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曰く付き公爵は婚約者の涙を愛す  作者: 朔間 はる子
26/37

26 崩れていく※

暴行を匂わせる表現があります。


 首を巡らすことなく名前を呼べば、ふ、と耳に生暖かい息が吹きかけられて、その顔が触れそうなほど近くにあることを知った。

 体が、震えていた。


「感動の再会だっていうのに逃げるなんてひどいだろ? お前生きてたんだな。物狂いの公爵に今頃犬の餌にでもされてるんじゃないかって、うちじゃ噂してたんだぜ」

「…………」

「なあ、お前なんか綺麗になったな? 髪も伸びたし、ちょっと太っただろ。見かけたとき、こんな美人絶対お前じゃない、他人の空似だと思ったのにさ、俺の顔見て逃げ出すんだもんな。ああ、フランだって思って追いかけてきてやったよ」

「…………」

「いい体になったよ、ほんと。前は骨と皮だけで、抱き心地もくそもなかったもんなあ……」


 ねっとりと絡みつくような声で言いながら、ドレス越しに無遠慮な手がフランをまさぐっていた。

 震えるな。静まれ。強く手のひらを握り込む。興に乗らせるな。怯えていると悟らせるな。わたしの体でしょう。お願い。お願いよ。


「なあフラン、ここで会ったのも何かの縁だ。公爵には黙っておいてやるからさ、楽しませてくれよ」


 ――前みたいにさ。

 

 ドレスの裾をするりとたくしあげ、ルイザスの手がフランの太ももの内側を撫でて、


「――――ッ!」


 頭が真っ白になったと思ったら、声にならない声で悲鳴を上げていた。自分でも何が何だかわからないまま、自分の声に弾かれるみたいに転がるように走り出す。


「お、おい待て!」


 嫌だ来るな。伸びてくる手を夢中で振り払い一目散に駆け抜ける。途中で何度転倒したかわからない。どこを走ったのかもわからない。待ちゆく人に奇異の目で見られている気がしたけれど構っている余裕はなかった。ただ足が止まらなかった。どくどくと巡る血が熱いと思った。熱い。熱いのに寒い。はやくお屋敷に。戻らなければ。とにかく戻らなければと、その一心で走っていた。





 どうやって戻ってきたのかはわからない。いつの間にかフランは自分の部屋の入り口に倒れこんでいた。本当になにもわからない。ただずっと心臓が早鐘を打つ音がやまない。痛いくらいにうるさくて、何も聞こえない。聞こえないはずなのに。


 たのしませてくれよ まえみたいに


「――――!」


 バスルームに飛び込んで、溜めてあった水を頭から被った。ドレスを着たままだった。忘れていた。でも止まらない。ドレス姿のまま、バスタブの水を汲み出しては乱暴に頭にかける。頬を、首を、耳を、あの男が触った場所すべてを洗い流したかった。力任せにどれほど強く拭っても、あの男の感触が消えてくれなくて。


「フラン、こんな時間に湯浴みか?」

「…………っ」


 ドアの外からジルハルトさまの声がして、あんなにうるさかった心臓が一瞬の内に凍りついた。

 いつの間に戻っていたんだろう、絶え間ない水音のせいで気配に気づけなかった。


「厨房の片付けが中途半端にそのままだったとレーヴェが心配して探していた。何かあったのか?」


 声を、言葉を絞り出そうとしたはずなのに、体がそれを拒んだみたいに喉が詰まった。

 違う。それでは駄目なのだ。

 笑え。

 笑え。笑え。笑え。

 唇の端を上げて。明るい声で。楽しげに、柔らかに、いつものように。


「こ――小麦粉を、間違って、被ってしまって、それで洗い流したくて」


 声が震えそうになって、フランは咄嗟に自分の腕に爪を立てる。

 体の震えを止めれば声も震えなくなるんじゃないかと思った。

 顔に笑顔を貼り付けたまま、きつく、きつく立てた爪が皮膚を抉り、血が滲む。


「ああ、そういうことか。慎重なお前が珍しいこともあるものだ。だが湯浴みは一人でするなとレーヴェに言われていただろう。未来の公爵夫人として自覚が足りないとまた小言を言われるぞ」

「すみません。どうしても、気持ちが悪かったものですから」 

「……冗談だ、そんなに真剣に謝るな。今レヴィンが夕食の準備をしているから、早めに上がれよ」

「はい、すぐに」


 遠ざかっていく足音が消えるまで、フランは呼吸を止めていた。

 ――もう、大丈夫だ。

 確信した刹那、膝から崩れ落ちていた。肺が空気を求めるままに、喘ぐように呼吸を繰り返した。力なく落ちた自分の手がタイルに溜まった水をぱしゃりと弾く音を、まるで遥か遠くの世界の出来事のような思いで聞いていた。


 わたしは、ちゃんと受け答えできただろうか。おかしなところはなかっただろうか。不審には思われなかっただろうか。

 体に力が入らない。平衡感覚が分からなくなる。わたしはこの感覚を知っている。足元から何もかもが崩れ去っていくような、世界が根本から揺れて、壊れていくような。


 ドレスの裾から、肉付きの良くない二本の足がのぞいていた。足は二本なのに、どうしてだろう、片方しか靴を履いていない。ジルハルトさまからの、初めてのプレゼント。何も持っていなかったフランの初めての宝物。大切な大切な、ワインレッドのメリージェーン。


「……ない」


 喧騒なんてどこにもないのに、耳を覆っていた。逃げたかった。閉ざしたかった。ふるふると首を振った。


「ない。どうして」


 お願いどうか。


「どうして」


 もう何も、わたしから奪わないで。



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