7 肖像画
「なぜ……ここにいる?」
「昨日はお屋敷の中を掃除したので、今日は外をと思ったんです。それで、せっかくなら公爵さまがよく使う辺りから、と思いまして」
箒を持った手を止め、おでかけですか? などと尋ねる声音にも陰りはない。
まさか、昨日ジルハルトに何をされたかもう忘れてしまったのか?
深く考えすぎていたのはどうやら自分だけのようだ。昨晩の自分自身に舌打ちしてやりたい衝動に駆られる。
「そうだ、出かけてくる」
ぶっきらぼうに答えると、少女は深く頭を下げた。
「お気をつけていってらっしゃいませ」
婚約者と言うより侍従のようだ、と思った。
その所作もだが、貴族の令嬢が着るとは到底思えないような質素な服装がそんな印象を抱かせているのだろうか、とも。
――自分が婚約者らしい扱いをしていないのが最大の原因だということには、まだ気がついていなかった。
*****
公爵さまが見えなくなるまで見送ってから、フランは詰めていた息を大きくはーっと吐き出した。
「……緊張したあ」
わたしは上手に笑えていただろうか。違和感などなかっただろうか。箒を握る手には薄く汗が滲んでいた。何をしてる、早く出て行けど怒鳴られることも充分考慮していたのだが、最悪の展開にはならずにすんでほっとした。
昨晩の出来事で、いよいよ追い出されるかもしれないと思っていたのだけれど。
「さあ、今日も頑張ろう」
フランはいつものように自分自身を励ました。今朝レーヴェさんが差し入れてくれたハムと卵のサンドイッチが絶品だったから、今日も一日頑張れるはずだ。
食材も厨房も好きに使っていいとレーヴェさんが言ってくれたから、お言葉に甘えて自分の食事は自分で作るようにしているのだけれど、たまにレーヴェさんは公爵さまの食事のついでにフランにもお裾分けをしてくれる。たぶん公爵さまの料理を多めに作ってフランにも回してくれているのだろう。
誰かに作ってもらう料理は、本当に美味しい。そうしみじみと考えて、フランの口元は自然と綻ぶのだった。
裏口周りはすっかり綺麗にしてしまった。次はどこに手を付けようか。
箒を片付けて、ふらふらとお屋敷の中を彷徨ってみる。
しんと静まり返った空気を恐ろしいとは思わない。むしろ静謐で、落ち着きさえ感じるように思う。ちなみにお化けは一度も見ていない。
フランの家ですら多いときで100人近い使用人を雇っていたのだけれど、それよりもよっぽど大きなこのお屋敷で見かけたのは、公爵さまと双子の侍従、それだけである。驚くべきことだがたぶん、本当にそれで全部なのだろう。
このお屋敷に来てからというもの、確かに丁重な扱いを受けているとは言えないかもしれないけれど、痛い思いは一度もしていない。
料理は薙ぎ払われてしまったが、それだけだ。公爵さまは、聞いていた噂と随分ちがう。
(もしかして、わたしが醜いから手を付ける気にならないのかしら)
嬉しいような、嬉しくないような、もにょもにょした気持ちになった。
それでも、とフランは思う。
それでも三食ご飯を食べさせてもらえて、ベッドがある。それだけで奇跡みたいだ。
たくさんの閉じた扉がお行儀よく並んでいる中で、その扉を選んだのに理由はなかった。なんとなく開けてみたくなった。ドアノブに手をかけてみたのは、そんな無作為の偶然で。
扉の内側は想像通り、蜘蛛の巣と埃だらけの薄暗い部屋だった。
しかし、それだけではなかった。
息を呑んだフランは躊躇い、それから、おずおずと部屋の奥へと進む。
そこにあったのは、一枚の絵画だった。
無造作に床に置かれた、フランの胸元ほどまである大きな肖像画。
そこに描かれているのは――
「公爵さま、……じゃない……?」
髪の色も目の色も、セレーネ公爵と同じもの。けれど、それは女性だった。
ゆったりとソファに腰掛け、淡く微笑む絶世の美女。
傷をつけてしまわぬよう、慎重に指先で埃を拭うと、ますます女性の美しさが輪郭を持って浮き立ってくる。
ひどく色が褪せているわけではないから、描かれたのはそこまで過去ではないはずだ。となればお祖母さまというには若すぎるだろう。たぶんこれは、公爵さまのお母さまか、お姉さまの肖像画。
セレーネ公爵にも家族がいた。そんなの当たり前のはずなのだけれど、今まで存在を意識したことがなかった。
けれど、と不思議に思う。
この絵はどうしてこんなところで埃を被っているのだろう。もしもフランの手元に家族を――両親を偲ぶ縁が、こんな大きくて立派な絵じゃなくてもいい、どんなに小さくても良いからひとつでもこの手に残っていたならば、大切に大切に、大切にするのに。絵なんて腐るほどにあるというなら分からないでもないが、風景画や抽象画は幾つも目にした気がするけれど、人間が描かれた絵画を見た覚えはない。
「……なにかしら」
ふと、額縁の背後に何かが落ちているのに気づいた。
手にとって埃を払ってみると、それはどうやら指輪のようだった。
細身の銀細工に、きらきらと輝く宝石がはめ込まれている。おそらく相当価値の高い――ダイヤモンド。
肖像画の女性の左手の薬指に光るそれと、同じものだった。