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曰く付き公爵は婚約者の涙を愛す  作者: 朔間 はる子
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29 夜会Ⅱ


 ジルハルトさまの婚約者が見つからなかったのは、嘘っぱちな噂のせいだ。本当は優しくて穏やかな人だと分かれば、きっと引く手はあまただろう。


 尾ひれに尾ひれが重なって原型すら留めなくなったまことしやかな話は、きっと今日塗り替えられる。本人が公に顔をださず引きこもっていたからこそ、訂正する人間がいなくて流布した誤解だ。実際に会って言葉を交わせば、ジルハルトさまが人を傷つけたりする人ではないとよく分かるだろう。


 そうしたら、モリーさまのようなもっと条件の良い人が現れる。

 そして――フランはお払い箱になる。


 どんと、背中に衝撃があった。それ自体は大した力ではなかったのだけれど静思していたフランは反応が遅れて、バランスを崩して床に手をついた。誰かとぶつかってしまったようだ。「も、申し訳ありません――」慌てて相手を確認して、


 固まったのは彼女も同じ。けれど、硬直が解けるのは彼女のほうがずっと早かった。


 兄によく似た赤茶の巻き毛を揺らし、彼女は汚いものでも触ったように顔を歪めた。

 身長は大差ないはずなのに、並んで立つよりこうして見上げることのほうがずっと多かった。ああ、この光景を何度見たことだろう。


 激しい厭忌を隠そうともしないその女性の名は、ロベルタ・レイトラム。フランの義姉その人だった。


「なんで――なんであんたがこんなところにいるのよ!」


 ロベルタの怒声に、周囲は何事かとざわついた。様子を確認するように向けられる視線に慌てて口を噤んだ彼女の目の奥は、しかしぎらぎらと不穏な光を宿したままだ。柔和な淑女の仮面をさっと被ると、呆然とするあまり動けずにいたフランの腕を掴んで引っ張り立たせる。


「すみません、わたくしの不注意ですわ。お怪我がないかあちらで確認させていただいても?」


 心持ち張り上げた声でロベルタが言う。フランに向けられたというよりは周りの人々に見せつけるような口ぶりだった。


「い、いえ……わたしは」

「どうぞ、いらっしゃって」


 拒否など許さないというように、ロベルタの長い爪がぎりりと腕に食い込んだ。


 傍目には仲良く連れ添うように――実際は引きずられるようにしながら、フランは自分の鼓動が逸るのを感じていた。どうしてわたしはこの可能性を考えなかったのだろうと、浅薄な自分をいっそ呪った。内情はどうあれレイトラムは男爵家である。夜会に呼ばれるのもなんら不思議な事ではないのに、油断した。考えがつかなかった。知っていたら、もっと気を配って、見つからないよう小さくなっていたのに。


 ホールの端、柱の陰になって人目につき辛い場所でロベルタは放り投げるようにフランの腕を放した。


「その格好、なによ。どうしてあんたがあたくしより上等なドレスを着ているの?」

「…………」

「物狂いの公爵の屋敷で死ぬよりひどい目にあって干からびてるんだと思ってたのにどういうこと? ねえ説明しなさいよ!」


 無意識に距離をとろうと踵を引くが、潜めた声のロベルタがすかさず詰め寄ってくる。さながら般若の形相だった。拳は怒りで震えているが、さすがに衆人環視の中で殴りかかったりしない程度の分別はあるようで、代わりにひどい皺になるのも構わずドレスをきつく握りしめることでやり場のない怒りを抑え込んでいるように見える。これがレイトラムのお屋敷であればすでに頬を打たれていただろう。


「お義母さまから聞いてた話と違うわ。公爵はなにをされているの。幽霊の話はどうなったの? あんたはそっちのお屋敷でも不幸な目にあっているのではないの?」


 壁を背にしたフランにはロベルタの肩越しに広間の様子がよく見えていた。口元をしとやかに隠す令嬢たちも仲間内でグラスを傾ける紳士たちも、みんな楽しそうで和やかなのに、自分は何をしているんだろう。談笑の声がさざ波のような雑音になって流れてきて、だんだんと思考がぼんやりしていく。シャンデリアの灯りを背負ってフランの顔に陰を落とすロベルタは、まるで向こう側の世界とフランを隔絶しているみたいだった。


「公爵さまは、とても良く、してくださっています」

「嘘よ。そんなはずないわ」

「本当です。ドレスを仕立ててくださったのは公爵さまです。もったいないくらい良くしてくださるんです」

「虚勢でしょ? わかってるのよ。本当は、うちにいたときよりひどいことされてるんでしょう?」

「お義姉さま、痛い……」

「ちょっと掴んでるだけよ。もっと痛いことたくさん知ってるはずでしょう? この程度で声をあげるなんてあんたらしくないわ」


 フランの肩を掴み、揺さぶったロベルタの目は血走っている。

 眼の前が明滅している。倒錯したみたいにここがどこだか分からなくなる。あの薄暗いお屋敷で床ばかりを見ていたあの日のように、フランは今も俯いている。


 離してと言えたらと思うのに、言葉は喉に張り付いて乾いて砂になった。そのままさらさらと腹の底に落ちて淀む。息が苦しい。このまま窒息してしまえたらいっそ楽なのに――。


「あの気味悪い笑顔はどうしたの? いつも浮かべてたじゃない。なんで今はそんな反抗的な顔してるのよ、ねえ」


 肩を掴む手が食い込んで、痛みに顔を歪めそうになったそのとき、


「――失礼」


 腰に何かが触れて、ふわりと、身体が浮いていた。あんなに強固で、フランには振りほどけないと思ったロベルタの手がいとも簡単に離れていく。

 浮遊は刹那。つま先はすぐに床を叩く。


「はじめまして、ロベルタ嬢。私はジルハルト・セレーネ。」


 言いながら、ジルハルトさまはフランを背に庇うようにして立っていた。どうしてここへという問いを口にするよりも先に体中の力が抜けそうなほどの安堵にどっと襲われ、倒れかけた身体を彼の背中に寄せる。


 艶めかしいまでに美しい顔の男に名前を呼ばれ、ロベルタは狼狽し、顔を真っ赤にして言葉に詰まる。


「お――お初お目にかかります。名前を知って頂けているなんて身に余る光栄ですわ」

「我が婚約者の姉君だ、当然だろう」

「ではあなたが、本当にフランの……」

「ええ。婚約者のセレーネ公爵です。取り込み中でいらしたか?」

「そんな、取り込んでいたと言うほどのことではありませんわ。久しぶりの再会ですから、公爵さまのお屋敷で元気にやっているか訊ねていましたの。わたし義妹のことがとっても心配で……。そうよね、フラン?」


 急に名前を呼ばれ肩を跳ねさせたフランに鋭い視線が送られていた。それらしい言葉を塗り重ね語尾を高ぶらせるロベルタの目は、是以外の答えは許さないと物語っていた。逃げるように視線を左の下方に泳がせて「……ええ、そうです」つぶやくように吐き出した。求めていた答えを得た義姉は満足そうに頷いた。


「公爵さま、あたくしにフランの話を聞かせてくださいませんこと? 本人の前では恥ずかしいでしょうから、できれば二人きりで。フランもその方が良いわよね?」


 まただ。腹の底で砂が淀む。

 彼女を視界に入れないまま、求められるままに答えるべく口を開くのと、高らかにファンファーレが鳴るのは同時だった。


「王子殿下、ご入場です!」


 急に響いた大きな音に驚いて顔をあげると、ホールの左右へと人がざあっと割れていく。一斉に頭を垂れる先は、ホールの入口である。何が何だかわからないまま、ロベルタも、ジルハルトすらも姿勢を正しその人物に敬意を払うから、フランもそれに倣い同じ方へ頭を下げる。遠くて表情までは判別できなかったが、入り口に立つ人物の金髪が柔らかそうにカールしているのだけちらと見えた。


 人々が中央に開けた道を、王子殿下は踵を高く鳴らしながら歩んでいく。なにやら楽しげな足取りなのが弾むような靴音から伝わってくる。ずいぶん今日の夜会を楽しみにしていたらしい。


 そのまま奥の玉座に座すのだろう――と思っていたら、靴音が止まった。


「セレーネ公爵」


 浮かれた足音とは打って変わって、谷の湧き水のように澄んだ、しかししっかりと芯の通った声が呼んだのは、フランの婚約者の名前である。

 こっそりと横目で伺うと、「は」ジルハルトさまは動揺した様子もなく背筋を伸ばし、一歩前へ出た。



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