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曰く付き公爵は婚約者の涙を愛す  作者: 朔間 はる子
34/37

34 婚約者

 

 その夜、ジルハルトは泣きじゃくるフランを、彼女が眠るまであやし続けた。

 体調が悪いんだろうと促してベッドに押し込んだまでは良かったのだが、フランが幼子のようにジルハルトの手を握ってくるから、ベッドの横に椅子をつけて、彼女が泣きつかれて寝息を立てるまで待っていた。甘えられているみたいで悪い気はしなかった。


 フランがこの屋敷に持ち込んだのは最低限の衣類だけ。両親を偲ばせるようなものは何一つ持っていなかったようだから、ロケットが戻ってきたことが号泣するほど嬉しかったのだろう。いつも笑ってやり過ごしていたフランの涙を目にしたのは、思えば初めてのことだった。




 ジルハルトに目覚めを促したのは、眩い太陽の光だ。

 目元を真っ赤に腫らした寝顔を見ていたらなかなか離れる気にもなれず、頭を撫でているうちにジルハルトもいつの間にか、フランの枕元に突っ伏すようにして眠ってしまっていたらしい。


 今は何時頃だろう。フランに問おうと思ったのに、既にベッドの上に姿がない。辺りを見回そうと首をもたげたら、肩にかけられた毛布がずり落ちかけて慌ててその端を掴んだ。先に起きたフランがかけてくれたらしい。


 窓の外に見える太陽がやけに高かった。ずいぶん長いこと眠ってしまっていたようだ。

 おかしな体勢で寝てしまったので身体が軋んでいた。伸びをしてなんとかほぐしていると、ほんのりと甘い香りがどこからともなく漂っていることに気がついた。


 香りの正体を探してみると、普段はジルハルトが選んだ花が生けられている花瓶に、昨日さした白百合が少し元気をなくして俯いていた。香りの正体は白百合だったのだろうか。はて、でもこれは花の芳香というよりも。


 よくよく見ると、花瓶の陰に隠れるようにして、リボンがかけられた小さな包みがあった。試しに手にとって見れば香りが近くなる。リボンをほどいて表れたのは、焦げたクッキーだった。


「謎の物体じゃない……」


 指で摘んでしげしげと眺めてみる。焼き色はちょっと、いやだいぶ濃いが、見た目も香りもきちんと菓子のそれである。ロケットのお礼といったところだろうか。

 かじったそれは、やっぱりほのかに苦くて笑ってしまった。


「公爵さまッ!」


 今まで聞いたこともないような激しい声が、穏やかな昼下がりを切り裂いた。

 何事にも冷静で動じないあのレーヴェが、ノックもせずに焦燥を顕に駆け込んでくる。


「なんだ、一体何があった」

「どうか……落ち着いて、聞いてください」

「落ち着くのはお前――」

「フランさまが置き手紙を残していなくなりました」


 早口でジルハルトの言葉を遮ぎったレーヴェの手には、ちょうどジルハルトが見つけたクッキーの包みと同じもの、そして紙片が握られていた。


「わたしたち姉弟とジルハルトさまに感謝を述べる手紙が、隠すように置いてあって――それで……それから、手紙の中に”自分はジルハルトさまに相応しく無い”というような文言があって」


 混乱しているらしく要領を得ない。

 フランが、いなくなった?


「……ずっとお伝えするか悩んでいましたが、どうにも無関係とは思えないので今、お伝えさせていただきます。少し前、フランさまのお部屋で、公爵さまが贈られた赤い靴が片方しかないことに気がつきました。何かあったのではないかと思って勝手ながら調べていたのですが、どうやらフランさまは、その――義理の兄に、暴力を振るわれていたようなのです」


 何をそんなにしどろもどろになることがあるのか、その報告は以前聞いただろう、とジルハルトは思った。

 それを今更なぜ、ただごとではないといった形相でレーヴェがジルハルトに告げるのか分からない。わからないはずなのに、頭の何処かで歯車が噛み合っていく音がした。かたん、かたんと徐々に大きくなっていくその音に、なぜか息苦しさを覚えた。


 理由を聞かずにおいた、合わなくなった視線の理由はなんだったのか。

 ジルハルトに触れる手はなぜあれほどためらいがちだったのか。

 そして褥での激しい拒絶にもしもなにか――事情があったのだとしたら。


「力による暴力ではなく、その」


 やめろ、と口の中で呟いた。やめろ、その先は聞きたくない。

 ただでさえ料簡がおぼつかないというのに、さらにノックの音が邪魔をした。返事も待たずに入ってくるのは、表情に険を含んだレヴィンだった。


「ジルハルトさま、お客さまです」

「帰せ、取り込んでいる」

「ですが」

「帰せと言っている!」


 激しい剣幕で怒鳴ればレヴィンがびくりと肩を震わせた。

 その後ろから覗いたのは、赤茶の巻き毛と、数人の侍従らしき人間。


「公爵さま、どうかされましたの?」


 脳天気に笑ったその女をジルハルトは知っていた。

 ロベルタ・レイトラム。ここにいるはずのない、フランの義姉だった。




*****



 ああ今日もお麗しい。ロベルタは恍惚と公爵さまを見つめた。

 夜会では蠱惑的な色香にくらりとしたけれど、こうして昼間に拝見すると息を呑むほど清冽な美貌をしている。そのまま光に溶けて儚く消えてしまいそうだ。


 周りも見回してみる。ベッドがあるから寝室のようだけど、公爵さまの部屋と言うにはやけに女性らしい雰囲気だ。枕元にぬいぐるみが見え隠れしているし、ここはフランの部屋だったのかも知れない。


 寝間着と思わしき楽なシャツ一枚でいらっしゃるけれど、まさかフランと共寝をされたのだろうか……などと気分の悪い考えが過ったが、すぐに思い直す。あの気の弱い義妹が、そんなこと出来るはずがない。


「どうして、ここにいる」

「妹の代わりに参りました」

「何を分けのわからないことを……。レーヴェ、レヴィン、とにかくフランを探せ」

「あら、聞いてませんの? フランならレイトラムのお屋敷ですわ。朝一番に戻ってきましたの」

「なに?」


 あしらうように逸れていった視線が途端にこちらを捉えるから、ロベルタは満足して笑みを深める。


「最低限のご挨拶はするようにと申し付けておいたのに……愚妹の非礼をお詫びいたします」

「御託はいい。どういうことだ」

「申し上げたとおりです。ああそうだ、妹から手紙を預かっておりますわ。これをどうぞ」


 今の言い方、ちょっと芝居臭すぎたかしら――連れてきた侍従の手から、レイトラムの屋敷を出る前にフランに書かせた手紙を差し出すと、公爵さまはそれをひったくった。焦れた手付きでナイフも使わず乱暴に封を切る。


 手紙の内容は見なくてもわかっている。だってロベルタが言った言葉を一言一句違わぬように書かせたのだから。

 

 曰く、やはり低俗な自分には公爵家の気風が合わなかった。姉・ロベルタは自分より器量もよく教養が有り、自分よりもよっぽど公爵と釣り合う。だから自分とは婚約を破棄し、代わりにロベルタと婚約してほしい。婚約はそもそも家同士の取り決めであるから、自分でも姉でも問題はない――というようなことだ。


「あの子ったら、戻ってくるなりわたくしに泣きついたんですの。公爵さまは素晴らしい方だけど、やっぱり自分には公爵家の婚約者という立場は荷が重いって。本当に我が儘な妹で、謝罪の言葉も見つかりません。あの子の不始末は、僭越ながらわたくしが拭わせて、――!?」


 淑女らしい優雅な礼で頭を下げたその手首を、千切れんばかりの力で公爵さまが掴んだ。


「な、なんですの?」

「本当に、フランがそう言ったのか? 私の婚約者でいるのは荷が重いと? お前に、代わってくれと?」

「そうですわ、だから離してくださいませ、痛い……!」


 非難しようと見上げた彼の瞳が、据わっていた。


 ロベルタはぞっとした。違う。わたくしが憧れたのはこんな、視線ひとつで人を殺せそうなほど炯々とした目ではない。公爵さまがフランに注いでいたのはもっとずっと柔らかくて愛おしげな――


「ちょっと、嫌、離して!」

「レヴィン」

「はい」


 すぐそこにあったベッドに放り投げられ、はしたなくドレスが捲り上がった。慌てて裾を正そうと伸ばした手を、公爵さまの左手が再び掴んで乱暴にシーツに縫い付ける。なにを、と瞠ったロベルタの眼の前で、金髪の少年から公爵さまが何かを受け取った。

 それはナイフだった。凶悪なまでに研ぎ澄まされた銀色の光に、ひっと喉が引きつる。


「いいだろう。今度の婚約者はお前なんだな。妹の不始末を拭うと言った、その言葉に相違はないな」


 問いではなかった。言って分からぬ稚児に言い聞かせるような頑然たる圧力だけがそこにはあった。

 公爵さまは瞬き一つしない。あんなに綺麗だと思っていた紫水晶の瞳が、開いた瞳孔が、ロベルタを芯から震え上がらせる。


 お嬢さま、とロベルタの侍従たちが狼狽した声を上げても、公爵さまは視線をひたりとロベルタに据えたまま動かない。

 いやいやと(かぶり)を振った。こんなの話が違う。こんな人知らない。恐怖と混乱のあまり視界が滲んでいく。


「ようこそロベルタ嬢。物狂いの、残虐非道のセレーネ公爵の婚約者として、喜んでお前を迎えよう」


 石のように冷たく、表情のない公爵さまがナイフを振りかぶり、ロベルタは絶叫した。




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