35 帰ろう
「私達が帰ってくるまでに終わらせておけとあれほど言ったでしょう!」
左の頬で激しい音が弾けて、フランの首はがくんとぶれる。痛いというよりも熱いと思った。
「相変わらず役に立たない子、そんな汚い格好で私の前に立たないでちょうだい。はやく下がって」
「……はい、申し訳ありません」
フランが真っ黒に汚れているのは、命じられた通り暖炉の煤を落としていたからだ。初夏にさしかかろうとしているのに、冬が終わってから今の今まで、義母は億劫がって掃除を後回しにしていたらしい。
じんじんと疼く頬を押さえ、フランは一礼する。
暖炉掃除をしていた娯楽室を出てすぐ、小さな桶に水を汲んだ。それから厨房の奥、風通しは良いけれど薄暗い貯蔵庫の一角へ向かう。日持ちのする食料が並べられた棚と棚の隙間にすっかり擦り切れて毛羽立った薄い毛布を敷いた場所、そこがフランの寝床だった。以前は庭掃除の用具をしまっている物置の中で寝起きしていたのだけれど、夜中に逃げ出そうとしたせいで家の中へと移されてしまった。三年ほど前のことだ。
貯蔵庫なので料理係の出入りはあるが、彼らが出入りするような時間に休んだり眠ったりする自由はフランにはないから、困ることもあまりなかった。
義母と義兄は外で夕食を済ませてきたらしく厨房に人気はない。良かった、とフランは胸をなでおろす。煙突まで綺麗にしようと暖炉の中に入り込んでいたから、身体がほのかに煙臭い。毛布に匂いが移る前に着替えて、身体を拭いてしまいたかった。
ジルハルトさまのお屋敷から持って出たものは、両親のペンダントだけだ。この家に戻ってくるとき着ていたマーダさんのドレスも、お前には贅沢だと着替えさせられてしまった。
本当に、嫌になるくらい、何もかもが元通りだ。
ジルハルトさまに初めてお会いしたときのような、着古して褪せた普段着で、フランが長いこと眠ってきた場所に戻ってきた。
まるであのお屋敷で過ごした時間がすべてまぼろしだったみたいだ。
フリルもレースもない簡素な普段着を脱いで、水に濡らして絞った襤褸の布切れで身体を拭いた。冷たかった。レーヴェさんに湯浴みを手伝ってもらうの、お姫さまみたいで嬉しかったな。そのあとは髪を丁寧に櫛ってもらって、ティータイムにはレヴィンさんが淹れてくれた紅茶を飲みながら、ジルハルトさまと、美味しいお茶菓子をつまんだりして。そんな暖かな時間が蜃気楼の向こうに揺らいでいた。
「泣くな」
ごし、と煤を拭う。
「大丈夫」
ほとんど呼気みたいに声に出す。
「笑っていたら、大丈夫」
へらと、唇を歪めてみせたとき。
背後で、ぎぃ、と床板が軋んだ。
振り返ることはしない。影を落とすその人が誰か問うまでもなかった。
思ったよりも早かった、外出していたはずだから、湯浴みくらいしてからくるかと思った。感想といえばそれくらいのものだ。
フランのむき出しの肩に、手が触れた。
「よお、フラン。よく帰ってきたなあ」
ルイザスに押し倒され、腹の上に体重がかかっても、フランは声を上げなかった。これから先、何をされるかもう分かっている。申し訳程度に胸元を隠していた手を暴かれ、フランは首を横に向けて目を閉じた。
何も感じない。感情が朽ちて死んでいく。
「婚約は破棄になったんだろ? またこの屋敷にずうっといるんだろ?」
大丈夫。
笑っていたら、大丈夫。
だってお母さまが言ったのだ。
フランの笑顔は素敵ね、みんなを幸せにしてくれる。
だから――お母さまがいなくなっても、ずっと笑っていてね、と。
「末永く仲良くしようぜ。なんたって、せっかくの義兄妹だからなあ」
お母さま。わたし、ずっと言いつけを守っているの。お母さまが亡くなって、お父さまが塞いでいたときも、わたしは笑ったの。そうしたらお父さまがね、ありがとうって涙を拭いて微笑んでくださったの。フランのおかげで元気がでたよって。
今でもね、痛くても辛くても悲しくても、にっこり笑ってみたら、お母さまが褒めてくれる気がするの。だから、今日もまた、ぜんぶ終わった後に笑ってみせるから、そうしたら、よく頑張ったね、えらいねって、褒めてくれる?
首に下げたロケットが、応えるようにちゃりと鳴るから、フランは淡く微笑んで、
外がにわかに騒がしくなったことに気がついた。
「……なんだ?」
フランの上に乗ったまま、訝しげにルイザスが貯蔵庫の扉の方を仰ぐ。慌ただしい幾つもの足音は徐々に大きくなっていて――
フラン、と呼ばれた。
それはとても遠くて、くぐもっていて、そもそもこんなところで聞こえるはずのない声で。
都合の良い幻聴が聞こえているのだと思った。夢の続きを見ているのだと思った。
「フラン、どこだ!」
ありえない。錯覚だ。心を、殺さないと、この家で生きてなんていけないのに。逃げ出したいと思ってしまうのに。その声で、我に返ってしまう。
――何も感じないなんて嘘だ。
義兄の行為を虫酸が走るほど嫌悪している。打たれれば痛いに決まっている。悲しいのも嫌。辛いのも嫌い。笑っても笑っても、ぽっかり空いた胸は埋まらない。父も母もいなくなってしまった。記憶の彼方に霞んでしまった彼らはまるで消えかけた蝋燭の灯りだ。消えてしまわないよう、忘れてしまわないよう両の手で囲うのに、フランの小さな手だけでは守れない。残った僅かばかりの優しい思い出をどんなに噛んでも味がしない。
ひとりで笑って、本当はずっと虚しかった。母の声なんて聞こえない。すべて幼稚な現実逃避だ。それでも縋る寄す処が他になかった。
でも今は知ってしまったのだ。きらきらと降り注ぐ星屑みたいな、あなたの声も、てのひらも。
「フラン、聞こえるなら返事をしろ!」
もう一度、それに触れたい。届くことを許されるなら、名前を呼んでくれるなら、千切れそうなくらい、あなたに手を伸ばしたい。
「――ジルハルトさま!」
喉が壊れそうなくらいの声で叫んだ。ルイザスが驚いて一瞬拘束が緩んだその隙に、フランは渾身の力で彼を突き飛ばした。床に敷いていた毛布をひっつかむ。
「ジルハルトさま、ジルハルトさま!」
迷子の子どものような声で名前を繰り返しながら廊下にまろび出たその先に、彼はいた。
フランが初めてセレーネのお屋敷で目覚めた朝のように、左右に双子の侍従を従えて、でもあの時とはぜんぜん違う必死とも言えるような表情で、フランに手を差し伸べて。
「フランッ!」
ほとんどぶつかるようにジルハルトさまの胸に飛び込んだフランを、ジルハルトさまの腕がきつく抱きしめてくれる。夢じゃない。現実だ。だってこんなにも、抱きしめられて息が苦しい。このまま死んだって良い。そう思うくらい、嬉しくて苦しい。
「ジルハルト、さまっ……」
涙でぼやけて何も見えないから縋るようにその体温を貪った。抱きしめられているのと同じくらい、もしかしたらそれよりももっと強く彼の広い背中を抱きしめ返した。そうでもしないと消えてしまう気がしていた。
どうしてここにいるんだろう。ロベルタはどうしたのだろう。わからない。今は何も考えたくない。ただこの安堵だけを抱きしめていたい。
「セレーネ公爵! 一体ロベルタに何をしたの! あまつさえ勝手に屋敷に上がり込んで……いくらセレーネ公爵だからといってこんな横暴、許されると思ってらっしゃるの!?」
どうやら騒ぎを聞きつけたらしい義母が息を切らして走ってくる。何かを脇に抱えていると思ったら、それは髪を乱し顔面蒼白となっているロベルタだった。遠目にも分かるほどがくがくと震え、そしてセレーネという名前が聞こえるたびに「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。ひどい怯えようだった。
ジルハルトさまに詰め寄ろうとしていた義母は腕の中にいるフランを見咎め、さらに剣呑に顔を歪ませた。
「フラン、どうしてあなたがここにいるの、今すぐ部屋に戻っていなさい!」
部屋と呼べるような場所なんてないのに、ジルハルトさまの手前、外聞を気にして言葉を選ぶ義母。
不安がこみ上げてジルハルトさまの顔を見ようとするのだが、フランの肩口に顔をうずめるようにしているせいで叶わない。
「あんた……いや、あなたはまさか、セレーネ公爵?」
フランを追って出てきたらしいルイザスの声が背中で聞こえて、反射で肩が竦んだ。ジルハルトさまの腕に力がこもる。
顔を上げないまま、レイトラム一家の視線から隠すようにフランに毛布を巻き付けながら、ジルハルトさまがぽつりとこぼした。
「殺してやる」
すとんと感情の抜け落ちた、背筋が凍るほど冷たい声だった。
隣にいたレーヴェさんにフランの身体を柔らかく押し付けたジルハルトさまがゆらりと立ち上がった。レーヴェさんとレヴィンさんに守られるようにしながら肩越しに彼を振り返ろうとしたとき、鈍い殴打の音が――そして何かが折れる音が大きく響いた。
「いやあ! ルイザス!」
衝撃でルイザスが壁に打ち付けられるようにして倒れ込むのと、義母が悲痛な悲鳴を上げて駆け寄るのはほぼ同時だった。呻き声を上げてルイザスが鼻のあたりを手で覆う。その下から赤い血がぼたぼたと落ちて床に鮮やかな染みを作った。
「なんてことをするの! ここがレイトラムの屋敷だと知っての狼藉なの!?」
「お前こそ私の屋敷から出て行け」
「私の……? なにを血迷ったことを――」
「レヴィン」
「はい」
レヴィンさんがいつになく手荒な仕草で、義母に羊皮紙を押し付ける。
「この屋敷は私が買い上げた。出ていくべきはお前たちの方だ、即刻立ち去れ!」
ジルハルトさまが怒鳴り声を叩きつけるのに合わせて、契約書らしき羊皮紙を広げた義母は、蒼白な顔で戦慄いた。
「な、に……? 嘘。こんな……こんなこと、許されるわけが、ないわ。こんなこと……」
「許されないことをしてきたのはどっちだ。まさかの程度でフランを――私の婚約者を苛んできたお前たちへの罰が、終わると思うな」
瞬きすら忘れ呆然とする義母を一瞥し、殴ったときに手に付着したらしいルイザスの血を汚らわしそうに振って払うジルハルトさまがこちらを仰ぐ。そして怒ったような、泣きそうな、辛そうな、色んな感情をごちゃまぜにしたような顔をして、毛布にくるまるフランを抱き上げると、深く深く息を吐いた。
ジルハルトさまの後ろには茫然自失としたレイトラムの人間たちがいる。あれほど恐ろしく、フランにとって大きな存在だった彼らが、今は各々に萎縮して言葉を無くしている。それを哀れに思うほど聖人ではないけれど、不思議なことに良い気味だとも思えなかった。ただ驚くほどに無感情に、フランは歪な家族だった彼らを眺めていた。
「帰ろう」
掠れた声が囁く。
訊きたいことはたくさんあるはずなのにどれも形にならなくて、細い首に腕を回してフランは一度だけ頷いた。




