30 夜会Ⅲ
「貴殿を夜会で目にできるとは思わなかった。久々にその玲瓏たる顔が見れてみな眼福だろう。今日は婚約者を連れて出席していると聞き及んでいるが、次期セレーネ公爵夫人はどちらかな?」
「………………フラン」
たぶん今、ジルハルトさまはすごく、ものすごく嫌そうな顔をしている気がした。そういう声に名前を呼ばれた。何がそんなに不愉快なのか知りたい気持ちは大きかったけれど、今はジルハルトさまの機嫌を確認している場合ではない。
まさか王子殿下の御前に立つなど夢にも思っていなかったフランは、壊れたぜんまい仕掛けの玩具のようなぎこちなさで顔を上げた。上目遣いに見やった王子殿下は、物柔らかながら人の内側を直接見透かしているような眼差しをフランに向けて、
「おお、そなたか。なんと愛らしい。こちらへ。名前は?」
「フラン・レイトラムと申します、王子殿下。本日はお招き頂き、心より嬉しく思います」
ドレスをつまんで一礼しながら、今度こそ失敗しませんようにと強く祈った。完璧なことが問題だったというジルハルトさまの台詞が脳裏を過ったけれど、だからといってどうすれば良いかわからなくて、とにかく教わったとおりに頭を下げた。
折った腰を伸ばしながらそっと王子殿下を盗み見ると、彼は満面喜色でフランを見下ろしていた。あまりの笑顔ぶりに、少し後ずさりたい気持ちになった。
「ふんふん、いいなあ、可愛い……おっと」聞き取れないくらいごくごく小さな声で独りごちた後こほんとわざとらしい咳を挟んで、「ああ。私も嬉しく思う。セレーネ公爵は気難しい男だと聞き及んでいるが、そなたから見てあれはどうだ?」
誰が気難しいだと今度は横からやけに物騒な声で毒を吐くのが聞こえた気がした。
「気難しいなどと思ったことはございません。公爵さまはとても優しくて素敵な方で……わたしにはもったいないほどです」
「健気なところも素敵だ……ではなくて、そうか。それなら良い。そなたにとっては初めての夜会だそうだな。今日は存分に楽しむと良い」
はちみつ色の瞳を優しく細めてから、王子殿下は再び歩き出した。見送りながら隣のジルハルトさまが「あの狸」と呻いた。
席についた王子殿下が盃を掲げると、ホールには音楽と喧騒が戻り始めた。夜会を再開する合図らしい。
思っていた以上に緊張していたようで、自分の出番は無事に終わったらしいと胸をなでおろした途端、肩の力が抜け落ちて、身体が床の上に溶けそうになる。
「よく言えたな」
その頭をぽんと叩くのは大きな手のひらだ。その持ち主が誰なのかは考えるまでもない。
「わたし、失礼なくお返事できていましたか」
「ああ」
無駄に飾り立てない端的な返事が嬉しかった。
先程の、失敗しなかったことが問題だとか言う不思議な失敗の挽回をさせてもらえたみたいだ。
「なんであんたなんかが、王子殿下に声をかけて頂くのよ……」
その声はともすれば人々の笑い声にかき消されてしまいそうにひどく小さかったのに、耳元で囁かれたみたいにはっきりとフランには聞こえていた。はっとなって振り返った先で、ロベルタの唇が戦慄いていた。
「お義姉さま……」
今にも噛みつきそうな苛烈な目色でフランを射抜いたロベルタは、しかしそれ以上なにも言わなかった。その赤色が紅なのか滲んだ血なのかわからないくらいに唇を噛み締めて、野良犬でも追い払うようにしてドレスの裾を捌きながら荒々しく人波に消えていく。ざわつく胸を押さえ、フランはその背中が見えなくなってもなお、消えていった方を見つめて立ち尽くした。
その視界に横から入ってきたのは不機嫌そうなジルハルトさまだった。
「一人でふらふらとどこへ行ったのかと思って探しに来てみれば、私の婚約者は他の男に目移りしているようだ」
「ち、違います、お義姉さまを見ていただけです……!」
「それにしては心ここにあらずというふうだ。そんなに私では不服か?」
まさか――と言い募ろうとしたが、それより気になる言葉があった。
探しに来たと、ジルハルトさまは仰った。
「モリーさまはどうされたのですか。お話をされていたはずではありませんか?」
「あっちに話があったとしても私にはない、適当に切り上げてきた。私が用があるのはお前だからな」
頓着のない声音でそう言ってから、彼の紫水晶がくるりと光る。そうしてジルハルトさまは左手を差し出した。
「一曲お相手願えますか」
思っても見なかった事態に言葉が詰まった。その代りに、幾度も繰り返したダンスレッスンを身体が覚えていた。あるべき場所へと自然と収まるように、フランの右手はジルハルトさまの左手に吸い込まれていく。
「まさか、セレーネ公爵さまがダンスをされるの?」
「今までどれだけお誘いしても絶対に首を縦に振ってくださらなかったのに!」
ハンカチを千切れんばかりに噛みしめるご令嬢の横をすり抜けて、フランたちはホールの中央に躍り出た。
指揮棒に合わせて奏でられているのは、華やかなワルツだ。
「あ、足を踏んでしまったら、ごめんなさい……!」
「お前の体重では踏まれたことにも気づかない。足元は見なくていい、お前は前を向いていろ」
ダンスの練習は、いつもレヴィンさんとレーヴェさんに男性役を務めてもらっていた。身長が同じくらいの人としか練習してこなかったから、本当にちゃんと踊れるか心配だったのに、ジルハルトさまの動きに合わせるだけでおどろくほど自分のスカートが美しく翻る。
ジルハルトさまのリードは上手かった。ただ手を、腰を引かれるままにステップを踏む。それだけで身体と音楽がぴったりと重なる。
「上手いじゃないか」
「わたしではなく、ジルハルトさまがお上手なんです」
フランが躓きそうになれば強い力が引き戻してくれる。リズムに遅れそうになればジルハルトさまが大きな動きでひとつ音を飛ばしてしまう。
彼のダンスは優雅だった。実際に一緒に踊っているフランですらそう思うのだから、傍から見たらもっとすごいのだと思う。事実、熱い視線がずっと注がれている。みんな見ているのだ。この美しい、フランの婚約者を。
視界の隅に、亜麻色の巻き毛が映る。彼女はフランを見ていた。憎々しげに唇を噛んで、こちらを睨んでいた。
フランの顔が青褪めるのと、ジルハルトさまがターンの末にロベルタをその背の向こうへ追いやってしまうのは同時だった。
「他の人間を気にするとは余裕だな」
「そういうわけではっ……」
「好みの男でも見つけたか?」
「ですから、違うと先程も言ったはずです!」
ジルハルトさまとダンスを踊っている最中に他の男性に目移りできる女性がいるなら教えてほしい。若干気色ばんで訴えたフランに、ジルハルトさまはすっと目を細めた。
「ようやく私を見た」
ジルハルトさまの耳飾りが揺れる。赤い、小さな宝石だ。
「ずっとあった違和感の正体が、今やっと分かった。お前の目はずっと私を避けていた。そうだろう?」
「…………!」
「逸らすな」
咄嗟に顔を伏せようとしたフランをジルハルトさまが許さない。その声には有無を言わせぬ響きがあった。
錆びたような動きで、フランは久方ぶりに、真っ向からジルハルトさまを見、そして目を眇めた。
ここには輝くものがたくさんあって、光がこれでもかと言うほどにあふれているのに、やっぱり一番眩しいのはジルハルトさまなのだ。眩しすぎて直視できない。心臓をぎゅっと掴まれた心地がした。
「何があった、言ってみろ」
隠さなくていいと吐露を促すその優しさが、フランにとってひどく残酷なことを彼は知らない。
言えばきっと幻滅する。穢らわしいと重ねていた手を跳ね除けるに決まっている。
それでも心の何処かで、もしかしたら知った上で受け入れてもらえるのではないかと期待する浅ましい自分がいる。
「……あんまりジルハルトさまがお綺麗で、見ていられないだけです」
「それが答えか?」
「ええ……きゃ!」
曲が終わりを迎えるのに合わせ、急にリードが強引になった。たたらを踏んだフランはそのままジルハルトさまの胸に頬を寄せてしまう。抱き寄せられたみたいな格好に、さっと頬に朱が差した。
「おっと、失礼」
ジルハルトさまの目の色には見覚えがあった。フランをからかうときのそれだ。
「わ、わざとですか」
「さあ?」
「ジルハルトさまっ……」
「顔が赤いな。医者でも呼ぶか?」
「面白がるのはおやめください!」
距離を取ろうともがくのにジルハルトさまの腕は力強くて抜け出せない。ジルハルトさまがあんまり近い。このままでは心臓の音まで聞かれてしまう。
「綺麗だからと見られないなら、慣れるまで見つめていればいいだろう?」
「そんなの死んでしまいます……」
「ほら、もう一曲」
気を遣ってくださったのだと、訊かずともわかった。フランが嘘をつくならそれでもいい、今はただ夜会を楽しめばいいと、彼は空気を変えてくれた。
ジルハルトさまの視線の先にはフランしかいなくて、フランもまたジルハルトさまだけを見ている。たくさんの人に囲まれているはずなのに、まるで二人だけの世界みたいだ。
再び始まった演奏は相変わらず美しいのにどこか切なくて、なぜだか鼻の奥がつんとするから、フランは無理やり微笑んだ。
ああ、今このときが、永遠に終わらなければいいのに。心からそう思った。




