5 夕食にしましょう
少女が屋敷にやってきてはや三日。
ジルハルト・セレーネは婚約者だという娘とあれ以降顔を合わせることなく、普段どおりに自室で書類にペンを走らせていた。
貴族というのは遊んで暮らしているものと思われがちだが、社交に領地内の問題に慈善活動に、意外とやることが多いのである。もちろんそれに追従してくる地味な書類仕事も膨大だ。
だからこそ欲しくもない婚約者に割いている時間などないわけで。
あのくそ王子、とジルハルトは内心で吐き捨てる。
思い出されるのは、阿呆面のよく似合うこの国で最も高貴な血を引く友人の顔である。
――きみも26歳。そろそろ結婚の一つも考えておかないと、一生独り身になってしまうよ。
一度たりとも物事を深く考えたことがないだろうお前、と言いたくなるほどあっけらかんとした笑顔でジルハルトの友人はこう続けた。
――だからね、きみの将来を憂いた友達思いのこの僕が、きみの代わりに婚約者を探しておいたよ、多めに。
多めにとはなんだ、多めにとは。本来一人であるはずの婚約者をなぜ多めに探す、と問えば、「きみは性格に難があるから、断られたときのために候補は多いほうがいいだろう」などとやっぱり邪気のない阿呆みたいな笑顔で言うのである。
どれほどの阿呆でも王子は王子。無碍にできない。しかし婚約者など欲しくない。ならば、とあの手この手を駆使して相手から婚約破棄させるように仕向けている間に、信じられないくらい噂に尾ひれがついていった。止めようとしたときには手遅れで、いつの間にか自分は女性を切り刻むことに興奮を覚える精神異常者に仕立て上げられていた。
なにをどうすればそんなことにと脱力したものだが、噂を逆手に取ることで、より簡単に婚約者候補を消していくことに成功してからは開き直ることにした。
気を許せる存在など求めてはいないのだから、巷でのジルハルト像がどんな化物になろうと知ったことではなかった。
公爵の婚約者候補に挙がるような令嬢はみな、薄汚れ、幽霊が出るといわくのついた屋敷に半日として居座ることができなかった。
今回の少女も同じに決まっている。奇をてらった行動でジルハルトの気を引こうと狙ったのかもしれないが、あの少女にナイフを突きつけたあの朝から一度たりとも顔を合わせていないし、彼女が何をしているのかも知らない。知りたくもない。
婚約者などいらない。
愛などこの世に存在しない。
それをジルハルトは身をもって理解している。
「公爵さま」
顔を上げると、この屋敷に二人しかいない使用人のうちの一人、レーヴェがそこにいた。
「ついに出ていきでもしたか」
ようやくか。そう思ってレーヴェに問えば、彼女は静かに首を振った。
「いいえ、夕食を作っていらっしゃいます」
「は……?」
「公爵さまに召し上がっていただきたいとのことです」
「私が食べるわけ無いだろう。そもそも厨房に入って良いなど誰が言った」
「公爵さまの婚約者というお立場ですので、わたくしが許可を出しました」
「何を勝手な」
叱責の声音にも、レーヴェは何一つ間違ったことはしていないと言わんばかりの涼しい顔である。
「もう用意はできております。顔を出すだけでも」
「どうして私がそんなことをしなくてはいけない」
「婚約者さまが厨房を使われていましたので、わたくし共の方では公爵さまのお食事が用意できておりません」
暗に、あの少女の食事以外で今日の夕食はない言っているのである。脅迫である。怯んだジルハルトにレーヴェはさらに追い打ちをかけてきた。
「本日は昼前の軽食から何も召し上がっていらっしゃいません。空腹も過ぎると体に毒です。どうぞお食事を」
ジルハルトは、ついに観念した。