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曰く付き公爵は婚約者の涙を愛す  作者: 朔間 はる子
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33 恋のおわり

 

 出てきたときと同じように、植木を利用して窓から部屋に戻った。

 頭の芯が凍りついてしまって、うまく思考が働かないまま、フランは何事もなかったかのようにベッドに沈む。


 寝て起きたら、すべてが夢になってはいないだろうか――なんて馬鹿なことを本気で考えた。

 どこまでが夢だったなら良かっただろう。夜会でロベルタに会ってしまったこと? ルイザスに襲われたこと?

 それとも、ジルハルトさまの婚約者になったこと?


「――――」


 熱いものが込み上げて、フランは両腕で顔を覆う。


 そんなふうに思いたくない。たくさんものを与えてもらったことを、後悔したいわけじゃない。

 だってわたしは。


 ふいに響いたノックの音がフランの思考を断ち切った。


「フラン、起きているか?」


 よりによってというタイミングで、ジルハルトさまはいつだって現れる。


「体調が悪いと聞いた。具合はどうだ」


 こぼれかけていたものを乱暴に擦った。それでも喉がきゅうっと狭い。いつ声が濡れてしまうか分からない。

 だから、このまま寝たふりをしてやり過ごそう、そう思ったのに、


「……もし話せるようなら、少しだけ時間をくれないか」


 聞こえてきたジルハルトさまの声が、あまりにも沈んでいたから。


 大きく深呼吸する。大丈夫だ。何百回、もしかしたら何千回と言い聞かせた言葉をまた繰り返し、フランは素足で床に降り立った。

 やけに重たく感じるドアノブを回して、寝室の扉を、そうっと開ける。


「どう、されましたか」


 見上げたジルハルトさまはなんだか――子犬みたいな顔をしているように見えた。


「謝罪をしたかった」

「……もし夜会の夜のことを仰っているなら、謝ることなどありません。むしろ、謝罪すべきはわたしの方です」

「違う、私だ。酔っていたとはいえ、お前を怯えさせてしまった。だから、すまない」


 そう言って、婚約者とはいえまだ16の、ちっぽけなフランにもジルハルトさまは頭を下げてみせる。

 物狂いの、残虐非道のセレーネ公爵さまなのに。


「すぐに謝らなければいけないと思っていたんだが、言葉だけでは足りないと思って、これを探していたら時間が経ってしまった。遅くなってしまったが、よかったら受け取って欲しい」


 何かを握り込んだ手のひらをこちらへ向けられて、すくうようにした両手を差し伸べると、鎖が擦れる音と、微かな重みが手のひらに落ちてきた。

 ころんと丸い形の、ロケットペンダント。

 フランはそれに見覚えがあった。


「レイトラム家が最近古物商を呼んで家財を幾らか売ったと聞いて、その古物商を探したんだ。そうしたら、売られたものの中にこれがあった。そこに描かれているのは――お前とその両親ではないか?」


 ぱちりと、海辺に落ちた愛らしい貝殻のような形でロケットが開く。描かれているのは小さな小さな三人の人物画だ。描いたのは高名な画家なんかじゃないから、顔は潰れているし、全然似てない。でもそれは母が亡くなったあと、フランが寂しくないようにと、油絵が趣味だった父が誕生日にくれた、家族三人が並んだ手作りの肖像画だった。


 父が死んでしまった後、フランの部屋は義姉のものになった。そのときにこのロケットも部屋ごと彼女のものになってしまって、もう捨てられたのだとばかり思っていたのに。

 胸が震えた。ロケットをぎゅっと、確かめるように握りしめた。


「謝罪と、それから、感謝の気持ちだ。私の指輪を探してくれた礼を、ずっと言わずじまいだったから」


 だからフラン、ありがとう。

 そう言って、ジルハルトさまは春の風みたいにふうわりと、微笑んだ。


 わたしのほうがありがとうございます、と笑おうとして、声の代わりに、ずっと我慢していたはずの涙がこぼれた。


「…………っ」

「フラン?」


 ジルハルトさまへの想いに、フランは名前を付けられずにいた。尊敬の念、親愛の情。そういった好意であることは間違いない。間違いないのだけれど、胸のもっと深い場所に問いかけたとき、その感情はもっと、はっきりとした輪郭を得た。

 ――”恋”という形を成した。


 ああ、わたしは。

 この人が好きだ。

 とても、とても、とても、好きだ。

 自覚してしまった。

 どうしようもないほど。

 胸が潰れて、壊れてしまいそうなほど。


 恋が、しずくになる。心の中から出ていってしまえと、押し出すように、あふれてあふれて流れていく。

 それでも想いはなくならない。消えてくれない。なかったことにできない。

 どんなに泣いても、わたしはずっと、ジルハルトさまが好きなまま。


「フラン? どうした」

「すみ、ませっ……」

「いやいい。いいんだが……」


 珍しく狼狽した声で、ジルハルトさまの手がフランに触れるか触れないかのところで彷徨う。逡巡の結果、その手はいつものように、でもいつもより躊躇いがちに、フランの頭の上に収まった。


「ジルハルト、さま」

「なんだ」

「ジル……ジルハルト、さま」

「ああ、私だ」

「ジルハルト、さま、ジルハルトさまっ……」

「ここにいる」


 しゃくり上げながら繰り返しその名を呼んだ。金平糖みたいな響きだと思った。転がすと甘いのに、丸い棘がちくちくと痛かった。


 ジルハルトさま、あなたが好きです。

 優しいところが好き。控えめに苦笑する顔が好き。素っ気なく見えるのに感情に敏くて、でも不器用なところが好き。正義感が強いところが好き。頭を撫でる手のひらが好き。宝石みたいなその目も、低く甘い声も、なにもかもが、好きです。


 だから。

 わたしはこの手で、幕を引かないといけない。


 ――まさか汚れた身体を、公爵さまに触れさせるつもりはないわよね?

 呪いのように耳元で反響する義姉の声に、言葉には出さず静かに応える。 

 ええ、お義姉さま、その通りです。でもこれはあなたに言われたからじゃない。わたしは彼を蔑ろにしてまで、自分の幸せを優先しようとは思えないから。彼の中で、綺麗なままのわたしでいたいから。それで残される道がひとつしかないというなら、迷いはなかった。 




 ジルハルトさま。

 心の中でフランは呟く。



 さようなら。

 あなたをとても、好きでした。



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