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曰く付き公爵は婚約者の涙を愛す  作者: 朔間 はる子
24/37

24 お願いをひとつ


 ここが今日からフランさまのお部屋ですと言われても、にわかには信じられなかった。


「こんな――駄目です、いけません」

「フランさまがどう仰ろうとも、ここはフランさまのお部屋です」


 幼子に言い含めるようにゆっくりと、レーヴェさんが言う。


 ジルハルトさまの隣のお部屋に案内されたときにはついに掃除が解禁されたのかと思った。でも違った。

 扉を開けたとき、そこにはすでに完成された部屋が広がっていた。


 間取りはジルハルトさまのお部屋と同じだった。まず入ってすぐが応接室、右の扉をくぐればバスルーム、奥へと進めば寝室だ。

 違うところといえばその色彩である。彼の部屋は落ち着いた色合いの革張りの調度品を好んで使っているようだったけれど、この部屋は白を基調に、差し色には女性らしい柔らかな色ばかり。そのどれもが丁寧に作られていて、たいへんに高価であることは訊ねずとも分かった。白い絨毯には淡い色で繊細な幾何学模様が刺繍してある。縁は金糸で彩られていた。


 寝室の中央に横たわるのは、お伽噺のお姫さまが眠るような天蓋付きのベッドだ。枕元にはうさぎやねこを模した人形が飾られている。……あれも公爵さまが用意してくださったのだろうか?


 ベッド脇のサイドテーブルには花瓶があって、今朝切ってきたのだろう、立派な水仙の花が差されていた。鼻をよせると甘く香る。

 素敵だ。あまりにも。だからこそ甘受するわけにはいかないと思った。


「……ここまでして頂くわけにはいきません」

「フランさまはジルハルトさまの婚約者さまです。当然のことをさせていただいているまでです」

「立場としてはそうかもしれません。でも、わたしの身の丈には合いません」

「フランさま、もう一度申し上げます。あなたはジルハルト・セレーネ公爵さまの婚約者、ひいては妻となるお方です。そしてこちらは、他の公爵家奥方と比較すれば質素ともいえるお部屋でしょう。それでも身の丈には合わないと、そう仰るのですか?」

「それは……」


 レーヴェさんは何も間違ってはいない。だがそれは、フランが受け入れてしまうには贅沢すぎる肩書だ。


「……わたしは、公爵さまを本当に恐ろしい方だと思って婚約を承諾したのです」


 吐息のようにこぼして、フランは胸の前で手を通い合わせた。


 このお屋敷にやってきたとき、死すらも覚悟していた。女を切り刻み飼い殺すのだという、残虐非道の公爵さま。きっと自分はひどい目に合うのだろうと、しかしそれでも構わないと思っていたのに、蓋を開けてみれば待っていたのは真綿でくるまれるように穏やかな日々である。まるで父と母が生きていた頃、強請れば強請るだけ与えられていたあの安寧の中にいるようで、フランの足は竦む。これを常としてしまったら、いつか失う日が来たときどうすればいい。


 母についで父が事故で亡くなったとき、フランはまだ幼かった。父と母の思い出はすぐに遠く霞んでしまって、だからこそ耐えられたのだ。何もわからないまま、忘れていくまま、必死に生きるだけで良かった。何も持っていなければ失うものもない。だからフランは、ただこの屋敷にいたいと願った。願いはそれ以上でも以下でもなかったのに、公爵さまは与えることを止めてはくれない。そしてフランは満たされてしまう自分を止められない。


 緩やかに、暖かく流れていくこの時間に慣れて、そしていつか失ってしまうことがフランは何より恐ろしかった。


「物狂いの公爵さまの婚約者として、ここにいるのです。靴を、ドレスを、部屋を、何もかもを与えられるためにここにいるのでは、ないのです」

「フランさま――」

「聞き捨てならんな」


 それは、今一番聞きたくない声だった。

 どこから聞いていたのだろう、部屋の入口、開け放されたままだった扉からジルハルトさまがゆったりとした足取りで入ってくるから、フランの表情が凍りつく。


「例え私が噂に違わず血の通っていないような人間だったとしても、部屋の一つくらい与えるに決まっているだろう。お前は考えすぎなんだ」

「ですがっ……」

「この先セレーネの名を背負うであろうお前が、公爵家の妻たる振る舞いもできず、ドレスの裾ひとつ捌けないのでは私の沽券に関わる。そのためにはまず公爵家夫人に相応しい場所で寝起きし、相応しい食事をし、相応しい一日の過ごし方を覚えていくべきだ。違うか?」

「……違いません」

「ならば、お前が私に言うべき言葉はなんだ」


 レーヴェさんが静かに一歩下がる中、フランの眼前で足を止めたジルハルトさまは怒っても呆れてもいなくて、どちらかと言えば諭すような目の色でフランを見下ろしている。


 全方位をまんべんなく正論で囲まれてしまってはもう、逃げ場がなかった。この人は、ずるい。フランの逃げ道を、フランには非がないよう細心の注意を払いながら、器用に、丁寧に塞いでしまう。

 ずるくて、賢くて、優しい。


「――ありがとうございます、ジルハルトさま」

「それでいい」


 納得をしたわけではなかった。でも反論らしい反論ができるとも思えなくてしゅんとしながら絞り出した礼だったのに、返ってきたジルハルトさまの声は優しかった。その余裕が少し恨めしかった。まるで大人と子どもの差を見せつけられているようだと思った。


「まあ、どうしても負い目があると言うなら、感謝の意を形で示してもらう方法も一つだけあるが」

「っ……それはなんでしょうか!」


 弾かれたように顔をあげると、ジルハルトさまは思っても見なかった単語を口にした。


「クッキー」

「……はい?」


 クッキー……クッキー? あのお菓子の? 頭に浮かんだ疑問の重みでそうなるみたいにフランの首が傾いでいくのを見て、ジルハルトさまが可笑しそうに小さく笑う。


「クッキーを所望する。焦げてないやつな」


 その目にからかいの色が踊っているのを、確かにフランは見た。



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