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曰く付き公爵は婚約者の涙を愛す  作者: 朔間 はる子
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25 再会



 そうして、苦心の日々が始まった。

 レヴィンさんがいるときはレヴィンさんに、同様になんでも卒なくこなせるレーヴェさんがお菓子作りも得意だと知ってからはレーヴェさんにも、隙を見てはクッキー作りに付き合ってもらった。


 彼らの言うことは同じである。きちんと計量し、きちんと温度調節し、きちんと焼き時間を計る。そうすれば必ず上手に作れますと。

 二人の言うことを肝に銘じ、見守られながら、計量し、温度調節し、焼き時間を計った。

 ――なのに。なのにである。

 出来上がるのは謎の物体なのだ。宇宙の不思議である。何十回目かの挑戦のとき、これはもう一種の才能ですねとレヴィンさんの唖然としたような呟きが聞こえてきた。フランもその通りだと思った。


 そうして焼いたクッキー……になる予定だった物体は、ジルハルトさまとのティータイムに必ず添えられた。これもジルハルトさまの要望だった。


 このところジルハルトさまは書類仕事が溜まっていたようで、出かけることが少なかった。だから昼下がりには休憩にとフランの部屋にやってきては、一緒にお茶を飲んで、そして全然美味しくない黒焦げの物体を少しずつかじって、今日も駄目だったと笑うのが日課になっていた。


 そう。ジルハルトさまは、なんだかよく笑ってくれるようになった。お腹を抱えてわはは、なんて品のない笑い方ではなく、苦笑のような、控えめなものなのだけれど、フランはその笑い顔を見るのがとても好きで。だからついクッキー作りに力を入れてしまい、そのたびに出来上がる山のような謎の物体をやっつけるのには少々苦労した。



 穏やかな、穏やかな日々だった。

 フランが恐れたぬるま湯に、フランは自分の意志で、おずおずと足首を浸していた。

 もしかしたらわたしはこのまま幸せになれるのかもしれないなんて、ひどい思い違いを、していた。




*****




 卵が切れてしまっていることに、粉をふるってから気がついた。

 今日はジルハルトさまが朝から街へ出かける日で、レーヴェさんもレヴィンさんもそちらに付いていってしまった。つまり、お屋敷にはフランひとりである。


 何があるかわからないので、基本的に一人での外出は禁止されている。今までは外へ出たいと思うこともなかったので何ということはない制限だったのだけれど……。フランは少し思案する。


(ジルハルトさまが帰ってくるまでに戻ってくれば大丈夫よね)


 ジルハルト様のお帰りは夕食より少し前になるとのだったから、今から急いで用を済ませて帰ってくれば、出かけたこともばれないはずだ。


 最近、フランのクッキー作りは少しだけ進歩したのだ。たまに――頻度で言えば5回に一回くらい、真っ黒ではない、ちょっと黒いくらいのものが出来上がるのだ。フランにしてみればものすごい進歩だ。レヴィンさんも感慨深そうに手を叩いて祝福してくれた。


 もう少しでちゃんとした焼き色のクッキーが焼けそうな気がする。そしたらジルハルトさまに、やっぱり不味いと苦笑いするんじゃなく、美味いと笑ってほしい。控えめな苦笑も素敵だけれど、そうやって笑うジルハルトさまが見てみたい。想像してみたら自然と足取りが軽くなって、半ばスキップみたいになりながら部屋に戻る。お行儀は悪いけれど、誰も見ていないから良いことにした。


 自室のクローゼットには、あの日ジルハルトさまが買ってくださったドレスが綺麗に収められている。フランは悩むことなく、その中から薄桃色のドレスを手にとった。もう春も終わってしまうから、今のうちに春色のドレスを楽しんでおこうと思った。それからワインレッドのメリージェーンに足を納めて、誰にともなくにっこり笑う。出かける用意は万端だ。

 ポーチに若干の紙幣が入っているのを確認して、フランは再びお行儀無視のスキップを再開し、弾む足取りでお屋敷を出た。



 幸いなことに馬車はすぐにつかまった。市場はすぐそこだし、何度もレーヴェさんとレヴィンさんの買い出しにくっついて来たことがあるから迷子にもならない。

 いつもの露店のお姉さんから卵を6つもらって代金を払う。6つはちょっと多かったかな。ううん、たぶん夕食にも使うだろうし、明日もクッキー作りに励む予定だ。これくらいで丁度いいだろう。


 お釣りを渡しながら「いつもありがとうね」とお姉さんがにっこりと笑ってくれるから、フランも笑みを返して。

 さあ早く戻ろうと振り返った先の人混みの向こうに、見覚えのある赤茶の髪が揺れているのが見えた。ジルハルトさまより背は高くないけれど、肩幅は少し広いかもしれない。ジルハルトさまは線の細い方だから、あんな男とは違うのだ。獰猛な獣のようにぎらついて、獲物を見つけたようにじっとりとフランを睨みつける双眸も、気品高いジルハルトさまとぜんぜん違う。ジルハルトさまと違う。ジルハルトさまと。ジルハルトさま。

 ――助けて。


「ちょっと、お嬢ちゃんっ?」


 受け取ったばかりの卵が入ったバスケットを放り投げるようにして、フランは駆け出していた。卵が地面に落ちてべしゃりと割れる音がしても振り返らなかった。割れて跳ねた卵が靴に散ったのだろう知らない男性の怒号が聞こえてきても振り返らなかった。怖くて振り返れなかった、という方が正しいかも知れないけれど。


 追いかけてきている? わからない。わからないから足を止めるわけに行かない。どうしてこんなところにいるの。あの人が出かけるのはたいてい夜で、昼に出るとしても市場になんて用がある人じゃない。それがどうして。


 走って、走って、走って。

 喉が痛い。肺が悲鳴を上げている。ぜえぜえと肩で呼吸しながら、フランはようやくあたりを見回した。

 無意識に人のいないところへいないところへと逃げていたようで、細い路地の突き当りまで来てしまっていた。ここはどこだろう。周囲の景色に見覚えはない。随分遠くまで来た気がするけれど――


「久しぶりだなあ……」


 ひたりと、後ろから頬を撫でる手があった。

 荒い呼吸を飲み込んで、フランは硬直する。全身という全身が粟立つのが分かった。その声を知っている。フランは、知っている。


 視線だけで、頬に添えられている手を追った。男らしく角ばった手だ。指は短く、日に焼けている。その手がフランの頬、そして耳介をなぞって首へと下る。気持ちが悪い、そう思った。この不快感を知っている。女受けは悪くないんだぜ、俺の顔。口癖のようにそう言って唇を吊り上げて笑っていた、その男をフランは、知っている。


「……ルイザス、お義兄さま」



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