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曰く付き公爵は婚約者の涙を愛す  作者: 朔間 はる子
32/37

32 義姉



 夜会の晩から、ジルハルトさまはほとんどお屋敷に帰ってこなくなった。避けられているのは、明白だった。


 ベッドに腰掛けて、フランは窓の外を眺めている。

 今日は手入れのされていないお庭に手をつけてみようか。四季の花の種を買って、来年にはどんな季節にも可憐な花が来訪者を出迎えてくれる、そんなお庭を作ったら、ジルハルトさまは喜んでくれるだろうか。訥々と、他愛なく浮かんでいく思考を頭の中でなぞる。


 ――来年、なんて未来、本当に来るのだろうか。

 浮かんだ自嘲は朝の光に溶けていく。暖かい陽の光がいくら射し込もうとも、フランの身体は凍ったように冷えたままだ。


 サイドテーブルで微笑むのは、朝露に濡れた瑞々しい白百合。毎日生け替えられるフランの部屋の花々を選んでいるのはジルハルトさまだと、この部屋で眠るようになってすぐの頃、レヴィンさんが教えてくれた。

 今までジルハルトさまが鑑賞されるようなこともなかったので、私達姉弟は花のことはよく分からないのです。だから毎日、ジルハルトさまに指示されたものを市で買っているのです、と。

 日々のささやかな贈り物は、避けられてからもなお、途切れてはいなかった。


 ジルハルトさまに追い出される可能性は今や考慮していなかった。ジルハルトさまは不道徳な方ではない。捨て猫を拾ってしまえば、どんなに持て余したとしても、彼は最後まで面倒を見てしまうのだ。猫が人間に置き換わってもきっと、その事実は変わらない。


 ジルハルトさまがフランを手放さないなら、繋がってしまった糸をほどくべきはフラン自身だ。運命なんて立派な結び目はなくて、ただ偶然が重なったて絡んだだけのそれを解くのは、容易い。


 けれどそんなふうに思うたび、フランの中の悪魔はささやくのだ。

 ならば、レイトラムの家に帰るの? と。


 また襤褸を着せられ、日に一度の食事すら満足に与えられず、硬い床に布切れを敷いて眠る。使用人同然の扱いを受けながら義母たちの顔色を常に伺い、機嫌を損ねれば痣が増える。泣けば醜いとまた打たれ、心が死んでいくようなあの日々にあなたは、進んで帰ろうというの?


(嫌だ)


 跡形もなく治ったはずの痣や傷が疼いた気がしてフランは身体を掻き抱く。このお屋敷に来る前とは全く違う、乾きを知らない滑らかな、けれどぞっとするほど冷え切った肌の感触が指に伝わる。


(嫌だ――でも)


 真実、物狂いのセレーネ伯爵でいてくれたならフランはこれほど思い悩むことなどなかったのに、ジルハルトさまは善良すぎた。優しすぎた。

 あの綺麗な手にフランを抱かせる、そんな想像をするだけで途方もない罪悪感が込み上げる。


 ――家名を捨て逃げ出したとしても、世間知らずの、後ろ盾もない16歳の小娘が生きていく方法なんて限られているでしょう。何が最善かは明白じゃない。大丈夫、どうせばれないわ。


(やめて)


 ――もう痛いのは嫌でしょう? それならずる賢く、生きていくべきではないの?


 紛れもない自分の声が、甘美な毒のように耳朶から染みて体中に回っていく。


「フランさま、お手紙が……フランさま? お顔が真っ青です」


 手に封筒を持って現れたレーヴェさんは急いた手でフランに触れ、眉間に皺を寄せた。


「お体がこんなに冷たく……。すぐに暖かい飲み物をお持ちします」


 優しいのはジルハルトさまだけではない。レーヴェさんもレヴィンさんも、最初からずっと、フランに親切にしてくれた。そんな彼らに言えない秘密を持っている、その事実がフランの心を締め上げる。


 踵を返したレーヴェさんが置いていったのは、飾り気のない白い便箋だった。宛名はフラン・レイトラムとある。

 レターナイフはどこだったろうか。ふらつく足で立ち上がり、小物をしまった引き出しに手をかけた。


 フランに手紙を送るような人間に心当たりがなかった。あるとすればジルハルトさまくらいだけれど――部屋が隣同士なのにわざわざ(ふみ)を送る用があるとも思えなかった。


 気持ちの良い切れ味で、ナイフが紙を裂いていく。

 中から出てきた便箋を何気なく開いて、目で文字をなぞったフランの世界がぐにゃりと、歪んだ。


 それはロベルタ・レイトラムからだった。


 話があるので会いたい。そう書かれた後に、落ち合う場所と時間の指定があるだけ。手紙の内容は簡潔だった。

 一瞬無視という選択が頭を過ったけれど、すぐにできるはずがないと思い直す。会いたくなどない。しかし夜会でフランを()めつけていた、殺気を孕んだロベルタの顔を思い出せば、無下にすればどんな仕返しが待っているか、考えるのも恐ろしかった。





 その日、フランは一人きりの夕食を終えると、気分が悪いのでそっとしておいて欲しいと双子の侍従に告げた。昼間の顔色の悪さを知っていたレーヴェさんは、「何か御用があればすぐにお申し付けください」と気遣わしげに表情を曇らせていた。


 双子たちが完全に部屋から遠ざかったのを確認してから、フランはそっとベッドを抜け出した。


 白い寝間着が夜の中で目立たないよう色の濃いガウンを羽織り、窓枠に足をかける。褒められた行為ではないけれど、レーヴェさんやレヴィンさんに見つからずに外に出る方法を他に思いつかなかったのだ。


 朝の光をよく浴びられるようにと設計されたそれを乗り越えるのは簡単だった。部屋が一階で良かった、とフランはジルハルトさまに複雑な気持ちで感謝する。これがもっと上の階なら、童話のお姫さまよろしく、長いロープでも編まないといけなかっただろうから。


 義姉がフランを呼び出したのは、お屋敷から少し離れた場所に立つ、今はもう使われていない教会だ。

 昔、礼拝中の人々を物取りが襲い、多数の死者や怪我人が出て、あふれんばかりの血に汚れてしまったこの教会は打ち捨てられてしまったのだと、噂で聞いたことがある。どこまでが真実でどこからが脚色されているのかフランには量りようがないが、その一件のせいで神聖な場所だったはずの教会が廃屋と化したことだけは確かだ。


 扉は内側へ倒れたままになっていて、侵入者を拒むことはない。落ちた屋根の隙間から射し込む月明かりが、教会内に漂う埃を光る粒へと変えていた。

 義姉の姿を探す間もなく、その奥、主祭壇の前に、護衛らしき男を連れた巻き毛の姿があった。 


「あたくしと会うとは誰にも言わずに出てきたんでしょうね?」

「……はい」


 振り向いた義姉の声に怒りの色はなかった。むしろどちらかと言えば楽しげなその声に、フランは嫌な予感を覚えた。

 こつり、ロベルタがフランに歩み寄る。


「大切な話よ。よくお聞きなさい。あんたはこれから――公爵さまに婚約破棄を申し出なさい」


 それはまるで、決定事項のように語られた。


「代わりにあたくしが公爵さまと婚約するの。物狂いだって噂が嘘だって知ってたら……それにあんなにお美しい方だと最初から知っていたら、あんたに譲ったりしなかったのに。……ねえ、もしかしてあんたがやけにあっさり婚約を受け入れたのは、公爵さまが噂通りの人じゃないって最初から知ってたからだったの?」


 猜疑心を乗せた視線がフランを舐め回す。冷静に義姉の言葉を精査したいのに、そんなフランの意思に反して思考回路は蛞蝓のようにのろのろと怠惰にしか働かない。だから正常な速度を保っていた感情の部分だけがとにかく先に反応した。最初から知っていた? そんなの知るわけがないと、フランはきつく手のひらを握り込んでいた。


 真っ白なところから、フランは少しずつジルハルトさまを知っていったのだ。恐る恐る言葉を交わしながら、距離を確かめながら。

 そんなフランだけが知っていたはずのジルハルトさまを、義姉はこともなげに奪い去ろうとしている。


(嫌だ)


 今日何度かも知れないその言葉が、泡のようにふつりと浮かんだ。

 一度弾けたその泡は、次々に浮かんで消えていく。


 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。


 あの温もりを、優しさを、この義姉に奪われるなんてこと、許せるはずがない。

 血の繋がりもないあなたたちに、名を、家を、財を、全て受け渡したのに、まだ足りないというのか。そんなにフランのものが欲しいのか。


 もう充分に、あなたはわたしから取り上げたでしょう。ひどく長いこと空っぽで、降ってくるものを受け止めることすら忘れたわたしの手のひらに、柔らかなものをそっと握らせてくれたのはジルハルトさまだ。そんな彼すらも、欲しがるのか。

 なんて、傲慢な。


 ジルハルトさまのために身を引くことは厭わない。

 けれど、そうして空いた婚約者という名の椅子をロベルタに埋められることだけはどうしても、許せなかった。


「……お義姉さま、わたしには」


 声が、掠れた。乾いた喉を嚥下させ湿らせる。

 また打たれたとしても譲れない。そう思った。わたしはわたしの居場所を守るために、ちゃんと、言わなければいけない。

 お義姉さま、わたしにはできません。

 そんな初めての抵抗を、唇に載せようとして。




「――万が一、言うことを聞かないっていうなら、あんたとお兄さまのことを公爵さまに告白するわ」




 鈍器で頭を殴られた気がした。


「…………え?」


 こぼれたのは場違いなほど呆けた、軽い声だった。

 ロベルタの唇が半月に歪む。


「なんて顔してるのよ、ばれてないとでも思ってたの? 夜中にお兄さまがお部屋を抜け出して、あんたのところに行くのを見かけたことがあるの。何の用かしらと思ってこっそり覗いてみてほんと、吐き気がしたわ。お兄さまったら最低よね、節操がないにも程がある。あんたの何がよくてあんな――やだ、思い出しちゃったじゃない。ああ、お母さまはさすがに知らないわよ。知ってるのはたぶん、あたくしだけじゃないのかしら。ねえ、公爵さまも知らないんでしょう、あのこと。言えるわけないわよねえ。男爵家の令嬢が、婚約する前に傷物だったなんて、聞いたこともないわよねえ。知ったら公爵さまはどんな顔をするのかしらね。嫌悪するのかしら。侮蔑するのかしら、それとも憎悪かしら。あんた夜会で言ってたわよね、公爵さまは本当に良くしてくださってるって。あたくし、まだ公爵様のことをよく存じ上げないから想像ができないの。だから教えてくださる? あんたに優しくしてくださる公爵さまが真実を知ったら――どんな顔をすると思う?」


 ときに不愉快そうに、ときに不思議そうに、ときに楽しそうに、ころころと変わっていくロベルタの表情を、フランはまばたきを忘れて見つめていた。

 長い長い独り言のような台詞の最後に義姉がその顔に浮かべることを選んだのは、勝ち誇ったような笑み。


「ねえフラン。まさか汚れた身体を、公爵さまに触れさせるつもりはないわよね?」


 どろどろと濁った黒い液体が、思考を、視界を、絵の具が上から垂れてくるみたいに塗りつぶしていく。気づいたときには手足の感覚さえ遠のいていて。


 きっと。

 絶望とは、こういう感情を言うのだ。



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