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曰く付き公爵は婚約者の涙を愛す  作者: 朔間 はる子
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6 消したはずの記憶のゆくえ


 ジルハルトはかれこれ12年、自室で食事を取り続けてきた。この屋敷に、側に仕える人間はいても自分と食事を共にするような立場の人間はいない。一人で摂る食事のためにわざわざ大ホールまで赴くのに意義を見いだせなかったのである。

 長く使っていないから、ホールはひどい惨状だろうと思いながら足を踏み入れて驚いた。

 そこはまだこの屋敷に大勢の人間がいた頃の、美しいホールだった。

 レーヴェに聞いたところによると、屋敷に来てからというもの、あの少女はひたすら屋敷の清掃に力を入れていたらしい。

 彼女を視界に入れようとしていなかったジルハルトは何も知らなかった。


 座るように促されたのは、かつては父の席であった場所、公爵家当主が座るべき上座である。何も間違っていないのに、そこに座すのに抵抗があった。

 この隣にいつもあった存在。甘い香水の香りを漂わせ、柔らかくジルハルトを抱きとめては笑っていた女の顔が脳裏をよぎるから、ジルハルトは強く頭を振った。


「公爵さま?」

「……なんでもない」


 レヴィンがひいた椅子に、ジルハルトは腰を下ろす。

 燭台の光に煌々と照らされたテーブルを前に、軽い目眩がする。


 そこにはすでに所狭しと料理が並べられていた。

 チーズと豆のスープ、スパイスとハーブで柔らかく煮た鶏、色鮮やかなサラダ、白身魚からは香ばしいバターの香りが立ち上り、炊きたてらしきパンがバスケットの中から覗いている。

 まるで、”あの頃”のような光景だった。


「どうぞ」


 最後の皿を運び終えた少女はそう言ってはにかんだ。


「何がお好きか分からなかったので、いろいろと作ってみました。召し上がってみてください」


 一瞬の逡巡の後、ジルハルトはフォークとナイフを手に取る。そして一番近くにあった白身魚を小さく切って口の中に入れた。

 ――うまい、と思ってしまった。

 それと同時に耳元で、無邪気に笑う子供の声が聞こえた気がした。

 お母さま、美味しいね。そう言って鈴が鳴るように笑ったのは一体誰だったのか。

 一瞬でもそんな憧憬に浸ってしまった自分が、許せなかった。


 右手を薙げば、面白いように皿たちが床の上で悲鳴を上げた。

 視界のすみで、少女がこぼれんばかりに目を見開いていた。


 なぜこんな誘いに乗ってしまったのだろう。いつものように放っておけば良かったのだ。レーヴェに何を言われようと無視を決め込み、自室で食事をすれば良かった。

 そうすればこんな、厳重に仕舞い込んでいた苦い何かを舌の上に思い出すこともなかったのに。


 たちまち静まり返った大ホールで、ジルハルトは立ち上がる。


「レーヴェ、レヴィン、代わりの食事を私の部屋へ」

「はい」

「はっ……」


 これで少女も帰りたくなるはずだ、と己の行為を胸中で正当化するジルハルトの背後から声がした。 


「申し訳ありませんでした」


 振り返ると、頭を下げる少女がいた。


「お口に合わないお料理を出してしまって、すみません。次はもっと頑張りますね」


 そして、へら、と笑って、何事もなかったかのように落ちた料理を拾い始めたのだった。



*****



 翌日、ジルハルトは街へ出向かなければいけなかった。

 橋の老朽化が進んでいるだとかなんとかで、修理の費用について業者と話をつける必要があった。


「ジルハルトさま、お顔色が優れません」


 レーヴェに朝の紅茶を淹れてもらいながら、ジルハルトは鏡を見る。確かにいつも白い顔がひときわ蒼白に見える。たぶんそれは目の下の濃い隈のせいなのだが。


「大丈夫だ。……ああ、朝食は良い。紅茶だけで」


 レヴィンがテーブルにサンドイッチを置こうとしていたのを押し留めて、ジルハルトは紅茶のカップに口をつけた。良い香りだ。良い香りなのだが、なんとなくすっきりしない。


「これを飲んだら出る。準備を」

「はい」


 レーヴェもレヴィンも、ジルハルトの寝不足の原因を追求しない。そのことにどこかで胸をなでおろしている自分がいた。


 眠ろうとするたび、ホールでの出来事が何度も何度も思い返された。

 昨夜あの少女が用意した夕食は、さぞ時間がかかったことだろう。それにほとんど口をつけなかったばかりか、皿ごと駄目にしてやったのに。

 怒ったり泣いたりするはずの場面であれは笑ったのだ。

 なにもなかったと言わんばかりの気軽さで、次は頑張るなどと宣ったのだ。 


 あの瞬間を思い出すと、ジルハルトの胸は焦りにも似た感情でいっぱいになって、それを持て余しているうちに窓の外は明るくなってしまっていた。


 軍服を模した白い公務服を身にまとい、ジルハルトはため息をつく。

 切り替えねば。

 間違っても少女と出くわさないように、いつものようにジルハルトは裏口から外へ出た。

 出会うはずがなかったのに。


「あ。セレーネ公爵さま、おはようございます」


 春の陽気のもと、からりと乾いた洗濯物のように清爽な微笑を浮かべて、少女はジルハルトを出迎えた。



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