられるほどの次元ではないだろう。記憶がなくても、そのあたりはわかる。
「確かに仰る通りでございますわね。長くても三百年しか生きられない人間が、四百年以上も生きるだなんて」
「さん……びゃく?」
はて──人間は、そんなに生きただろうか。
「それよりも雑用さま、ご朝食を召し上がられてはいかが? 本日のご朝食はホットサンドですわ」
「ほっと……さんど?」
メイドさんに促されてダイニングテーブルに着いた僕の目の前に、焼きたてほかほかの革張りの本がどんっと置かれる。ふわりと鼻孔を擽る香りは焼きたてトーストのようなのだが、目の前にあるのは本。そう、本だ。紛うことなく本だ。
沈黙が、流れる。
「召し上がりませんの?」
「……え? ……え……これ……え……」
〝本〟というものは……食べられるもの、だっただろうか。そんなことは……なかった、と思うのだが。
「……? ……ああ! 申し訳ございません、こちら〝可食物質系列世界〟の書物でございますわ。雑用さまの住まわれていた世界は可食物質世界ではございませんのね」
「かしょく……ぶっしつ?」
「食べることが可能な物質、それのみで構築されている世界ですわ。わたくしもはじめてその存在を知った時は驚きのあまり、自分の常識とは何かを問うたものでございます」
ここ、自分図書館には〝外〟がない。
だから代わりに、館長が繋げるありとあらゆる世界から食料や日用品を融通しているのだという。
そして目の前にあるこの焼きたてほかほか革張りの本は、そのありとあらゆる世界のひとつ──木々や花、建造物に地面に挙句の果てには雲や星さえ食べられるという〝可食物質系列世界〟とやらで購入したものなんだそう、だ。
意味がわからなかった。
「見た目は書物そのものではありますが、味はきちんとホットサンドですわよ。どうぞ、召し上がりなさいな」
「は……はあ」
優雅で美しくも、どこか逆らう余地を許さない高圧的な微笑みに圧されて、僕は恐る恐る焼きたてほかほか革張りの本に手を伸ばす。感触──革。重み──本。匂い──あ、トーストだ。バター香る焼きたてパンの匂いだ。でも、本だ。間違いなく──本だ。
化かされているのか、とメイドさんを見やるが変わらず高圧的で美しい微笑みを浮かべているだけだ。嘘をついているかどうかは──わからない。わかるか。
だが食べないという選択肢は、なさそうだ。──ええいままよ、と本の片隅にかぶりつく。ぐに、と歯が革特有のゴムっぽい質感を覚える。ああやっぱり本だ、と思った矢先にざくっと歯が革を裂く。瞬時、ぶわりとバターの香りが口内を満たして、舌先にもパン特有のさくさくとした感触が載る。
パンだ。
手触りは本、それは間違いない。革張りの本そのものだ。歯触りも、最初の一瞬は革靴を噛んでいるようだった。いや、革靴を噛んだことは──ない、んじゃないかなあ……? たぶん……。
けれど歯をより強く突き立てるとざくっと革が切れて、〝パン〟が芽を出してくる。一度芽を出してしまえばそれはもう本ではなくパンで、僕はもしゃもしゃと本のかけらを咀嚼しつつ、不思議な気分に陥る。当然だ──記憶はないけれど、僕の中で〝本〟は読むものであって食べるものじゃない。でも、これはパンだ。うん、パンだ。
……意味がわからない。
「働きもせず悠々と先んじて食事を摂るとは、いい身分であるな」
そんな辛辣な声とともに執事さんが黒い蓑虫を──いや、館長だ。館長を担いで厨房にやってきた。執事さんは館長をダイニングテーブルに下ろすと自分も席に着いて、優雅に足を組む。──やっぱり、執事っぽくない。
館長の方は寝起きでもにゃもにゃと寝ぼけている。メイドさんが焼き本──いや、ホットサンドを館長の前に置いたのだけれど、もにゃもにゃと口が動くばかりで手が動いていな──ああ、そうか。拘束してるんだった。でも昨夜はカレーを食べる時、スプーンを浮かして食べていた。万年筆や紙を浮かしていたのと同じように。
「おい、雑用」
「えっハイ」
「主人を差し置いて食べる食事は美味であろうなぁ?」
「…………」
要は僕に館長の食事の世話をしろってこと、なんだろうけど──それを言うなら主人を差し置いてもしゃもしゃ焼き本を食べている執事さんとメイドさんは何なのだろうか。そう、メイドさんまで席に着いてもしゃもしゃ焼き本を食べている。それはそれはおいしそうに。
「執事さんとメイドさんは……」
「我輩、腹が減っておるのでな」
「わたくし、食事で忙しいのですわ」
「……さいですか」
──昨夜、館長が言っていたことが正しければ執事さんもメイドさんも〝自分〟を知らないはずだ。僕と同じように、〝僕〟を失っている。記憶を、失っている。
自分を、失っている。
──そのくせに、随分と我の強い〝僕〟だ。
そうひとりごちつつ、僕は館長の目の前にある焼き本を持ち上げて口元に運んでやる。もしゃもしゃとエア咀嚼していた館長が本に喰らいつく。昨夜のように本を浮かしてくれればいいものを、館長はうつらうつらと舟を漕ぎながら本をモシャるだけで持ち上げる様子がない。
……え? 館長食べ終わるまでこのまま?