27 違和感とドレス
もうすっかり当たり前になった、二人で囲む夕食のテーブルに、フランは少し遅れてやってきた。すみません髪が乾かなくて、と笑う彼女の黒髪は、なるほどまだ幾分かしっとりと濡れていた。
「風邪をひく。夕食は後でもいい」
「いえ、大丈夫です」
「だが……」
「大丈夫です」
珍しく強い語気に気圧された。
言葉を遮るのはいつもジルハルトの方なのに、珍しいこともあるものだと目を丸くする。
「冷めてしまいます、いただきましょう」
フランはいつもの笑顔でそう言った。
レーヴェが作ってくれた料理に舌鼓を打ちつつ、ジルハルトはそっと左手のフランを盗み見た。なんだか今日はやけに強気だが、何かあったのだろうか。しかし俯きがちにパンを小さくちぎって食む姿は強気とは程遠く、さながら小動物のようである。丸パンの最後の一口をゆっくり噛んで、そしてようやくと言ったふうに飲み込んだフランは、そのままナプキンで口元を拭った。
「……ご馳走様でした」
「なんだ、もういいのか。ほとんど手を付けていないが」
「クッキーの味見をしすぎてしまったみたいで、お腹があまり空かなくて。……レーヴェさん、たくさん残してしまってごめんなさい」
「いいえ、無理もよくありませんから」
「髪を、乾かしてきますね。先に席を立つ無礼をお許しください」
「構わない、気にしなくていい」
ありがとうございますと微笑む仕草も、律儀に頭を下げる動作も、なんらおかしいところはない。ないはずなのに、ジルハルトは違和感を覚えていた。続き物の本のナンバーが抜け落ちているような、釦を一つかけ間違っているような、気づいてしまえばなんてことはないはずの些細なひっかかりがどこかにある。でもそれが何なのかわからなくて首を捻った。
「ああ、フラン。近く城でエリック王子主催の夜会があるそうだ。お前を伴って出席しろと直々の達しがあったから、明日の昼、マーダを呼んだ。わたしは忙しくて付き合えないが、今度こそ採寸してドレスを作る。レーヴェが付き添うから困るようなことはないと思うが」
ドレスはたくさんある、わざわざ作ってもらうなんて申し訳ない。そんなふうにまた遠慮するのだろうということは目に見えていたから、フランを説き伏せる言葉はすでに用意していた。夜会なんて権力や財力を見せびらかすために存在するのだ。そうして上下関係をはっきりさせながら政治的な駆け引きに持ち込む。そのために美化礼装は欠かせないのである――などと薀蓄を垂れれば、フランは渋々ながら聞き入れるはずだった。
だが今回は違った。
「わかりました。ありがとうございます」
「――え?」
「ではまた明日。おやすみなさい」
驚くほどにあっさりした返事を残し、フランは穏やかな微笑を浮かべたままスカートを翻す。
「……どうしたんだ、あれは。何かあったのか」
「文字通り、クッキーを食べすぎてしまったのかと」
「ああ……」
宇宙の法則を捻じ曲げて生成されたような、あの黒々しい物体。あれが原因だと言われてしまえば、大抵のことならみな納得しそうになってしまうのが恐ろしかった。
登城のための準備やそれまでに片付けておくべき仕事に追われ、夜会の日までの間でフランと顔を合わせることができたのは一度のティータイムだけだった。しかしいつもの焦げた物体はなく、どうしたのかと問えばダンスのレッスンが忙しく、クッキーを焼く余裕もないのだと苦笑が返ってくる。あまりダンスが上手でないのでどうしても時間をとられてしまうのだと。そんなフランにジルハルトは励めよと言って頭をひとつ撫でてやった。
違和感の原因は、まだわからずにいた。
左だけ髪をなでつけ耳にかけた。顕になったそこに、細い銀のフレームで耳たぶを挟むような形のイヤーカフスを飾り付けるのはレヴィンの仕事だ。細く短い鎖がついていて、先端ではティアーカットが施された紅玉が揺れている。高位であることを象徴する装飾だった。
「公爵さま、いかがでしょうか」
「良い。助かる」
「もったいないお言葉です」
姿見の前に立って、背中の方まで不備がないか確認する。
いつもの公務服と形はほぼ同じだが、色は黒だ。派手さはないが、襟や袖に小粒の真珠でセレーネ家の守護獣である獅子の文様が描かれていて、光を弾くときらりと輝く。
まあこんなものだろう。自分の装いにあまり頓着しないから、それ以上の感想が浮かばなかった。
「フランの方はどうだ」
「間もなく準備が出来るとのことでした」
「なら迎えに行こう」
「はい」
迎えといってもすぐ隣の部屋だ。ものの数秒でたどり着いた扉を叩き、返事を確認してから開ける。
「そろそろ出ねば時間が、」
時間が。
その先に用意していた言葉はなんだったか、目の前の光景に塗りつぶされてもうわからない。
部屋を、間違えたのかと思った。
凛と背筋を伸ばしてそこに立つ人物が誰なのか、本気で一瞬分からなかった。
クリーム色のドレスは、もともと細かったラインを一層際だたせるように腰を絞ってある。その下のスカートは逆に大きく膨らんでいるから、小さく動くだけでも可憐にふわふわと揺れて、つい目で追ってしまった。フランの幼さを残す顔立ちを、裾に大きくあしらわれた花柄がよく引き立てていた。
高く結えるほど長さのない髪はどうするのだろうと思っていたが、何本かに細く編み、さらにそれをもう一度編んで低い位置でまとめ上げることでアップヘアに仕上げたらしい。赤いリボンが頭の後ろで結ばれている。
髪型のせいで顔の輪郭が無防備になり、一層顔の小ささが際立っていた。夜会の照明を考慮して厚めに施された化粧が、フランを幾つか大人びてみせる。
初めて夕食を同じテーブルでとったときも、やけに化粧が映える顔だとは思った。しかしあの、枯れ枝のように痩せてみすぼらしいばかりだった少女と、眼前の淑女が同一人物だとは、まだ信じられない思いだった。
言葉は悪いが、あまりにも”化けた”。
「すみません、おまたせしました」
赤いルージュを刷いた唇が紡ぐ言葉がジルハルトに向けられたのだと気づくまで、たっぷり時間を要した。
「あ……ああ。それがマーダが作ったドレスか」
「はい。他にもたくさん作ってくださったんですが、レーヴェさんがこれが一番良い、と言ってくださって」
「そうだな。私もそう思う」
よく似合っている、と若干口ごもりながら告げると、フランは恥ずかしそうに笑った。
女など掃いて捨てるほど見てきたはずなのに、何をいまさら動揺しているのだ、私は。




