第十自我 【存在しない自我】
第十自我 【存在しない自我】
この世界に明確な番号はつけていない。そう館長は言った。
ありとあらゆる世界の、ありとあらゆるものから忘れられたものたちが集められた世界。
〝存在しない世界〟──そうとだけ、館長は呼んでいる。
「なんだかごちゃっとしているな……」
ゴミ溜め、とでも言えばいいのか。
言葉にするのも難しい、というか見ても説明ができない……よくわからない何かで、埋め尽くされている世界だった。そう、まるで何も認識できない〝虚無〟のような……とは言っても〝虚無〟ほどの不可認識性はない。一応色はわかるし、形も認識できる。だがそれ以上の言葉が見つからないのだ。説明しようとしても、言葉が見つからない。
「忘れられているからな。言葉なんて見つかるワケがないさ」
ここはそういうところなんだ、と言って館長は足元に転がっていた何かを蹴る。ボールではない。でも、でも……でも、ああ、何故だ? 言葉が見つからない。色はわかるし、形も認識できるのにそれを言葉にできない。
なんだ、このもどかしさ。
ある意味──〝虚無〟以上に厄介だ。背中の痒いところに手が届かないもどかしさ、というのか。
「……〝僕〟はいるのか?」
「さあな。なんせ存在しないやつらだ。いたとしても〝ワタシ〟だと認識できないだろうよ」
「館長にはわかるんじゃねえのか?」
「わかるが、わかったところで何の意味がある? 存在しないのに」
存在しない。
──ぐっと胸が苦しくなる。我輩は一時でも、ここにもしもレンがいてくれたらと希望を見出してしまった。いたところで、それが何だ。いるということは即ち。
我輩にさえ、忘れられているということではないか。
存在しないものを認識することは叶わない。
我輩にさえも、認識できない。
嫌すぎる。考えたくもない展開だ。
「またいらしたのですね、魔女さま」
声をかけられたと認識したのは、館長がやあとそれに応えてからだった。館長が視認して、ようやく我輩たちにもそれを認識できた。
女性だった。
紫黒色の波打つ髪を背中で揺蕩わせている、憂いを帯びた海のような眼差しが印象的な女性。だが、我輩たちにできた認識はそこまでだった。館長を通して、姿を認識できる。それだけで存在を認知できない。存在しないものは存在しない。
奇妙な感覚だった。女性である、それはわかるのにどういう女性なのかまるで掴めない。第一印象、というのは誰しも持ちうる、感じうるものだ。だがそれがわからない。認識できない。憂いを帯びた眼差しから何かを読み取れそうなのに、それ以上の思考がままならない。〝虚無〟ほどの不可認識性はないが、手が届かない。もどかしい。むず痒い。
「元気そうだな、誰かでもないし何かでもないさん」
「ええ。ここは変わらず、存在しないものが存在しないままです」
女性は微笑む。だが、感情が読み取れない。心情を慮ることができない。何もない紙面に押下されただけの、笑顔のスタンプマーク。意味も意図も意匠も組めない、紙面のスタンプマーク。それを見ているような、心地。
「…………確かに、ここにレンがいるはずがない」
「レンさま。お名前がおありなのですね。でしたらきちんと存在しておりますから、存在しないわけがございませんわ」
我輩の言葉に女性が答える。答えられたと気付くのに、八秒ほどかかった。館長が我輩の代わりに首肯したことでようやく、答えに応えることができた。
「えぇっと……なんて呼べば?」
「誰かでもないし何かでもないさん」
「長い」
「じゃあ〝IT〟で」
IT。それ。
合わない名前だと、思ってしまった。女性は〝それ〟と呼べるほど固有ではないし名詞でもないと思ってしまった。
「だから誰かでもないし何かでもないさん、なんだよ」
存在しないとは、そういうことだ。
そう言って嗤う館長に、女性も同様に微笑む。
「…………〝IT〟さんは、何故ここに?」
存在しないから。
どれいの問いかけに対する女性の答えは、十数秒ほど経って館長を通してやっと認識できた。確かに何故ここにいるのかの答えは、それ以外にない。なくて当然だ。存在しないから存在しない。
「ま、代わりにワタシが説明してやるとだ。〝IT〟はな、元の世界で存在しなかったことになったんだ。生まれなかったことになった。受精卵であった時期さえない。最初からいなかったことになった。だからここにいる」
最初からいなかったことに。
「こういう事象は稀だ。と、いうのはわかるな? おい柊どれい、人はいつ死ぬと思う?」
「どこぞのドクターみてえなこと聞くな。……〝……人に、忘れられた時さ……!!〟か?」
「お前も好きなんじゃないかあのシーン。さて、柊どれいが再現してくれた通り、生きとし生けるもの、ありとあらゆる現象は滅んでも〝存在しない〟ことにはならん。記憶は残るし、糧として次世代に受け継がれる」
たとえ孤独死した独り身の老人であろうと、死してなおゼロにはならない。無縁仏として埋葬されようと海に遺棄されようと〝存在しなかった〟ことにはならない。
だからこの世界は非情に稀なのだと言って、館長は嗤う。
「世界から弾かれる枠外者さえ、奇跡的にワタシの図書館に堕ちて生き残ったレア枠外者のお前らさえ超超超超超ちょ~珍しくない」
〝存在しない〟に成るとは、そういうことだ。
「ですが……そうですね、察するにレンさまという御方をお探しなのでしょうか? でしたら〝忘らるる場所〟へ行ってみますか?」
館長に促されて認識した〝IT〟からの提案に、忘らるる場所とは何だと問い返せば〝存在しない〟手前の場所だと返ってきた。
それから案内すると言われてついていくことになったのだが、〝IT〟をすぐ見失ってしまった。一旦姿を認識してもすぐ見失う。視野狭窄にでも陥ったような心地だった。視線で追おうにも区別がつかない。〝存在しない世界〟の存在しないものたちの区別がつかない。木の葉が森の中に飛んで行って見失うような。そこら辺の小石を一旦視認しても、いざ改めて注目しようとすると何処だったのか忘れるような。妖怪リモコン隠しに出会ったような──いやこれは違うか。
ともあれ追うのもままならなかったため、〝IT〟を館長が追って、その館長を我輩たちが追う形になった。
「変な感覚だ。町っぽいけど、町だって認識できない」
写真にも残らない、と言ってどれいがカメラのモニターを見せてくる。ただ黒いだけの失敗写真にしか見えない画面だ。
「存在しないものはカメラでも撮れませんもの。幽霊とて、存在するから映るものなのですし」
館長を介して認識した〝IT〟の言葉に、つくづくこの世界がどれだけ色褪せた世界なのか噛み締めてしまう。
「〝IT〟さまは……こちらで何をなさっておられるのですか?」
「わたしですか? 存在していないだけです。何かをするわけでもなく、誰かと関わるわけでもない……ただ存在しないだけ」
「……そんな」
そんなのは、と言葉をそれ以上続けはしなかったもののドレーミアは切なげに瞳を揺らす。存在しない〝IT〟に感情移入はできない。ただ館長を介して脳内で作り上げた、名もなき忘れられた少女というイメージへの憐憫で胸を痛めているだけだ。
今目の前にいる〝IT〟に対してではなく。
脳内で作り上げたフィクションに対して。
そうでしか──〝IT〟を認識することができない。
存在しないとは、存在しないということ。
「わたしはわたしが望んで存在しなくなりました」
「え?」
「望まず、あるいは何も考えず存在しなくなるものが大半を占める中、わたしはわたしの意志で存在しなくなりました。なので〝存在しない〟がわたしの存在理由なのです」
そう言って憂いを帯びた微笑みを浮かべる〝IT〟は、かすかではあるが館長を介さずとも認識できる程度に個を持っていた。
儚くも強く、美しい女性であった。
◆◇◆
「ここが〝忘らるる場所〟です」
存在しない世界の、町っぽいが町ではない何かを通り抜けて森っぽいが森ではない何かを超えた先に広がっていた領域。
忘れられ、また思い出される場所。
不安定な空間だった。〝IT〟ら存在しないものたちと違ってそれらはきちんと認識できた。古びた家。ひっそりと佇むビル。ビルとビルに挟まれて息を潜めているゴミの山。道端に溢れている何の用途なのかわからない道具の山。壊れてはいなさそうだが使い道が一切思いつかない謎の機械。乗り物のように見えるしただの置物にも見えるモニュメント。何か不思議な実をぶら下げている木。何かよくわからないがとりあえず綺麗な花。なんか見たことあるような気がしなくもない豹っぽい獣。家の中から外をぼうっと眺めているよくわからない男。
色々、色々。
それらが現れては消えて、また別の者が現れてはまた消える。消えないものもあれば現れてすぐ消えるものもある。
「あれ、なんだったけアレ……なんか見たことあるような……なんだったけ……ちっちゃい頃見た気がするんだけど……絶対見たはずなんだけど……」
どれいがある一点──ピンクの、顔は見えないがぬいぐるみみたいな何かを見て唸っている。ひょいっと館長がどれいの腕に顔をねじ込んで、助け船を出した。
「ポスト」
「そうだモモだ!! ポストペットモモだ!!」
どれいが叫んだ瞬間、そこにあったピンクの何かが消えた。驚くどれいに、〝IT〟が答えをくれる。
「〝忘らるる場所〟は世界から忘れられたものが集まる場所。けれどふとした拍子に思い出されれば元の世界へ戻ってゆく場所」
モノやヒトだけではない。〝言葉〟〝人格〟〝概念〟──例えば歴史上の偉人。書物に遺された名前や人格は後世に遺り続ける。だが映像が絵画のみであった場合、本来の姿形はどこにも遺らない。関係者が死んでいくにつれ、遺伝子を同じくする者たちの血が薄まっていくにつれ忘れられていく。だから忘れられた〝外見〟もここにはあるのだと〝IT〟は語る。
「もう使われなくなった言葉。辞書どころか記録にさえ残らなかった名前。改竄されたことさえ知られなくなった歴史。そういった様々がここにあるのです。そして忘れられたものがいよいよ、忘れられた事実さえ失えば──」
存在しないものに、なる。
「こちらに、レンさまはいらっしゃると思われますか?」
「いない」
見て回りに行かずともわかった。
〝存在しない世界〟にレンはいないし、〝忘らるる場所〟にもレンはいない。何百万回もの人生を経て確かに、最初のころの記憶は薄い。ニワトリが先かタマゴが先か、という問いかけではないが……何が最初だったのか、もう憶えていない。
その時代の我輩とレンならばここにいるのかもしれないが、いたとて我輩やレンの魂そのものではない。忘れ去られた当時の記憶、ただそれだけだ。
「そうですね」
〝IT〟が、頷く。
「この世界にいらっしゃるのは、消滅さえ許されない存在しないものたちですから。消滅は、存在しているからこそできることですもの」
〝IT〟は、憂う。
「レンさまは今確かに、あなたの中にいらっしゃいます。間違いなく、存在しています。紛うことなく、存在しているものです。〝忘らるる場所〟に現れることさえ、あなたが存在する限りひと時たりとてないでしょう。とても素敵なことです」
〝IT〟が、微笑む。
我輩は──喜んでいいのかどうか、わからなかった。
逝くつもりだった。
レンがどこにもいない以上、逝くしか道はないと思った。だが、この女性は言う。我輩が存在している限りレンがここに来ることはないだろう、と。
じゃあ、我輩が逝ったらどうなるのだ?
〝シュヴァルツヴァイス〟にレンのことを憶えているやつがまだいるとは思えない。我輩については館長たちが知っているから、たとえ逝ったとて〝忘らるる場所〟に行くことはないだろう。だがレンはどうだ? 館長たちが知っているのは、我輩の妻だという、ただそれだけの事実だ。レンのことなんて知らない。
我輩は、本当に逝っていいのか?
「……謀ったな、館長」
「さてな」
追い詰められた気分だった。
逝くつもりであったのに、ここに来て──〝存在しない世界〟と〝忘らるる場所〟を知って──途端に、正しい道が見えなくなった。
我輩が存在する限りレンはここに来ない。我輩は逝っても館長たちがいるからここには来れない。しかし我輩が逝けばレンを知る存在がいなくなる。
「言っておくが、生者と死者とではエネルギー量からして違う。死者が記憶してたとて、微細なエネルギーだ。生者に忘れられる事実には打ち勝てん」
ああ、逝ってなお我輩の存在ひとつでレンを繋ぎとめる術さえ、館長が閉ざす。
館長に、追い詰められる。
だが──今度はドレーミアもどれいも、館長を止める様子がない。
「そんなに、我輩を苦しめたいか」
「バカかお前は。死なせたくないだけだ」
ぶっきらぼうな館長の言葉が、やけに刺さる。
「我輩は……どうすればいいのだ……」
死にたいわけじゃない。館長やどれい、ドレーミアとて我輩にとっては大切な存在だ。だが、それ以上にレンは特別なのだ。
レンは、唯一なのだ。
我輩の、唯一なのだ。
「もう少し時間をくれ」
珍しく、館長が切羽詰まったような声で語りかけてきた。
ドレーミアが我輩に寄り添って、そっと右腕を抱き込んでくる。どれいも背後に回ってきて、いつでも動きを封じられるように我輩の肩に手を置いた。
「今、〝虚無〟を分析している。ワタシならば消滅した魂でもどうにかできるかもしれん。だから待ってくれ」
「…………」
つい、館長を凝視してしまった。
らしくもなく真面目な面持ちの館長に、自然と目が丸くなる。
「どれいさえ生き返らせられないのにか」
「それでも、だ。ワタシは自分図書館の館長」
──魔女である。
だから時間をくれ。
死なないでくれ。
置いて、行かないでくれ。
「頼む」
理不尽を生き、不条理を馳せる〝魔女〟のあまりにもらしくない、拍子抜けするほどに人間臭い懇願に──我輩はふっと自嘲めいた笑みを零して、ドレーミアの手を撫でつけてから内ポケットに入れておいた小型拳銃を手に取る。
手に取って、放り投げた。
酷な奴らだと、恨めしくなる。
「──自殺する気が失せた」
もう我輩に小型拳銃は必要ない。もう無理だ。もう、死ねない。
「ドレイクさま……」「ドレイクさん」
「お前らは最悪であるな。毎度毎度、我輩の足を引っ張ってばかりで」
「ドレイク」
「特にお前だ、お前。お前、わかっているのか。我輩に生き地獄を生き抜けと言っておるのだぞ。どうせ〝虚無〟の懐柔には億単位で年月を要するだろうに」
「いや、那由多単位」
「兆飛び越えるどころではないな。何が少しだ。最悪だ。最低だ」
ああ、本当に敵わない。
こいつらには──敵わない。
「──やるからにはやってもらうぞ、館長」
「わかった」
「これで腹括るのは何回目だ、我輩」
「百回目くらいじゃね」
「案外乙女ですわよね、ドレイクさま」
「うるさい」
本当に最悪だ、こいつら。
「また凹んでもわたくしが無理矢理凸らせますからご安心くださいませ」
「凹みドレイクさん記録つけようかな」
「ドレイクの嫁再構築成功時に見せる黒歴史ノートだな!」
「本当に最低であるな、お前ら」
だが、安堵している自分が何処かにいる。
我輩がこんなに無様でも、惨めったらしくても、醜悪でも。
こいつらは絶対に、我輩を見捨てない。
そんな──安心感。
「ヒロインはドレイク」
「だなあ」「ですわね」
「うるさい」
レン。
我輩の、最愛の妻。
──ドレイク……!!
大丈夫だ。
お前が消えるようなことには、絶対にさせない。ならせない。お前を〝存在しない世界〟の住人にも、〝忘らるる場所〟の遺物にもさせない。
「──ええ。ここは来るべき場所ではありませんし、来なくていい場所ですし、来てはならない場所ですし、来れない場所です。〝存在しないもの〟にだけは、なってはいけません」
やはり館長を介してしか認識できない〝IT〟の言葉に、我輩は頷く。〝IT〟本人に言うのは酷かもしれないが──ここは来ていい場所ではない。〝忘らるる場所〟はまだしも、〝存在しない世界〟の住人にだけはなってはいけない。
「住人ですら、ありませんけれどね。存在しないから、存在していないだけです」
謎かけにしか思えない言葉を紡いで、やはり〝IT〟は憂いを帯びた微笑みを浮かべる。
「……あの、ですが〝IT〟さま」
「はい、何でしょう?」
「……。……あっ、お返事されたのですね。ありがとうございます。えっと……館長さまはこの通り、〝IT〟さまを認識されておいでですよね?」
「まあそうだな」
ワタシだからな、とドヤ顔してみせる館長の頬をどれいがむにょる。
「それでも〝存在しない〟ままなのですか? あの、例えば館長さまがお名前をお付けになって個を持たせるとか……」
「それはわたしが断りました」
〝IT〟は、やはり憂いを帯びた微笑みを浮かべる。
そして海よりも深く、果てしない群青色の眼差しを我輩たちに向ける。青いと認識できるだけで眼差しの奥に宿る感情まではわからない。やはり、認識できない。紙面に押された笑顔のスタンプマークのように、読めない。全く読めない。
「図書館で働かないかと、〝ワタシ〟ではないけれど特別だと、そう以前お誘いいただきました。とても嬉しかったですけれど、お断りしました」
「なぜ……」
「綻んではいけないから。わたしが少しでも〝存在する〟ことになってしまえば、わたしが〝存在しない〟ことで守れたあの世界が壊れてしまうかもしれないから」
「こう言って聞かないんだ。いくらワタシが大丈夫だって言っても万が一があるからって聞かない」
館長が頑固者め、とため息を吐く。〝我輩〟ですらない赤の他人に館長が入れ込むのは珍しいな。館長お気に入りの、飯テロ世界とかいう場所だけだと思っていたが。
「魔女さまは確かに、全てを司り総てを蕩けさせられる唯一無二の存在なのでしょう。けれど、でも──」
魔女さまだって、時には何かを間違える人間なのですから。
そう紡いで微笑む〝IT〟に、着ぐるみの世界での死線を思い出す。館長は確かに全能だ。万能で、理不尽で、不条理で、圧倒的で、絶対的で、絶望的だ。
だが間違える。失敗する。見間違う。見誤る。勘違いする。怖がる。怯える。癇癪を起こす。
館長はおそらく、生まれついての魔女だ。たまたま人間の器で生まれただけの、先天性の魔女。たかが器、されど器。いくら本質が魔女であろうと、それを内包している器は人間だ。
確かに、そこは無視できない。我輩たちも着ぐるみの世界で痛感したのだ──理不尽に慣れてつい忘れてしまうが、気をつけねばならん。
「お気遣い、ありがとうございます。けれどわたしはやはり、わたしの世界を守りたいから」
「まあ、自分の存在を抹消してまでお前が守った世界だものなあ」
〝IT〟が一体どういう過程で〝存在しないもの〟になったのか、館長も〝IT〟も多くを語ろうとしない。だが、〝IT〟がこの世界に甘んじるほどに元の世界を大切に想っていることだけは、なんとなくイメージできた。
自分の存在を消してまで守りたいもの、か。
「……強いのだな。〝IT〟は」
「いいえ。わたしは……ただ全てを、押し付けてきたにすぎませんから。あの世界に遺された方々に全てを押し付けて……」
〝IT〟は、憂う。
ただ、憂う。
だがやはり──存在しない〝IT〟の憂いを、我輩たちは慮れなかった。
【暗澹】
〝IT〟の背景に興味がある方は別作品「魔女は老紳士を嘲る。」を是非どうぞです!
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