第一自我 【僕という自我】
じが【自我】
(self イギリス・ego ラテン)
①〔哲〕 認識・感情・意志・行為の主体としての私を外界の対象や他人と区別していう語。自我は、時間の経過や種々の変化を通じての自己同一性を意識している。身体をも含めていう場合もある。↔他我↔非我。
②〔心〕 ㋐意識や行動の主体を指す概念。客体的自我とそれを監視・統制する主体的自我とがある。 ㋑精神分析の用語。イドから発する衝動を、外界の現実や良心の統制に従わせるような働きをする、パーソナリティーの側面。エゴ。→超自我
出典:広辞苑
── 自分図書館 ──
第一幕 「僕」の章
第一自我 【僕という自我】
電車の音がする。
鼻孔を擽るいぐさのような、けれど少し埃っぽくもある匂いに目を覚ます。
電車の音はもうしない。代わりに、紙が擦れるかすかな音と、ペン先が紙上を滑る音が鼓膜を伝ってきた。
視界にはおぼろげな橙色の灯りに照らされて浮かび上がる本棚が映っている。そう、本棚。本棚、本棚、本棚、本棚。本、本、本、本、本、本。大量の本棚とそこに並ぶ膨大な量の本。それを〝僕〟は、見上げていた。
とりあえず、右手を顔に持っていく。ずいぶん長いこと横になっていたのか──手はとても冷えていた。次に、左手を床に這わせる。冷え冷えとした、木張りの床の感触。
左手に力を込めてぐ、と上半身を起こす。体に異常はない──冷え切っているが。
「ここは……」
「目が覚めたのなら手伝え、〝ワタシ〟」
「!」
幼さと成熟の狭間にいるような、大人になりかけている少女特有のあどけなくも妖艶な、声。それに僕ははっと首をねじる。
膨大な蔵書量を誇る、天まで届かんばかりに聳え立つ本棚に埋もれたその通路。その、奥。その、一角。
そこに〝僕〟がいた。
けれどすぐ、それは鏡じゃないと気付いた。
鏡に映った〝僕〟だと思った。思ったけれど、鏡ではない。〝僕〟だけれど、僕ではない。
年の頃は十五、六歳くらいだろうか。蓑虫のようにぼうぼうと伸びている髪に隠れてとても見づらいけれど、カンテラの灯りに灯されて浮かび上がるそのシルエットは少女だった。僕は男だけれど、〝僕〟は少女だった。
ぼうぼうに伸びた髪とは不釣り合いな痩せぎすの体を椅子の上に載せて──そう、載せて、だ。座っているのではなく、ただ載せているだけのように見える。ここからでは〝僕〟の横顔しか見えないが、三白眼のぎょろついた目つきがとても印象的だ。ぼうぼうに伸びている髪と同じ、闇夜を煮詰めたような黒い目だ。目の下にはくっきりと隈が刻み込まれていて、痩せぎすの体とあいまってとても不健康的に見える。
そこでふと、気付いた。
〝僕〟の周りを何本もの万年筆と、何十枚もの紙が舞っている。そう、舞っている。最初は、〝僕〟が万年筆と紙を投げ散らかしたのかと思った。けれど投げ散らかしたにしては──万年筆も、紙も一向に床に落ちない。それどころか規則的に、断続的に、一心不乱に万年筆が紙に何かを書き込んでいる。ひとりでに。
──万年筆と紙は、自律的に動くものだったろうか。
少なくとも僕の記憶にそんな万年筆と紙は──と、そこで気付いた。
何の記憶だ?
記憶──きおく。過去の出来事。境遇。経歴。思い出。
そう、思い出。思い出──
誰の思い出だ?
誰? 誰って、僕だ。僕に決まっている。そう、僕の思い出──僕の記憶。万年筆と紙に関する僕の──
僕って誰だ?
万年筆。筆記用具。紙。記録媒体。
わかる。それらの意味は、わかる。じゃあ、どんな物かは──わかる。〝僕〟の周りを舞うあれらを見てすぐ、万年筆と紙だと理解した。
じゃあ何故、僕はそれらが万年筆で、紙だということを知ってる? 簡単だ。使ったこと、あるいは見たこと、ないしは学んだことがあるからだ。
思い出せない。
──落ち着け。
まずは、立て。そう──立つ。立ち方はわかる。バランスの取り方もわかる。僕は、僕自身がヒトであることを知っている。じゃあ、いつからヒトなんだ?
──落ち着け。僕の手──五本の指。角張った、男の手。
男。そう、男。僕は男だ。そして〝僕〟は少女だ──それも、わかる。
少女の年の頃が十五、六だというのもわかる──じゃあ、僕は?
思い出せない。
「──鏡をやるよ、〝ワタシ〟」
ふと、少女がそんなことを唄うように紡いで腕を組んだまま指を躍らせた。何を、と思った次の瞬間には僕の目の前に鏡があった。〝僕〟じゃない、正真正銘正規の──全身鏡。
鏡には、知らない人間が映っていた。
〝僕〟を見た瞬間、僕は僕を映し出した鏡なのかと思ったというのに──本物の鏡を前にして、僕は僕を認識することができなかった。
年の頃は二十五を過ぎたあたりか。
背丈は鏡とそう変わらない──百七十を超えているが、百八十には届かない。
〝僕〟ほどではないけれど痩せていて、手足がひょろりと長い。
髪の色は黒。目の色も黒。造形は──よくわからない。癖のある髪を後ろに流していて、ひと房だけ前に垂らしているのが、結構似合っていると思う。けれど目の下に刻み込まれている隈が──台無しだ。
鏡に映る僕。
けれど、僕だと認識できない。これは──本当に、僕なのか。そもそも僕は、自分のことを僕と呼んでいただろうか。
わからない。
何もわからない。
何も──思い出せない。
「思い出したいか」
また、〝僕〟から声が投げかけられる。
そういえば──僕は何故、この少女を〝僕〟と認識したんだろう。今だってそうだ。鏡の中に映る僕は僕だと思えないのに、痩せぎすの少女ははっきり──〝僕〟だと認識できる。理解できている。僕とは違う、それはわかるのに。僕を知らない僕でも、僕は男で〝僕〟は少女だとわかっているのに──何故だか、〝僕〟は僕だとわかる。
それがひどく──気持ち悪い。
もどかしい。あと少しで手が届きそうなのに届かない。苛々する。
気付けば、僕は〝僕〟に頷いていた。
「ならば、ワタシを手伝え。〝ワタシ〟」
「お前、は……」
「ワタシはここ、〝自分図書館〟の館長」
──魔女である。
続けてそう囀って、〝僕〟の闇夜のような目が僕を射抜く。
「自分、図書館……」
言われてみると、納得する。天まで届かんばかりに聳え立つ、本が詰まった本棚が並ぶここは──確かに、図書館のようだ。
図書館。それも、わかる。けれど僕が図書館という存在をどうやって知ったのか──それがやはり、思い出せない。
「なんで僕は、ここに……」
「さあな。ただ──お前のような人間が他にもいる」
「僕のような?」
「ああ。〝自分〟を失った〝ワタシ〟たちがな」
自分を失った、〝僕〟たち──……
「思い出せないのだろう? 〝ワタシ〟が何処の誰で、今まで何をしていたのか」
「あ、ああ……」
「ワタシもだよ、〝ワタシ〟」
「お前、も……?」
〝僕〟は頷いて、だからワタシは探しているのだと僕に向き直ってきた。そこで、気付いた。
〝僕〟は腕を拘束されていた。
腕を組むように両腕を胸の前で交差させて、それを堅強そうな金属製の錠が拘束している。ランタンの灯りに照らされて鈍く、黒光りしている錠が、みっつ。
「ワタシも、何故ワタシが腕を拘束しているのか知らない。ワタシの名前も知らなければ、ワタシが何処にいたのかも知らない。お前と同じようにな、〝ワタシ〟」
「拘束は……解けない、のか?」
「解けないんじゃない。解きたくないんだ」
けれどその理由が、わからない。
だからワタシは、〝ワタシ〟を探している。
そう言って〝僕〟はゆらり、と揺らめいた。その揺らめきに合わせて〝僕〟の周りを舞う万年筆と紙が揺らめく。
「この図書館に詰まっているのは、〝自分〟」
「〝自分〟──」
「そう、〝自分〟であり、〝自分〟だ」
ワタシはワタシを見つけるべく、世界を渡ってありとあらゆる〝ワタシ〟を記録している。
お前も自分を見つけたいと思うのならば、ワタシを手伝え。
──揺らめくように言葉を綴って、〝僕〟は椅子から立ち上がった。背丈は、そんなにない。百五十──を超えるか超えないか、だろうか。けれどランタンに照らされて、蓑虫のようなぼうぼうの髪が大きな影を作っていて──とてもじゃないが、息苦しさを感じるほどの巨大な雰囲気を纏っている。
「世界を渡って……〝僕〟を記録する?」
「そうだ。〝ワタシ〟はワタシで、ワタシは〝ワタシ〟だ──わかるだろう?」
わかる。
何故かと言われても説明できないが──わかる。
〝僕〟は僕だ。そして、僕もまた〝僕〟だ。
「ワタシと〝ワタシ〟の住まう世界は違う。ワタシとお前は同一だが、一致ではない」
住まう世界が、違う?
「世界はひとつだけじゃない。ひとつの世界を一滴のしずくとするならば、大海原ほども世界がある」
「…………」
「そしてワタシと〝ワタシ〟は、違う世界に生きるが魂を同じくする存在だ」
「魂を──同じく、する?」
「世界の数だけ〝ワタシ〟がいる。ワタシと〝ワタシ〟のように性別が違えば年齢も違うことはさして珍しくない──それどころか、ヒトですらない世界の方が多いくらいだ」
世界はひとつだけじゃない。
それはつまり──パラレルワールドがたくさんある、ということでいいのか? 異世界……異世界。ここは、異世界なのか?
──そもそも僕がどんな世界にいたのか、覚えていないが。
「ここは世界と世界の狭間にある。ワタシが創り上げ、築き上げた図書館だ」
「〝僕〟が──……?」
「何故この図書館を創ったのか、何故ワタシはワタシを覚えていないのか、それさえ覚えていない。お前と同じでな──〝ワタシ〟」
だから記録している、そう〝僕〟は言った。
だからありとあらゆる世界の〝ワタシ〟をここに詰め込んでいる、と〝僕〟は一冊の本を抜き取った。取って、僕に投げて寄越した。
投げて寄越したというか──万年筆や紙のようにふわふわと浮いて僕のところに来た。
これは、何なのだろう。少なくとも僕の知る、物理的な原理には全く当てはまらない。そういえば先ほど、〝僕〟は魔女だと言っていた。魔女。魔女──僕の中にある知識では、フィクション──空想の存在だ。あるいは、歴史の中に実在していた黒魔術や呪術なんていう非現実的かつ、胡散臭いものに手を染めているまじない師。
けれど何故だろう。
〝僕〟の摩訶不思議な雰囲気がそうさせるのだろうか──〝僕〟が魔女であると自称したことを少しも、笑えなかった。〝僕〟の周りを舞う、物理原則を無視した万年筆と紙に、驚きさえしなかった。
僕にそんなことはできない。けれど〝僕〟ならばできかねない。
そんな不思議な確信が、僕の中にあった。
「確信できて当然──〝ワタシ〟はワタシなのだからな」
〝僕〟のそんな言葉を聞きつつ、眼前にまでやってきた一冊の本を手に取る。革張りの、ずしりとした重みがある本だ。背表紙には〝地球系列平行世界第三種 №83 王土麗美〟とある。なんとなしに、開いてみた。
記録日時、三六二年目〇四・十一。王土麗美、昭正十三年二月三十一日生まれ、二十一歳。和の国和歌県和歌市南新町生まれのY型。百六十四センチ五十キロ。和歌県立図書館にて司書業務をこなしており──……
本には、背表紙にもあった王土麗美という名前の人物について、プロフィールが細やかに記録されていた。プロフィールだけじゃない。その人物がどういう生活をしているのか、どんな人間関係を築いているのか、何を想って生きているのか、それが主観に基づいて、客観性も織り交ぜて何十、何百ページにも渡って書かれていた。あと、その世界の特徴や食生活についても事細やかに記録されている。
「王土麗美は地球系列平行世界第三種 №83という世界にいる〝ワタシ〟だ」
「〝僕〟……?」
「地球系列平行世界第三種 №83──まあ世界にこう名付けたのはワタシだが、ともかくその世界に赴いて〝ワタシ〟──王土麗美を観察して、記録して、本にした」
ここにはそれが詰まっている。
そう言われて、改めて視線を周囲に巡らす。
灯りがランタンだけだから見づらい──が、天まで聳え立つ本棚に挟まれた通路がいくつもある大広間のようだった。眩暈がするくらい、本に埋め尽くされている大広間だ。
これら全部──違う世界の〝僕〟の記録だというのか。
「どうだ? ワタシを手伝うか? ワタシはワタシが知りたい。だから世界を巡って、〝ワタシ〟を記録しながらワタシの世界を探している。お前も知りたくはないか?」
「そう……言われて、も」
現状に、理解が追い付かない。
混乱しすぎてか、頭痛を覚えてこめかみを押さえる。落ち着け──ゆっくり、思考しろ。
僕は僕を知らない。
ここが何処なのかも知らない。
けれど、両腕を拘束されている少女は〝僕〟だ。それだけはわかる。
そんな〝僕〟もまた、〝僕〟を──〝自分〟を知らない、僕と同じように。
〝僕〟は〝自分〟を見つけるべく──思い出すべく、世界を渡り歩いて……ありとあらゆる〝僕〟を記録して──だめだ、ここがさっぱりわからない。
「まあ、いきなり言われても無理か──だが雑用係はちょうど欲しかったところだ。是非前向きに考えてくれたまえよ」
雑用係!?
「ワタシのことは好きに呼べ。どうせお前と同じで、名前なんて覚えていない。館長か、あるいは〝ワタシ〟とここの者には呼ばれている」
「ここの者──……」
「ついてこい」
ぺたりぺたりと〝僕〟──いや、館長……が、歩き出す。宙を浮いていた万年筆や紙も一緒に、ランタンまで浮いて館長の足元を照らしながら進んでいく。僕を通り過ぎていく館長を慌てて追って、本棚と本棚の間を縫うように進んでいく。
ここが図書館というのはまさしくその通りだったらしい。いくら進んでも本棚しか見えない。何処までも続く本棚にようやく切れ目が見えたと思っても、そこを左折すればまた本棚の波に当たる。とにかく、何から何まで本棚で埋め尽くされていた。
しばらく、ぺたりぺたりと前を歩く館長に合わせて歩いているとやがて、出入り口らしき両開きの扉が見えてきた。扉の横にランプがあって、そこだけとても明るい。
そして──
〝僕〟がいた。
「お帰りなさいませ、館長さま──……まあ、〝わたくし〟がもうひとり」
そこにいた〝僕〟は、メイドだった。一瞬、また鏡かと思ったけれど──今度の〝僕〟はメイドだった。
年の頃は館長よりも上で、おそらく二十歳は超えているだろう。痩せぎすの館長と違ってその〝僕〟は成熟した女性特有のまろやかで張りのある体躯をしていた。白と黒を基調にしたクラシカルなメイド服を完璧に着こなしていて、頭から垂れ下がる二本の巻き髪がよく似合っている。
顔の造形は館長や僕とよく似ているけれど、僕らのように隈はない。代わりに、ぱっちりとした下まつげが伸びている。それも──よく似合う。
僕が〝僕〟を褒めるだなんて、自画自賛のナルシストのようであまりいい気分はしないけれど……似合うと思ったのは本当なのだから、仕方ない。
「この図書館でメイドをしている〝ワタシ〟だ」
「どうぞ、メイドとお呼びくださいませ──〝わたくし〟」
はじめましての挨拶は、ない。当然だ──自分に対してはじめましてと礼する人間が、何処にいる?
「メイド……」
「メイドも〝自分〟を知らないからな」
この〝僕〟も。このメイドも。
「こちらの図書館に置かせていただいてからまだそれほど経っていない若輩者ではございますが、どうぞよろしくお願いいたしますわ。〝わたくし〟はどうお呼びすればよろしくて?」
メイド……メイドというよりは、どこぞのご令嬢のようだ。縦ロールもいかにもっぽい。
「雑用とでも呼べ」
「おいっ」
「雑用さまでございますわね」
「ちょっ」
雑用係を引き受けた覚えはないぞ!?
「腹が減った。何か食べたい」
「畏まりましたわ」
そう言ってメイドが優雅な足運び──そう、優雅な足運びだ。足取りではなく、足運び。靴先どころか靡く髪の毛先さえ洗練された動きを取る、磨き抜かれた人間の動き。こんな動き、僕にはできない──館長にも、できないだろう。けれどそれでもやはり、〝僕〟は僕だった。
書庫を出れば、薄暗い廊下が果てしなく続いていた。廊下には外に面している窓が並んでいて、外から弱々しい光が零れている。窓の外には何も見えない──と、いうか曇りなのか晴れなのか吹雪なのか雷雨なのかわからない。そう、わからない。どういう言葉で形容すればいいのかわからないものが、窓の外に見えている。そして、今は冬なのかどうか、とても寒かった。寒い。とても、寒い。吐いた息が白く凍るくらい寒い。
と、そこで気付いた。僕はグレーのスラックスに白いワイシャツ、そしてグレーのネクタイ。それだけの恰好だった。こんな寒いところでこんな格好、凍えて当たり前だ。
「お風邪を召されては大変ですわね。ご案内いたしましょう」
僕が凍えていることに気付いたメイドが、やはり優雅な足運びで、けれど先ほどよりも速度を上げてくれた。館長はぺたりぺたりと──裸足じゃないか館長。冷たくないのか。
「冷たいな。よし、お前の最初の仕事はワタシを運ぶことだ。運べ」
「えっ」
「働かざるもの食うべからず。ワタシの図書館に来る以上は働いてもらう──運べ」
有無を言わせず抱っこさせられた。
痩せぎすの見た目通りとても軽く、こちらが心配になるくらいに館長はとても小さかった。僕が〝僕〟を横抱きにするという不思議な構図に首を傾げつつ、メイドに呼ばれたので足早に廊下を進んでいく。
「〝僕〟……メイドさんも……記憶喪失、でここに来たのか?」
「その通りでございますわ。右も左もわからず、戸惑っていたわたくしを館長さまがお受入れになってくださいました。それから、ここでメイドとして働いておりますの。主な仕事は掃除洗濯料理ですけれど、お裁縫も嗜んでおりますので服が要り様であれば遠慮なく仰ってくださいませ」
「要り様……? わざわざ作らなくても、外に出て買い物に行けば──」
「外はございませんの」
「え?」
言っている意味がわからなくて聞き返した僕に、腕の中の館長が答える。
「この図書館に〝外〟はない。何故そうなのかは知らないが──ワタシがこの図書館を創り上げた時から、図書館に〝外〟はなかった。世界と世界の狭間に図書館がひとつ、佇んでいるだけだ」
「…………」
言っている意味がわからなかった。
「わかりませんわよね。わたくしもそうでしたわ──けれどそのうち、わかってきますからご安心くださいませ」
思考停止してしまった僕にメイドはくすりと艶やかに微笑んで、こちらですわと扉の前に立つ。
「また後ほど、館内をご案内いたしますわ。今は取り急ぎ、お食事にいたしましょう」
そう言いながら扉を押し開いたメイドの背後から室内を覗き見る。そこは厨房のようであった。とても明るく、そして温かいそこに並ぶのは本格的かつ業務用であろうシステムキッチン。それにこれまた業務用の巨大な冷蔵庫や炊飯器、パン屋にでもありそうな巨大なオーブン。ホテルなんかにある厨房がそっくりそのままそこにある、といった感じだ。
鼻孔を擽る香ばしく、冷え切った体と空の胃を煽ってやまないこの匂いは──カレー。カレーだ。間違いない。
「──おや、随分小汚い〝我輩〟であるな」
「え?」
いきなり飛び込んできた暴言に視線を巡らすと、厨房の片隅に設置されているダイニングテーブルに料理を並べている僕の姿があった。
違う。また鏡かと思った。〝僕〟だ。〝僕〟だけれど僕じゃない。鏡に映った僕じゃない。
「我輩はここ、自分図書館で執事をしておる。精々我輩の手を煩わせないことだ、〝我輩〟」
齢五十といったところ、だろうか。
白髪混じりの灰色がかった髪を後ろに流していて、すっと筋が通っている鼻の下に蓄えられている口髭も白くなりかけている。僕よりも背丈があって、燕尾服が程よく体格にフィットしていてとても似合う。執事だと〝僕〟は自称していたけれど、なるほど、確かに執事らしい身なりだ──口調と態度の方はちっとも執事らしくないけれど。
「執事はワタシ以外ではここの最古の住人だ。お前とワタシを含めて、この図書館にいる〝ワタシ〟は四体だ」
四体。
なるほど、としっくりくるその呼称に頷く。確かに四人というよりは、四体だ。
なんせ、全員〝僕〟なのだから。
「〝我輩〟は何と呼ぶのだ?」
「雑用さまですわ」
「もっといい通称に変えていただけませんかね」
だから雑用係を引き受けた覚えはないし、第一雑用係だったとしてもその通称は酷すぎる。もっとこう、庶務とか……。
「では、お食事にいたしましょう。執事さま、もうひとり分ご用意なさいませ」
「断る。何故我輩が雑用如きのために動かねばならぬのだ。館長への恩義がある以上、最低限の執務はこなすが──余剰を出すつもりなどない」
「──とのことでございますわ。雑用さま、ご自分でなさいませ」
メイドとは。
「わたくし、もうお腹が空いて空いて」
だからさっさとお願いいたしますわ、と席に着きながら高圧的に微笑まれて、僕は思わず頷いてしまっていた。館長も僕から降りてぺたぺたとダイニングテーブルに着いて、執事さんもさっさとしろとばかりに僕を睨みながら腰を下ろした。
──〝僕〟であるはずなのにちっとも僕じゃない。
館長もメイドさんも執事さんも、〝僕〟であるはずなのに──なんなんだ、この逆らえない雰囲気。
キッチンに大きめの深皿が数枚重ねられていたので、それをひとつ取ってカレーライスを作る。〝カレーライス〟というものの存在とその味、それを僕は知っている。けれどやはり、それを食べた時の記憶がない。奇妙な感覚だ。
カレーライスを手にダイニングテーブルに向かい、館長の向かい側──執事さんの隣に腰を下ろせば、待っていたとばかりに三人は食前の挨拶をしたためてカレーライスにかぶりついた。館長は〝いただきます〟とひとこと、メイドさんは手を組んで額に押し付けて祈るような仕草をひとつ、執事さんは手のひらを胸に当てて頭を下げる動きをひとつ。
──この中だと館長に一番、しっくりくるものがある。僕と館長の住んでいた世界は、近いのかもしれない。
「いただきます」
無意識に合わせてしまっていた両手を見下ろしつつ、ひとこと。
スプーンを手に、カレーライスを掬って口に運ぶ。カレー、けれどビーフシチューのような甘みがある。もしかしたら混ぜているのかもしれない。具材はオードソックスにじゃがいもとにんじん、肉にたまねぎ。──オードソックス、オードソックスか。何処のオードソックス、なのだろう。
なんで僕は、こんなところで三体の〝僕〟と食事をしているのだろう。
僕の心に焦燥感も恐怖感も切迫感もないのは──記憶が、ないからなのだろうか。そう。こんなわけのわからない状況に放り出されて混乱してはいる。してはいるが、焦燥感も恐怖感も切迫感もない。ただぼんやりとした混乱が、あるだけだ。
僕は、誰だ?
〝僕〟らは──誰なんだ?
なにもわからない。
【忘却】