22 見知らぬわたし
その夜は、ジルハルトさまと並んで大ホールで夕食をとることになった。馬車の中で、ジルハルトさまが言い出したことだった。
「ひとりならまだしも、ふたりなら応接室で食べるのも味気ないだろう」
ジルハルトさまの寝室を借りるようになってから食事のタイミングが重なるのは初めてのことだった。このところ忙しかったようで、フランが目覚める頃にはジルハルトさまはもう出かけていて、そのまま外泊したり、フランが寝付いた後に帰宅するといったすれ違いが続いていたからだ。
同じテーブルでの食事を許されたことに緊張しながら帰宅すると、フランはレーヴェさんに寝室に引っ張り込まれた。わけもわからぬまま鏡の前で薄化粧を施され、買ってもらったばかりのドレスを着せられて。採寸などなかったはずなのにドレスは袖も丈も胴回りも、まるであつらえたようにフランにぴったりだった。ミス・マーダは噂通りすごい人のようだ。
「お綺麗ですよ」
そんな社交辞令を合図に目を開けて、息を呑んだ。
眼の前に、見覚えのない少女が立っていた。
チークでほんのりと染まった頬は健康的で、白く滑らかな肌によく映える色をしていた。まとめるには長さの足りない黒檀のような髪は丁寧に梳られ、白い造花の髪飾りとのコントラストが美しい。身につけているのはレースやフリルは最低限のシンプルなドレスだが、過美に飾り立てない上品なすみれ色が少女の控えめな雰囲気とよく似合っていた。そして靴。公爵さまが贈ってくださった、丸いフォルムが愛らしいメリージェーンが、子どもと大人の境界線に立つ少女のかんばせにぱっと華やぐような可憐さを添えている。
呆けた顔の少女の頬を指でなぞろうとするとその人もまた、こちらに指を伸ばしてきた。ふたりの指は、ふたりを阻む鏡によってかつんと弾かれる。
――これが、わたし?
「……レーヴェさんは魔法使いだったんですか」
「何をおっしゃっているかわかりません。さあ、公爵さまがお待ちです」
レーヴェさんに連れられ部屋を出ながら、後ろ髪を引かれるように鏡を振り返った。鏡の中の彼女と目が合う。
やっぱりこんなの別人だ、と思った。フラン・レイトラムはもっと荒れた肌とひび割れた唇の持ち主だ。手入れのなされていない髪はいつもぼさぼさで、まとめたくてもまとまらなかった。人前に出る必要があるときは必死に手櫛で梳かしつけていたのだ。枯れ枝のように不健康に痩せた体にあうドレスなんてなかったから、何を着ても野暮に見えた。だから信じられなかった。
それはジルハルトさまも同じだったのだろう。
先にテーブルについていたジルハルトさまは、フランを見るなり目を大きく張った。こぼれんばかりである。そしてぎこちない仕草で口元を手のひらで覆うから、その後に投げかけられるであろう言葉を待っていたのだけれど、向かい合う二人の間にはそのまましばし沈黙が降りた。
穴が空きそうなくらい、見られている。誰だお前は、というジルハルトさまの心の声が聞こえる気がした。フランも同じ気持ちである。
助け舟を出してくれたのはレーヴェさんだった。
「フランさま、どうぞお座りください」
「あ、ありがとうございます」
ジルハルトさまの横の椅子を引いてくれるから、フランはほっとしつつ、ありがたく腰を下ろした。ジルハルトさまの正面から外れたことでようやく少し居心地の悪さから開放されて、フランは礼を言う余裕ができる。
「ジルハルトさま。こんなに素敵なドレスも……靴も、本当に、ありがとうございます。どれだけ感謝してもしきれません」
「……特別なことはなにもしていない」
「とんでもありません。それに、レーヴェさんが魔法をかけてくださいました」
「魔法?」
「はい。別人みたいにお化粧をしてくださって」
だから魔法。そう言って笑うと、ジルハルトさまは微妙に視線を逸らして小さな声で。
「それが本来のお前なんだろう」
「え」
「出来たようだ。いただこう」
疑問の言葉は、レヴィンさんが運んできたお皿から漂う、刺激的で食欲をそそる香りに飲み込まれていった。食事当番はレーヴェさんとレヴィンさんが日替わりで担当してくれているのだが、今日はレヴィンさんの番だったようだ。
南から取り寄せたのだというスパイスで野菜と肉を煮込んだスープは舌が痺れるくらい辛いのにスプーンが止まらなくて、小麦を練って平たくして焼いた生地を浸して食べるのもまた絶品だった。口直しに添えられているのは果物を酸味のある白いソースで和えたものだ。さっぱりしたソースと果実の甘味が、刺激に慣れた口内を優しく癒やしてくれる。初めて食べる味だった。不思議に思い、ソースはどうやって作っているのかと尋ねると、牛の乳を発酵させて作るのだとレヴィンさんが教えてくれた。この辺りだとあまり手に入らないそうだ。
骨のない鶏肉を串で刺してこれまたスパイスの効いたトマトソースで煮込んだ料理も、ほろほろと口の中でほどける極上の柔らかさでうっとりしたし、野菜を香り付けしてから蒸し、柑橘系の果物で風味付けした温野菜のサラダも、サラダとは冷たいものだと思いこんでいたフランには真新しい発見だった。
フランもジルハルトさまも口数は少なくて、交わした言葉と言えば美味しいですねというようなことを何度か言い合ったくらいのことだ。特段会話が弾んだわけでもなかったけれど、フランはすごく楽しいと思った。誰かと――ジルハルトさまと過ごす食事の時間は、楽しかった。




