第五自我 【着ぐるみに自我を詰めましょ】
第五自我 【着ぐるみに自我を詰めましょ】
「たまには適当に渡界しよう」
いきなりこう言い出したのは当然、館長である。
目を白黒させる我輩たちに構わず、食堂に巨大なルーレットを出現させた館長は愉しげに嗤う。やたらピカピカと光っている趣味の悪いルーレットだ。
「今まではある程度テーマに沿って世界を絞って選んでいたが、今回はこのルーレットで完全ランダムにする! そーれ!!」
ぐっ、と館長がルーレットの側面を足の裏で押すと同時に、ルーレットが物凄い勢いで回り始めた。やたらネオンがギラギラしく瞬いている上にズンチャッカズンチャッカ、とよくわからないBGMまで流れていて、正直耳にも目にも痛い。
「ルーレットに触れればその時点で渡界する。はぐれないように四人でしっかり手を繋いでGOだ!!」
愉しげにスキップしながらドレーミアにくっついて、拘束衣からはみ出ている小さな手をドレーミアの手と絡める。我輩とどれいは顔を見合わせて軽くため息を吐き合い、どれいの手を左手に、右手にドレーミアの手を固く握る。
言い出せば聞かないのは痛いほどよく知っておる。こういう時は大人しく言うことを聞いた方がいいことも、よく知っておる。
「じゃあ、ルーレットに触るぞ? 僕ひとりが触るだけでいいんだよな?」
「そうだ! みんな手は離すなよ」
「完全ランダムですか……怖いような、ドキドキするような」
「館長さえいれば安全なのは確かであろうが、な」
そう、館長さえいれば。
館長さえいれば。
館長さえ、いれば。
「よし、行くぞ!!」
どれいの勇ましい一声とともに、足を一歩踏み出す。
「あっ?」
ずるっと、衣擦れのような、それよりもはるかに大きくはっきりした音が、何かが擦れる音が鼓膜に届く。館長の、素っ頓狂なひとこえと、いっしょに。
どれいの指先がルーレットに触れる。寸前に、咄嗟に横を見やった我輩の視界に映ったのは──
足を滑らせたか、前のめりにドレーミアから手を離し倒れゆく館長の、姿。
◆◇◆
「触れるなどれい!!」
気付けば、絶叫していた。
けれどその絶叫は、虚しくも渡界した先の世界に響き渡った。咄嗟に両手を確認する。どれいもドレーミアもしっかり我輩の手を掴んだまま、目を回している。だがドレーミアのもう片方の手の先には誰もいない。
誰も。
「……!!」
畜生、と舌打ちしたくなる。館長はどれいの背にでも括り付けておくべきだった。と、ドレーミアが泣きそうな顔でぎゅっと我輩の腕に縋ってきた。
「ышегяшыфьф……цфефлгышлфттенщгыфьфтщеуцщ」
あ? と、素っ頓狂な声が出てしまった。
ドレーミアはひどく気落ちしていて、どうも館長の手を離してしまった自責から落ち込んでいるらしいことはわかるのだが。わかるのだが──今、何を喋った? 焦る気持ちを抑えて、ドレーミアに手を回して立たせつつ、どれいにも声をかけてしっかりしろと言う。
「どれい、大丈夫か?」
「სიტუზისანნ……იტტაინანიგა」
お前もか。
いや──どれいもドレーミアも戸惑った顔で我輩の顔を見ている。どうも我輩たち三人とも、言葉が通じなくなっているようだ。
「館長と逸れたせいだな」
「ууеещ」「ანნ」
──ダメだ、本当に言葉がわからん。しかしどれいもドレーミアも敏い方だ。じき、この状況の原因に気付くだろう。
と、そこでどれいがぱちぱちと数回まばたきして周囲を見回した。どこかの森なのか、鬱蒼と木々が生い茂っていてとても暗い。日は昇っているようだが、それでもこの暗さとなると相当深い森なのかもしれない。
「კანნტყოუგა„……ინაი」
「ああ。館長と完全に逸れてしまった」
館長の不在に気付いた様子のどれいに頷いてみせて、だから我輩たちの言葉が通じないのだと指差しでジェスチャーする。よく考えてみなくとも我輩たちは元々別の世界の住人だ。言葉が同じなわけがない。そこを通じるようにしていたのは館長という存在だ。
「цфефлгыштщыушву」
「お前のせいではない」
館長の手を離してしまった己の手を見下ろして泣きそうな顔をしているドレーミアを励ますように、数回頭を撫ぜてやる。言葉は通じないが……気持ちだけならば、十二分に理解できるな。さすがは〝我輩〟といったところか。
ここでようやく、じわじわと事態を把握できたのかどれいの顔から血の気が引いていくのが見て取れた。
この中では誰よりも長く、多く館長と旅してきたどれいだ。この事態がいかに危ういか──我輩やドレーミアよりもよく、知っているだろう。
「вщгышьфынщг」
「კანნტყოუჰატასუკენიკურუ,ნოკა」
……駄目だな、今後のことを話し合おうにも無理そうだ。
落ち着け。ひとまず、落ち着いて考えろ。ふうっと深呼吸して、独り言のようにぽつりぽつりと言葉を重ねていく。まずは、我輩たちにとって命綱とも言える館長だ。
「……すぐ来れるならば今もういるだろうし、来れるがわざと放置しているケースも想定できる。だが、おそらく悪戯ではない。ならば──すぐには見つからない」
例えばどれい。
記憶を全て取り戻し、己の名を取り戻したどれいが元住んでいた世界を探すのに、館長は数時間かかっていた。
例えばドレーミア。
記憶がなく、しかし精神という名の鎖が未だ残っていたドレーミアの元の世界を館長は、百数年かけて探し続けても見つけられなかった。
「…………」
嫌な汗が流れる。
「……あの理不尽な館長にとっても世界は──広すぎて、多すぎる。その中から我輩たちをすぐ見つけられるかどうか」
願わくば、館長の悪質な悪戯であってほしいところだ。だがきっと、それは。
「それは──ないな」
「ышегяшыфьф」
ドレーミアの右手を取り、手の甲を見やる。そこに残るのは、痛々しいみみず腫れ。館長がドレーミアの手を離しそうになって慌てて、爪を立てたのだ。どれいと普段取っ組み合いの喧嘩している館長ではあるが──ドレーミアにそんなことはしない。して、キスマークを残すくらいだ。
「…………」
また、嫌な汗が流れる。
だが沈黙している場合ではない。これが不慮の事故であるのなら、今ごろ館長は我輩たちを探しているはずだ。ならば我輩たちがすべきなのは。
「館長が迎えに来るまで生き延びる必要がある」
館長の庇護が、館長のいない今も我輩たちに有効なのかわからない。ドレーミアの手の甲に残った傷が癒えないところを見るに──期待しない方がよさそうだ。そもそも、言葉が通じない時点で期待するなというものだ。
我輩たちの不死性、それはひとえに館長ありきのもの。そう考えて行動すべきだろう。
「どれい、ドレーミア。とにかくこの世界について──むっ?」
がざっと葉が無為に払いのけられて揺れる音がして、身を翻す。
くまがいた。
熊? いいや違う。ただの熊であれば、どんなによかったか。
藪を掻き分けて現れたのは我輩とそう変わらない背丈の、くまの着ぐるみ。そう、着ぐるみ。どう見てもつくりものの──デフォルメされた顔が可愛らしくも、無機質な両眼がどこか不気味さを漂わせる、着ぐるみ。
我輩の背後でドレーミアが、息を呑む。
それも当然だ。ただのデフォルメされたくまの着ぐるみであればここまで危機感を覚えない。ここまで──焦燥感を覚えない。
血みどろだった。
ふわふわの毛が赤黒い血で固まり、ところどころ元々の色なのであろうホワイトブラウン色の毛が見える。血とホワイトブラウン色のまだら模様の着ぐるみはただ無機質に、言葉もなく感情のない両眼を我輩たちに向けている。笑顔で固められている口元には穴が開いているが、その先には何も見えない。誰か入っているのか、あるいは入ってないのか。それさえわからない。
「……どれい、木に登れ」
「ეტტო,ნანნტე?」
「木だ。木に登って、上に。我輩はハンマーをどうにかする」
ジェスチャーで木を指差し、ちょうど着ぐるみの頭上にある太い枝を指差せば、どうにか意図は伝わったようであった。
その間にも着ぐるみの、血で染まりきった手からぶら下がる鋼鉄のハンマーから視線を外さない。ぽたり、ぽたりとハンマーから滴り落ちる血は新しい。新しく──そしてとても錆臭い。間違いなく、本物の血だ。
ぱきりと着ぐるみが小枝を踏みしめる。それを合図に、我輩は弾かれたように着ぐるみ目掛けて突進する。まずは機動力を知る必要がある。
「ышегяшыфьф!!」
ドレーミアの悲痛な絶叫が響く。
ばちゃりと血飛沫が上がった──が、深い傷ではない。不覚だった。着ぐるみとすっかり思い込んでいたが、どうもただの着ぐるみではないようだ──ハンマーを持っていないほうの腕を振り上げてきたのだ。赤黒く鋭い爪が伸びている腕を。ハンマーばかり警戒していた。舌打ちしながら、傷付いた二の腕をそのままにハンマーの奪取に取り掛かる。
がいんっとハンマーが木を打ち付ける音が響く──危なかった、あと少しで頭蓋骨を割られるところであった。速い。
「だが、動きは素人そのものであるな」
言いながら着ぐるみの足を折る勢いで蹴りつけて──ぐんにゃりと、嫌な弾力が返ってきた。着ぐるみはそのまま数歩ほど後退して、両腕を振り上げて我輩に襲い掛かってくる。
骨がない? 筋肉もない──人が入っているわけではないのか?
こちらには切り札、クラウンシングルデリンジャーⅧ型βモデルがある。渡界先の仕様にもよるが、原則ベスト裏に仕舞い込んで携帯している小型拳銃がある。そう、想っていたが。この手応えのなさを省みるに……少し、考えを改めた方がいいかもしれん。
どがんっと、避けたハンマーが勢いよく地に振り下ろされたのを見計らってもう片方の手に注意しながら胸部に蹴りを喰らわせる──やはり、ぐんにゃりとしていて手応えがない。しかし、その手応えのなさそのままに着ぐるみは折れ曲がるように地面に仰向けになって倒れた。
「どれい!! 頭だ! 頭を狙え!!」
「დოუნიდემონარეეეეეეეეე!!」
あまりにも不気味な着ぐるみの様相に迷ってはいられないと覚悟したか、どれいが勢いよく着ぐるみの頭に着地した──ぐにゅりと、着ぐるみが凹む。やはり手応えがない。だが空洞というわけでもない。一体何が詰まっておるのだ。
当然、どれいの着地で終わらせるわけがない。着ぐるみの手からハンマーを奪い取って天高く振り上げ、どれいに避けるよう叫ぶ。
肉が潰れる音と同時に、血肉が着ぐるみの隙間から飛び散った。
「!? ნა,ნანნდაკოიტუ……ნანნდაკონოკარადა?」
「……肉の塊、といったところか」
ハンマーを打ち付けた衝撃で着ぐるみの頭部が胴体と離れた。その断面図から見えるのは──象牙色の、肉の塊。胴体と繋がっていたらしい部分はちぎれて赤黒い血を噴出させているが、どう見ても人間の頭部ではない。
何と言えばいいのだ。そう、まるで……ヒトをぐちゃぐちゃにして詰め込んだだけのような肉塊。
「……どうもこの世界は、安全とは言えないようだ。とにかく、離れるぞ。水場を探そう」
サバイバルの基本。まずは安全確保。次に水の確保。そして火の確保。危険はひとまず乗り越えたということにして、川なり湖なり探しながらこの世界の把握に努めなければならない。
「どれいыфьф、ышегяшыфьф。щлупфрфпщяфшьфыуттлф?」
「ドレーミアსანნ,კეგაჰასიტემასენნ.ბოკუყორიმოსიტუზისანნგა」
「……名前だけはわかる、か」
言葉は全然わからないが、名前だけは聞き取れる。我輩は〝執事〟と呼ばれているゆえに、名前ではなく役職名として名詞化されないのだろう。
……止むを得ん。
「どれい、ドレーミア」
我輩に呼ばれて、ふたりが我輩を見上げる。ドレーミアが忙しなく我輩の傷付いた二の腕にハンカチを押し付けているのをそのままに、告げる。
「ドレイクだ」
どれい、ドレーミア──ドレイク。
どれいを指差してどれいと呼び、ドレーミアを指差してドレーミアと呼び、最後に自分を指差してドレイクと呼ぶ。それを数回繰り返して、ふたりがおずおずと名を口にした。
「ドレイクыфьф?」「ドレイクსანნ?」
「ああ、そうだ。ドレイク──それが我輩の名だ」
血譜名は変わるが、魂譜名だけはずっとこのままだった。
「ドレイクыфьф」「ドレイクსანნ」
「ああ」
「ドレイクыфьф」「ドレイクსანნ」
「……わかったならもういい」
何やら、ふたりが嬉しそうな顔をしている。なんだ、その顔。キスするぞ。
ふたりの額を小突いて、ハンマー片手に先行して先に進むことにした。念のため、迷わないよう一定の高さにある枝を折りながら。勿論、周囲の警戒は怠らない。どれいもドレーミアも旅慣れしておるとはいえ、館長との旅だ。サバイバルごっこはあってもサバイバルをこなしたことはないだろう。
「ドレイクыфьф、ьшягтщщещпфлшлщуьфыг」
ふいにドレーミアが耳の裏に手を当てて耳を澄ませながら何かを囁く。倣って我輩も聴覚に意識を集中させる。ドドドド、とかすかに聞こえる水が流れる音。
「行くぞ」
水場へ向かうついでに、乾いた枝も集めておくことにする。火種がないが、火付け石でも見つからんものか。
我輩たち三人の腕が枝でいっぱいになったころ、ようやく川に出た。急流の小川であった。相変わらず森は鬱蒼としていて日の光がほとんど入ってこないが、小川の流れは清いように見える。
ドレーミアが駆け寄ってハンカチを水に浸そうとしたのを押し留めて、周囲に火付け石でもないか見回す。できることなら生水ではなく一度火を通しておきたい。
それからは地道な作業が続いた。まず、手ごろな石を使って枝を削りおがくずを作った。湿った土に枯れ葉を集め、枝を組んでおがくずをちりばめ──次に、どれいのカメラを借りた。さすがにこの非常事態ゆえか、どれいはあっさりカメラを分解してくれた。なるべく組み直せるよう、後で館長に綺麗にしてもらえるよう丁寧に扱っていきたいところだ。
「日の光が弱いが……なんとかなるか?」
「ტყოტტომატტერო」
まばらにしか落ちてこない光にうまくレンズを合わせて、おがくずに一点集中するよう調整するどれいを見守る。光は弱かったが、おがくずにしたのがよかったのか煙が上がるのにそう時間はかからなかった。一度煙を上げてしまえばさざ波のようにおがくずに種火が広がって行って、やがて枝を包み込むように燃え盛った。
次に、鍋を用意した。運のいいことに竹も生えていたため、ハンマーでへし折って鍋もどきを作ることにした。さすがに道具がない状況下だと綺麗には作れないが、この際どうでもいい。竹の底に厚く湿った木の皮を敷き詰めて水を入れ、ドレーミアとどれいが組んでくれた簡単なかまどに鍋を置いて、放置する。
できることならば蒸留水を作りたいところだが、まあ水を煮沸させるだけでいいとしよう。
それから数日は、こんな調子でサバイバルが続いた。
川沿いに下りながら食糧を集めては火を熾し、キャンプする。幸いなことにこの森には食糧が豊富にあった。見慣れない形の木の実や果実ばかりであったため必ず過熱して、我輩が最初に毒見する方式で食事した。どれいやドレーミアはかなり嫌がっていたが、ふたりともキスで黙らせてやった。どれいが瀕死状態になっていたが他愛もないこと。
「фкф……ドレイクыфьф、ьшеулгвфыфш」
「მორიწონუკერარესოუდაドレイクსანნ」
「森を抜けられそうだな……」
幸い、命の危機を感じたのは初日だけでそれ以降は獣にも襲われることなく平穏にサバイバルをこなせた。だがその森でのサバイバルも、そろそろ終わりそうだ──そう思った矢先、鼓膜に不穏な音が届いた。それも、複数。
ドレーミアが息を呑んだ。咄嗟に首をねじって視線を滑らせる──舌打ちしたくなった。
あの、くまの着ぐるみがいた。首と胴体が離れたはずであるが、今はくっついている。手ぶらだが喜べない。なんせ、くまの着ぐるみの背後にもう一体──うさぎの着ぐるみがいる。くまの着ぐるみと同様に血みどろで、手からは巨大な血錆だらけの鉈をぶら下げている。
どうする──森を出ていいのか? 見晴らしのいい場所であった場合、走るしか手がなくなる。では森に紛れるか? その方がいいかもしれない。
「ドレイクსანნჰოკანიმოირუ!!」
「!?」
どれいの怯えた声に弾かれて、今度は逆方向に視線を向ける。ねこの着ぐるみと、ゴリラの着ぐるみ──最悪だ。
「逃げるぞ!!」
どれいとドレーミアを先行させて、駆け出す。
着ぐるみたちが追ってくるが、幸いにもその足は我輩たちより遅い。決して鈍くはないが。
「ьфешпффкшьфыгцф!!」
「ჰასირიმასყოუ!!」
森の先にはなだらかな丘が広がっていて、丘のふもとには町が広がっていた。大都会ではないが田舎町でもない、ある程度発展した町のようだ。丘の傾斜を利用してとにかく駆ける。駆ける。ひたすら駆ける。
「ハァッ──ハァッ……、……──?」
町に近付くにつれて、町の様子に違和感を覚え始める──が、とまっている余裕がない。着ぐるみたちも同様に、我輩たちを追って丘を下っている。
町の外周部には田園地帯が広がっていたが、すっかり荒れ果てていた。気温から察するに春から夏に差し掛かる季節だと思うが、人が実りを求めて整えた様子が一切見えない。だが考えている暇もないため、荒れ果てた田畑を突っ切って町を目指す。
「──……静かすぎる」
あぜ道から舗装された道に変わり、昭和の世界で見た街並みをもう少し小奇麗に、かつ機能的にしたような町に入って数分。
だが人の気配はしない。人の声どころか人が過ごしていた気配さえない。
町は、廃れ切っていた。
昭和の世界でも見た電柱が折れて道路を塞いでいたり、家の屋根が崩れ落ちて半壊状態にあったり、場所によっては植物が育ちすぎて呑み込まれかけていた。
「とりあえず隠れるぞ!!」
今、我輩たちが走っているのは住宅街と思しき場所だ。軒並み荒れた状態であるが、その中からどうにか家として利用できそうな建物を見繕って中に入る。中も荒れていた。家族の写真が玄関に飾られていたが、この世界における一般的な住人は我輩たちと変わらぬヒトのようであった。
決して、あの着ぐるみたちではないのだろう。
我輩たちを追っていた着ぐるみたちは丘のふもとあたりで振り切れたが、そのうち町に入ってくるだろうから隠れる準備をせねばならん。幸い、鍵は壊れていなかったのでかけておく。リビングの窓は割れていたが、カーテンは無事であったので閉める。
ドレーミアがキッチンをチェックしていたが、電気もガスも止まっているようだ。水だけは出るようだが、少し濁っている。蒸留水を作る方がいいかもしれない。
他の部屋も確認するが荒れ果てているだけで死体ひとつない。人の死体が転がっている覚悟はしていたのだが。
どれいがチェックしている二階に上がると、そこは比較的無事であった。泥と血が混じった足跡だらけではあるが、暴れた跡がない。誰もいなかったために引き返した、というところか?
足跡を改めてチェックする……丸みを帯びた、ほぼ正円に近い足跡。まず人間の足跡ではない。そして所々に落ちている、血濡れた毛。髪の毛ではない──とかいって獣の毛でもない。明らかに人工的な、短く揃えられた毛だ。
着ぐるみ。
これは、あの着ぐるみたちがやったことなのか?
「二階で休めそうだな」
「სოუდანა,დემოაიტურანიმიტუკარანაიკა……」
「幸い、色々道具がある。罠を張ろう」
着ぐるみたちがどうやって我輩たちを認識しているのかわからない。視覚か、匂いか、音か、あるいは生命エネルギーを探知しているのか。わからないが、取り急ぎ着ぐるみの侵入がすぐわかるようにしないといけない。糸と、音が鳴りやすいものがあれば十分だろう。
ドレーミアが救急箱片手に消毒液ぶっかけに来たり、どれいが読めるかどうか新聞片手にやってきたり色々ありつつ、用意した罠を張りに外に出ると、雨が降っていた。
時刻はおそらく昼過ぎ。
天候は雲一つない晴れ。
だというのに、さあさあと霧のような雨が降っている。
「კანნტყოუ,ნაიტენნნოკანა」
「лфттенщгыфьфрфвфшянщгигвуынщглф」
どれいとドレーミアも外に出てきて、天を仰いで霧雨を浴びながらそう囁く。
言葉は通じないが、何回かのやりとりで〝კანნტყოუ〟と〝лфттенщг〟が意味するのは〝館長〟であることはわかっている。
「……──ああ、そうだな。もしかしたら、館長が泣いておるのかもな」
悪質で悪辣で悪意まみれの、何より理不尽な享楽主義者。
だがその実、我輩たちの誰よりも寂しがりで置いていかれることをひどく嫌う。幼子のように泣き喚きながら我輩たちを探している館長の姿が容易に、想像できる。
そっと胸元に手を置く。
クラウンシングルデリンジャーⅧ型βモデル。万が一のために携帯している小型拳銃。そう、万が一。万が一、我輩がレンを疑ってしまった時に、自殺するための拳銃。
──だが今は、たとえそんなことになっても死ねそうにない。
この日、人生で初めてレン以外のために生きようと思った。
【天泣】




