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曰く付き公爵は婚約者の涙を愛す  作者: 朔間 はる子
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36 曰く付き公爵は婚約者の涙を愛す



 帰ってくるまでの馬車の中で、ジルハルトさまはずっとフランを膝に乗せて抱いたまま、何も言わなかった。だんだんと冷静さを取り戻していたフランは降りようとしたのだけれど、僅かに身動ぎしただけでもジルハルトさまが何かに怯えたようにその腕に力を込めるから、フランはお屋敷に到着するまで、結局されるがままになっていた。






 ジルハルトさまのお部屋のソファに、まるで壊れ物みたいにゆっくりと、優しく降ろされる。フランのすぐ横に腰を下ろしたジルハルトさまは、フランの方に身体を向けてはいるのだけど俯きがちで、前髪で表情が隠れて見えない。手を伸ばせば届くほど近い距離。でも、触れるにはどこか遠い距離。


「ジルハルトさま、あの……」


 切り出したものの、何から話せば――何を話せば良いのか分からなくなった。

 誤魔化すように毛布を握りしめる手に力を込めて、そして自分が薄布の下、何も身に着けていないことを思い出した。ここに戻ってきて本当に良かったのだろうかと心の中でふと思った。


 無我夢中で差し伸ばされた手を取ってしまったけれど、選択は正しかったのだろうか。何も問題は解決されていないのに――。心臓がずきんと、ひび割れるように痛む。


 重く伸し掛かる沈黙に耐えきれなくて、それとはなく毛布の裾を通い合わせながら、フランは取り繕うように笑った。


「さ――さっきはびっくりしました。レイトラムのお屋敷を買ったと仰ってたの、本当ですか? 一体どうして……いえ、それよりも本当にお見苦しいところを見せて、申し訳ありませんでした。でも慣れてるんです、ああいうこと。だから全然、大丈夫で、なんともなくて。ああいうことっていうのはその、わたしお義兄さまから、」


 俯くジルハルトさまが今何を思っているのか、考えるだけで頭が真っ白になってしまいそうだったから、そんな自分を誤魔化すために思いつく言葉を片っ端から声に出したのに、それが消え入るように途切れてしまったのは、ゆっくりと持ち上げられたジルハルトさまの瞳がフランを見据えたからだ。湖面のような視線にさらされて、フランは次の言葉を見失う。


 ジルハルトさまがおもむろに持ち上げた手が頬に触れるのを、フランの右手が無意識に拒んだ。想定内だったのか、ジルハルトさまが驚いた素振りはない。眉をひそめることも悲しむように目を眇めることもなく、ただ何かを訴えるようにこちらを見つめる紫水晶は、フランの柔らかい部分を容赦なく突き刺していた。


「だから……わたし」


 嗚咽を飲み込んで、


「あなたに相応しくありません」


 語尾が震えて、口元が引きつった。たぶん今自分は、すごく情けない顔をしているんだろう。


 ジルハルトさまは何も言わず――その腕にフランを抱き寄せた。


「や、めてください、わたし駄目なんです、本当に、綺麗じゃないっ……」


 レイトラムのお屋敷でジルハルトさまの胸に飛び込んだのは自分なのに、今更のようにいやだやめてと突き放そうともがいた。けれどジルハルトさまの檻は強固でびくりともしない。


「お前は綺麗だ」


 囁かれた声に、押し返そうとしていた両手に力が入らなくなって、息が詰まった。


「綺麗だ。今まで見てきた誰よりも。見目だけじゃなく、お前は綺麗だ」

「……っ」


 諭すような声が、フランの耳朶に染み入る。耳をふさぎたいのに聞いていたい、そんなおかしな気持ちのせいで唇を噛む。

 それでもなお「でも、」と言い募ろうとしたフランをジルハルトさまは遮って、


「お前が汚れていると言うのなら、私の手は血で汚れている」


 ぽつり、水滴が落ちるような静けさで、そう呟いた。


「私の父は幾人も愛妾を囲っていた。母はそれに耐えきれず心を病んで、ある日就寝中の父と、隣に寝ていた愛人を、刺して殺した」


 平然と降ってくる言葉の雨に、フランは息を呑んだ。ジルハルトさまのお母さま、それはもしかしてあの――指輪の持ち主のこと?


「私が騒ぎに気づいて部屋を覗いたとき、母は血まみれになって狂ったように笑っていた。私に気づくと、母は私の首を絞めた。死にたくないと無我夢中で、落ちていたナイフを拾った私は母を刺し殺した」


 脱力していた両腕をもたげ、ジルハルトさまの胴にそっと沿わすと、こつんと硬い肩甲骨に指が触れた。角ばって平たい、フランを抱きしめるために丸くなった、どこか悲しい背中がそこにあった。


「あの日まで、両親は愛し合い、そんな両親に私も愛されていると思っていた。でも違ったんだと、母が狂うまで放っていた父と、自分の子どもまでをも手に掛けようとする母を見て、気づいた。愛なんてこの世界に存在しない。今でもその考えは変わっていない。愛というものがよくわからない。だから結婚する気もなかった。婚約者は追い返した。耳を疑うような噂も放っておいた。ずっと一人のままでいいと思っていたからだ。……でも」


 フランの肩を掴んで、ゆるり、ジルハルトさまが身体を離す。フランが背中に回した手をそっと取って唇を寄せる。その紫水晶の双眸は、発言の苛烈さとは裏腹にさっきと何ら変わらず凪いでいる。

 静かだからこそ、その声が、言葉が、真摯だと思った。嘘偽りのないジルハルトさまの心が吐露されているんだと、そう思った。


「お前を見ていると、守ってやりたいと思う。これが愛なのか、そうじゃないのかは自分でもまだわからない。でもお前はいつも一生懸命で、儚くて、壊れそうで。だから私は――俺は、そばでお前を守っていたい。血に濡れた手でも良いと、お前が言ってくれるなら」


 視界が潤む。弧を描いていたはずの口角はずいぶん前から下がってしまっている。


「……ジルハルトさまは、ずるいです。ずっと思っていたけど、今もっと、思いました。そんな言い方、ずるい……」

「嫌いか?」


 左右に強く首を振った。繰り返してきた笑顔の作り方が、今はもうわからない。顔をぐしゃぐしゃにして、ぼろぼろ涙をこぼして、フランは吐き出した。


「――好きです」


 一度こぼしてしまえば止まらなかった。ジルハルトさまの指を握って、握り返される感触にまた胸がいっぱいになって、そうしてあふれていく言葉を重ねる。


「あなたが好きです……とてもとても、好きです。わたし、ジルハルトさまと一緒にいても、いいんですか……?」 

「むしろフランはいいのか? 恐ろしくはないのか」


 恐ろしいはずがないと、再度ふるりと首を振って、


「ジルハルトさまがいいっ……」

「奇遇だな。私も同じだ」


 ふっとジルハルトさまが笑った気配がしたけれど、涙の膜が邪魔をしていた。ちゃんとその顔が見たくて手のひらで目元を拭おうとしたとき、唇に何かが触れた。

 驚いて瞬きをしたら涙が雫を結んで頬を滑った。急に開けた眼の前、すぐそこに、瞼を閉じた綺麗な、綺麗な人がいて。

 呆然としている間に、重なっていた唇が離れていく。ジルハルトさまが薄目を開けて、そしてフランの好きな、あの控えめな苦笑を浮かべた。


「困ったな。お前の泣いている姿が愛おしい」




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