【きなこ揚げパン】
小学校というものはなるほど、久方ぶりに感じる雰囲気であった。当然、我輩の世界にかつて存在した学び舎とは様相がまるで違うが。十にも満たぬ年の頃の子女たちが集う教室で、我輩たちは身の丈に絶望的なまでに合わぬ机と椅子に着席していた。今日も今日とて我輩たちは半袖の白シャツに黒い短パン、もしくは黒いスカート。何のプレイであるか。
我輩たちという変態──いや決して変態じゃないが……いや、どう見ても変態であるが……変態でしかない我輩たちに対して教室内の子女たちは少しも揺らがぬし、教師であろう大人も動揺しない。むしろ指摘して追い出して欲しい。何の拷問であるか。
「机が低すぎてノートが書けませんわ」
「こうやって股を広げてだな、前のめりになってだな」
「フザけんな変質者」
「そんなことよりも腰が痛いのであるが……」
質の悪い木製の椅子、しかも幼子向けの低いやつ──に座るというのは中々に苦行である。
「こ~ら! ひげじいくん、せんせいのおはなし、ちゃんと聞いていたかな?」
おい館長。
「足長髭爺、いい名前だろう」
適当な偽名つけおって。
と、ふいに鐘の音が鳴り響いて幼子たちが一斉に立ち上がる。手早く、中にはほとんど引っ掛けるだけで割烹着を着用した幼子たちがいくつかのグループに分かれて作業を始める。どうやら給食の時間であるらしい。
本日のメニューは脱脂粉乳、きなこ揚げパン、トマトシチュー、せん切りキャベツのみ。少ないと思ったが、きなこ揚げパンは年に一度あるかないかの御馳走であるらしく幼子たちの顔はとても明るい。〝我輩〟も心なしか嬉しそうにしているように見える。
「むっちゃわかる。僕の時代でもきなこ揚げパンは神だった」
「ほぉそうなのか。そういう感覚はワタシにはないなぁ……小学校に行っていたかどうかすらわからん」
「小学生時代の館長? セサミ通りのモンスターたちに混じってたんじゃないか?」
机を給食仕様に並べ替えていたどれいと館長が喧嘩し始めて、女子に叱られて謝罪するのが見えた。何をしておるんだ、あやつらは。
「ドレーミアちゃんよそうのおじょうず~」
「ありがとうございます」
幼子たちが運んできた鍋からスープをよそっては並んでいる幼子たちに次々と手渡していくドレーミアに教師が拍手する。ドレーミアの方が背が高いために教師が見上げる形なのだが、誰も違和感を覚えていない。全く、館長の理不尽さここに極まれりだ。
「どれーみあ! そがやつにゃちょびっとしかいれんでえーど! ナマケモノだかんな!」
〝我輩〟がスープの皿を持ってドレーミアの前に立った瞬間、囃し立てるような悪意まみれの声が上がった。ひとつだけではない。ふたつ、みっつと同意する声が広がっていく。それを教師は止めない。教師さえ、蔑むように〝我輩〟を見下ろしている。
ドレーミアはそれらをまるっと無視して一定量のスープをよそって手渡す。〝我輩〟も何も言い返さぬまま、スープを大切そうに握り締めて自分の席に戻っていく。
〝我輩〟だけではない。
この教室にいる幼子たちの、実に五分の一ほどが〝我輩〟と同じような蔑んだ視線を受けていた。とは言っても既に貧困の壁はどんどんせり上がっているからか、半数以上の幼子たちは他人事ではないような怯えた様子でそのやりとりを見守っていた。
──既に崩壊しかけておるのだ。
そうして委員長による号令を合図に給食の時間と相成ったのだが、〝我輩〟はまずきなこ揚げパンを四分の一ほど千切り、残り四分の三をそっと風呂敷にくるんでランドセルに押し込んだ。それを見て得も言われぬ愛しさが胸を満たす。
──ああやはり、かの幼子もまた間違いなく、紛うことなくレンが愛した我輩なのだ。
「わたくしのを保存しましょう。そうすればご兄妹で召し上がれるでしょう──館長さま、こちら湿気らぬようしっかり仕舞っておいてくださいな。執事さま、わたくしも食べたいので半分いただきますわね」
「……まあ、構わんが」
ドレーミアに半分もぎ取られてしまったきなこ揚げパンを手に取り、こぼれるきなこに少々勿体ない気分になりながら口に含む。うむ、うまい。きなこ揚げパンは当然のことながら、これまで数えきれないほど地球系列平行世界の料理を口にしてきた我輩にとって知らぬ味ではない。
だが。
──うまいうまいと歓声を上げながら食べる幼子たちと、幸せそうな表情で噛み締めるように味わう〝我輩〟を見ているとこの上なく豪奢で貴重な逸品に思えて、うまい。
「スープ薄い! 牛乳まずい! 超まずい!」
館長が文句を言っておるのを聞き流しつつ、脱脂粉乳とかいう湯に溶かして飲むものであるらしい牛乳を口に含──むせた。
「まあ汚い。ですが確かに……スキムミルクのようなものだと思っておりましたが全然違いますわね。配膳で〝わたくし〟がわざと多く入れられておりましたし、みな鼻をつまんで一気に流し込んでいるご様子……」
「おいちょっと待て!! まさかこの脱脂粉乳、戦後からそのままか!?」
どれいが焦ったような顔で館長に詰め寄る。館長はそのようだな、とやる気なさげに言って手元のカップから中身を消去する。
「もはや毒だってばあちゃんに聞いたぞ、僕」
「毒だからなあ。元々家畜用の餌な上に質が悪い、輸送の際にオイルが染み込んだりで劣悪だから匂いは勿論、味も毎回変わる。いわゆる〝団塊世代〟と呼ばれる年齢層に牛乳嫌いが多いのはこれのせいだな」
その言葉を聞いて顔色を悪くしたどれいとドレーミアがそっとカップを館長に追いやる。我輩も同様にして、中身を消してもらう。
「きなこ揚げパンで口直しだ……そりゃこんなに盛り上がるわな」
きなこ揚げパンも、我輩がこれまでに口にしてきた揚げパンと比較して決して質がいいとは言えない。だがこの給食の中では格段に、神がかり的にうまい。あの牛乳と呼んではいけない泥水のような何かを飲んだ後だとなおのこと、思う。
「……苦しい世界だな」
真綿で首を絞められているような、少しずつ死んでいく世界。
我輩の世界に、よく似ている。
「僕のやるよ、太戸郎」
「え? いいの? ありがとう!」
臭い汚い気持ち悪いの三拍子そろった濃縮脱脂粉乳を飲み下して吐きそうになっている〝我輩〟にどれいがきなこ揚げパンを三分の二ほど差し出して、〝我輩〟が笑顔を浮かべる。
この笑顔だけが、せめてもの救いか。




