31 お酒のにおい
主のいなくなった部屋で、レーヴェは山のようなドレスを一着ずつ、丁寧にクローゼットに納めていた。
ミス・マーダのドレスはどれも繊細な意匠が凝らされていた。流行りはひとまず置いておいて、とにかくフランさまに似合うドレスをと注文したせいか斬新なものは少なく、どれも少女らしい清楚な愛らしさを引き立てるものばかりだ。
このドレスも、向こうのドレスも、きっとあの控えめな少女を美しく彩るはずだ。次に夜会へ着ていくドレスを選ぶのはいつになるだろう。今まさにその夜会の真っ最中だというのに、レーヴェは早速次の機会に思いを馳せて唇を綻ばせた。
ずっと公爵さまは孤独を望んでいらっしゃった。唯一気のおけない仲であるレーヴェたち姉弟だけをそばに起き、それ以外を頑なに拒み続けた。理由を知るレーヴェには、その選択を咎めることはできなかった。
そんな彼が、ようやく興味を持った人間がフランさまだ。
長い時間をかけてやっと自分の傷が塞がりかけたところに現れた、傷だらけのフランさまを、公爵さまは放っておけなかったのだと思う。良い兆候だ――なんて、一侍従でしかないレーヴェが思うのは傲慢だろうか。
「……あら?」
ドレスをしまい終え、閉じようとしたクローゼットの隅に、他の装飾品に紛れるように追いやられた薄布があった。何かを包んでいるようだ。
あれは確か、公爵さまに買ってもらったばかりの赤いメリージェーンを包んで、フランさまが抱いて眠っていた……。
手を伸ばしながら、そういえば最近、フランさまがあの靴を履いているところをあまり見ていない気がするなと考える。前は特に用がなくても足を入れて、鏡の前で嬉しそうに笑っていらっしゃったのに。
そうして何気なく開いてみた布の中から表れたのは、番を無くした赤い靴。
レーヴェは我が目を疑った。外出中、靴を落としたなんて話は聞いていない。この屋敷の中でなくしたとも考えにくい。
よく見れば、つま先のあたりがひどく擦れて塗装が落ちていた。抱いて眠るほど大切にしていたこの靴を、フランさまが手荒に扱うはずがないのに。
「……何かあったのですか、フランさま」
答えを持つ人はまだ、帰ってこない。
*****
日付が変わる少し前に夜会はお開きになった。このままお屋敷に帰るのかと思えば、今日はお城の客室に泊まるのだという。他の出席者たちもほとんどが同様だそうだ。それはつまり、ロベルタがまだ近くにいるということだろうか、と表情を陰らせたフランに気づいたらしいジルハルトさまは、「明日一番に帰るぞ」と、また頭を撫でてくださった。
「王子に呼ばれたから行ってくる。先に休んでいろ」
割り当てられた客室の扉の前でジルハルト様はそう言って、もと来た廊下を戻っていった。少し経ってから、わざわざフランが迷子にならないようここまで送ってくれたのだと気づいた。その優しさに小さく胸を弾ませてしまう自分が恨めしかった。
扉を開けた先には、王室の威光をこれでもかと反映したように豪奢なお部屋が広がっていた。レーヴェさんがフランに用意してくれた部屋のことを、他の公爵夫人と比べると質素なくらいだと評していたのを思い出す。もしこの客室を基準にするなら、確かにフランの部屋は可愛いものだと思った。
特筆すべきはベッドである。
キングサイズだ。細身のジルハルトさまと、枯れ枝は卒業したかもしれないが未だ小枝程度のフランなら、心配するまでもなく余裕で眠れるだろう。何を詰めたらこんな手触りになるんだろうと不思議になるほど羽毛布団はふかふかのふわふわで、快眠待ったなしなのは間違いない。
だが問題はベッドの広さや質ではなかった。
客室に用意されていたベッドは、その一つで全てなのである。
婚約者ではある。でも、今まで婚約者らしいことをしたことはない。口づけもない。手を握ったのはついさっき、ダンスのときが初めてだ。
エスコートの腕を掴むのにすら抵抗があったのにと、フランは立ち尽くした。もちろん同じベッドに入ったからといって何かあると決まったわけではないし、ジルハルトさまに触れられるのが嫌なわけでもない。原因はフラン自身にある。
思案した結果、フランはソファに腰掛ける。ジルハルトさまが戻ってくるまでに、ソファで眠るための理由を考えようと思った。
二人で眠るにはベッドが狭いから――は却下、二人どころかフランが5人位横に並んでも眠れるサイズである。あまり高級な寝具だと眠れなくて――こんなことを言ったら、フランのために用意してくれたお屋敷のベッドが安物だと言っているようなものだ、これも却下。このソファの寝心地が気に入ったのです――これはどうだろう。
試しにソファに左頬をつけるようにして横になってみると、高級感たっぷりの天鵞絨の手触りが心地よくてとても良い。
疲れもあったのだろう、言い訳を考えるだけで実際に眠るつもりなどなかったのに、いつのまにか瞼の幕が降りていた。
「フラン、どこで寝ている」
ぷんと漂うワインの香りで起こされた。
いつの間にか明かりにしていた蝋燭は燃え落ちていて、目を開けても辺りは真っ暗だった。真っ暗なのに、すぐそばにジルハルトさまの顔があるのを、どこからともなく光を掬って弾く彼の銀髪が教えてくれた。
「ほら、ちゃんとベッドで寝ろ」
「いつの間にお戻りに――って、お待ち下さい、待って」
いつになく上機嫌な声音のジルハルトさまは、闇夜の中でも的確に、ひょいとフランを抱え上げた。突然足が浮いたフランは慌てるよりも驚いてしまって、落ちないようにと彼の胸元に縋り付く。
今までお酒を飲んでいるところなんて見たことがなかったけれど、もしかしてあまりお強くないのだろうか。それとも単純に飲みすぎてしまったのだろうか。ジルハルトさまからはずいぶんと濃いアルコールの香りがする。
フランを抱えたまま、ジルハルトさまはぼふんとベッドへ倒れ込んだ。
「じ、ジルハルトさま、しっかりしてくださいっ……」
下敷きになったフランがもがいていると、それがつぼに入ったのかジルハルトさまが声を上げて笑うから、フランはびっくりしてそれ以上の言葉を失くした。本当に可笑しそうに、楽しげに、ジルハルトさまは笑う。
「面白いなあ、お前は」
フランの左の肩口にジルハルトさまの顔があって、彼が喋るたび吐息がかかる。
今まで一度として聞いたことのないような間延びした声はどこか甘えた響きを含んでいて。
「じ、ジルハルトさま、お水をお持ちしますから、離してください」
「フラン」
「はい」
「綺麗だった」
「……何が、でしょう」
「お前が、綺麗だった」
「…………!」
彼は酔っているのだ。だから真実思ってもいないことでも、思いつくはしから口に出している。それだけだ。
そうやって自分に言い聞かせていないと、心臓が止まってしまいそうだった。
「皆、お前を見ていた。どいつもこいつも、あんまり見るから目を抉ってやろうかと思った。お前が最初に名乗ったときの男たちを見たか? 隣に婚約者が、俺がいるのに、ダンスに誘おうとしたあの子爵、今度会ったらひどい目に会わせてやる」
蛇とか背中に入れてやるからな、と幼い子どもの悪戯みたいなことを口にして、自分が言ったことに対してくすくす笑う。一人称が”俺”になっていることにも気づいていないらしい。
「みんなが見ていたのは、ジルハルトさまです」
「いいやフランだ。賭けるか?」
「賭けられるものなんて何もありません……」
「フランでいい」
ジルハルトさまが、するりと身体を起こした。胸を圧迫していた体重が消えてほっとする隙も、余裕もなかった。
ようやく目が夜闇に慣れてきて、気づいた。彼の紫水晶がとろりと熔けてしまいそうな熱を孕み、フランを見下ろしていた。
それはまるで――情事ような雰囲気で。
「フランでいい」
うわ言のように繰り返すその声に、さあっと血の気が引いた。
ベッドに倒れ込んだ拍子に、頭のリボンが緩んだらしかった。シーツの上で不揃いに散らばった赤いリボンの先をジルハルトさまの繊細な指先が弄び、そして軽く引いてほどく。しゅるり。滑らかな生地が擦れ合う微かな音がやけに艶めかしかった。
ジルハルトさまとお会いしてすぐ、望むならどんな行為でも受け入れる覚悟だとフランは告げた。あのときは虚偽も打算もなく、素直な気持ちを言葉にしたまでのことだったけれど。
このまま流れに身を任せるべきなのだろうか。
でもわたしは。
わたしの、身体は。
ジルハルトさまの唇が頬に触れる。その年の冬、一番最初に降り落ちた雪のように、ただただ優しく、淡く溶けていくだけの体温を、愛おしいと思った。この人は違う。フランを蹂躙するだけだったあの男とは違う。何もかもが違う。
違うからこそ、嫌だと叫んでいた。その声で――世界が割れてしまったみたいだった。
秘め事めいたふたりの空気は一瞬の内に音を立てて崩れ去って、残されたフランたちはお互いにはっと、夢が覚めたような顔で見つめ合い、呼吸を無くした。
重くて長い、押しつぶされてしまいそうな沈黙を破ったのは、ジルハルトさまだった。
「すまない少し――酔っていた」
ぎしりとベッドを軋ませ、ぎこちない動きで身体を起こす。謝ることなど何もない。謝るべきはフランの方なのに、何も言葉が出てこない。
「酔いを覚ましてくる。ベッドは使うと良い」
そう言って部屋を出ていったジルハルトさまは、朝まで戻ってはこなかった。




