3 逃げ出す理由がありません
「はい」
返事をした声は、声変わりが終わったばかりの男性のものだった。おそらく双子の少年の方だ。
視界いっぱいに広がる床だけを見つめていたフランの額を、風が横切った――と思った。
一拍遅れて、はらりと舞ったのは、フランの前髪だった。
驚いて顔をあげると、嫌悪感をにじませたふたつの紫水晶がフランを見下ろしていた。
「私にどんなことをされても構わないと言った女ならお前の他にも大勢いる。だがどいつもこいつも口だけで、いざ命の危機にさらされてみれば泣いて命乞いしてみせる。みっともない。そんなことなら最初から尻尾を巻いて逃げ帰れば良いものを」
まるで花びらのようにひらひらと、短い黒髪が床に舞い落ちる。
それを目で追っていたフランの頬をひた、とナイフが叩いた。ナイフは徐々に食い込んで、あともうひと押しで頬が切れることは容易に想像できた。
「お前を切り刻むのは簡単だ。まださっきと同じように、笑って答えられるか? どんな行為も受け入れる覚悟があると」
ぎゅっと拳を握る。
怖くない、といえば嘘になる。
けれど。
「……大丈夫、です」
へらりと、フランは笑った。
「命乞いなんてしません。本当に、何をされても平気です」
そう、平気だ。
本当に大丈夫なのだ。
大丈夫。
――耐えられる。
「お前は……」セレーネ公爵は何かを言いかけ、そして小さく首を振った。言葉を継ぐ代わりにため息を一つ吐き出して、興が削がれたようにナイフを翻し、流れるような動作で侍従の少年がそれを受け取る。
「そこまで言うなら好きにしろ。だが、いつ出ていってくれても構わんからな」
そうして、部屋にはフランだけが残された。
三人の足音は規則正しいリズムで遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
いつの間にか止めていた呼吸を、フランはようやく思い出した。
「……っ、は」
吐いて、吸う。
意識して、やっと少し胸が楽になる。
好きにしろって、言ってくださった。
追い出されなかった。
――良かった。本当に良かった。
強く握りしめていた拳をゆっくりと解いていくと、体中を縛っていた緊張も少しずつほぐれていく気がした。
「……よし、できることからやってみよう」
まずはこの部屋の掃除から。それが終わったら、そうだ、玄関ホールも綺麗にしてみよう。埃もすごかったし蜘蛛の巣だって張っていた。
お屋敷に置いていてもらえるのだ。望まれているかは疑問だが、とにかくやれることをやろう。
それからは忙しかった――というより、忙しくしたと言ったほうが正しいかもしれない。
動いていれば色んなことを考えずにすむから、フランはとにかく目についた場所を片っ端から掃除していった。そうしていると気づいたことがある。
部屋数は数十ほどもあるけれど、セレーネ公爵は自室以外のほとんどをもうずいぶん長いこと使っていないらしい。そのセレーネ公爵は一階最奥の部屋を居住スペースにしているようで、どうやら正面玄関を通らなくとも、自室へつながる裏口のようなものがあるらしかった。
だから玄関はあんなに埃っぽくて灯りもついていなかったのだと、窓を拭きながらフランはひとり納得する。使う人間がいないのだから、汚れるのも仕方がないことなのだろう。
「あ……」
汚れた雑巾を洗おうと水につけて、もうずいぶんぼろぼろなことに気がついた。
シーツはもうこれ以上破けないし、衣類も最低限しか持ってきていないから、雑巾にできそうな布がない。
どうしよう、と雑巾とにらめっこしていたときだった。
「これを」
差し出されたのは汚れを拭くにはだいぶ上質そうに見える布切れたち。
視線を上げると、双子の片割れである少年がそこに立っていた。