28 夜会Ⅰ
むき出しになった首筋や大きくあいた背中が涼しくて、なんだが心許ない。しかしこれがフランに似合うとレーヴェさんやマーダさんが用意してくれたわけだから、おどおどするのは失礼だ。慣れない装いに手こずっていると思われてはジルハルトさまの恥にもなってしまうから、フランはぴんと背筋を伸ばして、エスコートのために差し出されたジルハルトさまの腕を――少し躊躇してから、取った。
ダンスホールの扉をくぐった瞬間、フランは目を見開いた。
なんて、鮮やかな世界なんだろう。
燦々と輝く巨大なシャンデリアのもと、花開く色とりどりのドレス。ホールの奥で楽団が奏でている瑞々しい音楽はうっとりと耳に馴染んだ。明るい表情と笑い声、人々のざわめきがあたり一面に満ちている。
感嘆することはあれど怯えることなどないはずなのに、フランはここに足を踏み入れるのが恐ろしいと思った。ホールの空気が悪意を持ったひとつの大きな生き物となってフランを飲み込もうとしているような気がした。
ふと、ジルハルトさまの腕を掴んでいた手に、温もりが重なった。
「大丈夫だ。私がついている」
ジルハルトさまの手のひらの温度。
嬉しいのに、その手を振り払いそうになる衝動を、こらえる。
そんなフランたちを最初に見咎めたのは、三人組の令嬢たちだった。
「まさか、あれはセレーネ公爵さまではなくて?」
「嘘。あの社交嫌いの公爵さまが夜会になんていらっしゃるわけないでしょう。それにあの噂、ご存知でしょう? わたくし恐ろしいわ」
「で、でも見て! あの光り輝くような麗しさ!」
「ああっ……」
「ちょっと、マーガレットさま、お気を確かに!」
「う、美しすぎて腰が……」
「抜けたんですの!?」
気づかれてからはあっという間だった。
様子のおかしいご令嬢たちに興味を引かれ、なんだどうしたと視線を辿ればこの世のものとは思えぬ美青年が涼やかな目をして立っているのである。あれはまさかセレーネ公爵では……といった具合で騒ぎは伝染し、ホールの注目は一気にジルハルトさまに集まった。
「これはこれは、お久しぶりですな、セレーネ公爵」
「ボルドー伯」
「公爵殿が夜会に出席されるのなどいつぶりのことかな。明日は雪かもしれませんな」
「領内が立て込んでいてなかなかこのような場に足が運べないのです。ご容赦を」
「セレーネ公爵殿、覚えていらっしゃるでしょうか、ミジューでございます。本日もまことにご機嫌麗しゅう」
「ええ、覚えていますとも。ミジュー領の去年のワイン、素晴らしい出来でした。今年も期待しています」
「なんと……! 必ずや、今年も最高の一本をお約束いたします」
「わ、私のことはいかがですか? チェーザ男爵家嫡子、ナンドでございます。一昨年、一度だけご挨拶をさせていただいたことがありまして……」
あれよあれよと言う間にジルハルトを中心に輪ができる。フランにはもはや同じ顔が並んでいるようにしか見えないのだけれど、ジルハルトさまには我先にと口々に挨拶をしてくる貴族たちの区別がきちんとついているらしい。さらには彼らが口にするそれぞれの家名とそれに追随する情報を完璧に把握した上で適切に引き出しているようで、フランは素直に感心してしまった。
――しかし感心するほどの余裕があったのも最初の一時だけだった。ジルハルトさまの美しさは男女問わず目を奪ってしまうようで、挨拶待ちの人の輪の後ろには、少しでも近くでその美貌を見たいという人だかりが出来ようとしていた。もはや身動きが取れない始末だ。
辛うじて顔は上げていたものの、息苦しくなるほどの熱気と視線に耐えられなくて、フランはジルハルトさまに隠れるようにしてその陰に立っていた。それでもいつまでも気づかれないというわけにはいかず、
「ジルハルトさま、こちらのお美しい令嬢は?」
「私の婚約者です」
近くで絹を裂くような悲鳴が上がった。マーガレットしっかり! 誰かお医者さまを! とただならぬ声がそれに続く。
「まさか。特定の女性を作らないことで有名な公爵殿だぞ」
「それに、あの噂はいったい……」
「しっ! 聞こえるぞ」
人々が一様に動揺するけれど当の本人はどこ吹く風と言った様子で、エスコートしてくれていた腕がするりと抜けたかと思えば、その手がフランの背中を押した。
「フラン、ご挨拶を」
ああ、ついにこのときが来てしまった。
引きつりそうになる喉をこくんと鳴らして、フランは一歩前に出た。途端に痛いほどの視線が肌を刺して怯みそうになるけれど、背中に触れたままの体温に意識を集中させることでなんとか平静を保つ。
ぎこちないかもしれないけれどどうにか微笑み、ドレスの裾をつまんで、一礼。
「フラン・レイトラムと申します。どうぞお見知りおきを」
羽が生えたように軽やかに、指先までしなやかに。そう教えられ、何度も何度も練習した正式な礼だ。
そのはずだったのに、伏せた頭の上で何人かがほうと溜息をついたのが聞こえて、一気に冷水を浴びせられた気持ちになる。
――呆れられた。
わたしは何か間違えただろうか。何が悪かったのだろうか。さあっと血の気が引いていって、視線がつま先の辺りに縫い留められたみたいに動けなくなった。フランを取り囲んでいる人々がいま一体どんな顔をしているのか、ジルハルトさまがどんな失望した表情を浮かべているのか、想像するだけで足が竦んだ。
「ふ、フラン嬢、よかったら私とダン――」
「それでは、私達はひとまずこれで」
恐怖で頭が上げられずにいたフランの手を、ジルハルトさまが取った。くんと引かれ、体勢を戻す間もなく身体が傾ぐ。なし崩しに顔を上げる形になったけれど、ひとまず目に入るのがすぐ近くで前を行くジルハルトさまの背中だけだと分かって、心からほっとした。
人並みをかき分け――なくともこちらを遠巻きに見守っていた人々はジルハルトさまの視線にさらされた途端、あまりの美しさにか、それとも噂を知って恐怖しているのか、俊敏な動きで道を空ける。そして恐る恐るといったていで、やっぱりジルハルトさまを目で追うのだ。
ようやく人の少ない壁際にたどり着いて深呼吸をした。香水の匂いも薄くて息がしやすい。そう言えば誰かがフランに話しかけてきたようだが、あれは何の用だったのか。
ふと視線を感じると思ったら、それはぎゅっと眉根を寄せたジルハルトさまのもので、
「す、すみません。わたし、何を間違えたのでしょうか」
「間違えた?」
「とても怖い顔をされていらっしゃいますし、周りの方も溜息をついていらっしゃいました。わたしは何か失敗をしてしまったんですよね。大切な場で、本当に、申し訳ありません……」
首をすくめて謝ると、ジルハルトさまは深い深いため息をついて、
「……お前は完璧だった」
「え?」
「なにも間違えていない。だがそれが問題だった」
「間違えなかったことが問題……?」
失敗したほうが良かったということだろうか? フランには何が何だかさっぱりわからない。が、とにかくジルハルトさまは渋面のままだ。
「セレーネ公爵殿。紹介したい娘がいるのです、よろしいかな」
「いいわけないだろ見てわからないか取り込み中だ」
背後から声をかけられ、近くにいるフランですらうっかり聞き逃してしまいそうな声量で悪態をついたジルハルトさまは、しかし振り向いたときにはそんな素振りを一片たりとも見せることなく、
「ああ、お久しぶりですねテネス公爵――」
にこやかとまでは行かずとも落ち着いた態度で応じてみせる。テネス公爵と呼ばれた老年のその人は品の良いひげを撫で付けながら、隣にいた可憐な少女を指し示した。
「これは私の孫娘のモリーといってな、もうすぐ17歳になるんだがまだ引き取り手がおらんでなあ」
「はじめまして、モリー嬢。ジルハルト・セレーネだ」
「は、は、は、はじ、はじめまして」
「ほほ、ちょっとあがり症なんだ」
「すみません、あんまりジルハルトさまがお美しくて、わたし」
「お世辞がお上手でいらっしゃる」
「お世辞ではありません! こ、心の底から思っております!」
目鼻立ちがはっきりとした美人なのに、モリーさまはたいへんシャイな方のようだった。真っ赤に火照った頬を両手で押さえ、緊張のあまりちょっぴり涙目になっている。きっと顔立ちが整っているだけでなく、性格も素直で可愛らしい方なのだろう。
ジルハルトさまがテネス公爵と呼んでいたから、モリーさんとジルハルトさまは貴族としてはどちらも最高位である。身分も容姿も互いに申し分ないだろう。お似合いだとフランも思った。
エスコートの手はもう離れていた。フランはジルハルトさまの背中と少しずつ距離を取る。




