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曰く付き公爵は婚約者の涙を愛す  作者: 朔間 はる子
21/37

21 あなたが降らせてくれるもの


(ずっと、お屋敷に置いてください)


 そう言えたらどんなに楽かわからない。婚約者としてでなくとも、侍従としてでもいい。あの家に、家族と形容するには血も心も遠すぎるあの人たちのもとに戻らずにすむのならどんな立場でも構わない。でも、そんなの、フランの勝手な事情なわけで。フランの人生を押し付けるようなこの願いが、他人に託すには重すぎると分かっている。


 例えばフランが、もっと目のさめるような美人であったなら。深い教養を持っていたなら。武芸に秀で護衛のひとつでもできるなら。もっと自信を持って、ジルハルトさまの前に立っていられたのだろう。


(でも、ない。なにもない)


 自然と視線は落ち、目に入ったのは足元、無造作に並べられた、しかし丁寧で愛らしい作りの靴たちである。ヒールが高くて細いもの、どうやって結ぶのだろうかと不思議なほど長いリボンが垂れ下がったもの、儀礼用と思われるシックなものなど数十種類が置かれているのだけれど、その中でフランの目を引いたのはたったひとつだ。


 品の良いワインレッドのメリージェーン。装飾も刺繍もないシンプルな形。

 膝をついて手にとってみてなおさら、幼いフランの足にお父さまが履かせてくれた赤い靴に似ていると思った。あんなにお気に入りだったのに、身長が伸びるのと一緒に履けなくなって泣いてしまったあの靴。


「それか?」

「い、いえ。ちょっと触ってみただけです」


 哀愁の一心で見つめていただけだったのにジルハルトさまが身をかがめて手を伸ばしてくるから、フランは慌てて立ち上がる。


「やっぱり、どれもわたしには高価すぎます」


 だから何もいらないと笑った。少しでも長くあのお屋敷にいたい。そのために不興を買いたくない。負担になりたくない。だから何も欲しくはない。フランが心の底から欲しいと願うものは、お金では買えない。


「ジルさま、とりあえず20着ほど用意してきたけど少ないかしら?」

「そうだな、もう少しあったほうがいいかもしれない。ああそれから……」

「にじゅっ……お、お待ち下さい! 充分です! 十二分です! わたしそんなに着られません!」


 巨大な箱を両手にそれぞれ4つずつも抱えてきたマーダさんとジルハルトさまが真面目な顔でとんでもない数字を口にするから、フランは慌てふためいた。

 ほんとうにこれだけで良いのかと何度も念押しされるので、フランも同じだけ充分過ぎる旨を丁重に繰り返した。納得はしてくれたものの不服そうな顔をして、ジルハルトさまは小切手にサインをしてくると席を外した。

 

 ドレスに埋もれたカウンターで万年筆をとるジルハルトさまを少し離れたところで見守っていたら、マーダさんがフランの右耳に唇を寄せてきた。何事かと反射的に身構えると、


「今までジルさまがあたしのところに自分以外の服を――ドレスを買いに来たことなんて一度もないのよ。フランちゃんは特別なのね」

「え……」

「ジルさまのこと、よろしく頼むわね」


 ジルハルトさまに見つからない角度で、マーダさんはぱちんと片目をつむった。

 それは一体どういう――とフランが問う前にサインを終えたジルハルトさまが戻ってきて、会話はなし崩し的に切り上げられる。


「何か話していたのか?」

「べっつにい? 女の子同士の秘密よ。ねー?」

「誰と誰が女子だって?」

「細かい男はモテないわよ」

「必要ない」

「もう充分モテてるってか! きぃ! ほんと憎たらしい口たたくわね。……まー、そこがまたいいんだけど?」

「すり寄るな。フラン、帰るぞ」

「あ……は、はい」

「じゃあね、フランちゃん。また近い内にちゃんとしたドレス、作らせてちょうだいね」




 マーダさんに見送られ、馬車に戻ったジルハルトさまは心底辟易とした表情だった。首のあたりに赤いルージュの跡があるのは、抱きつかれたときに熱烈なキスを御見舞されていたようだ。「だからマーダと会うのは年に一回で充分なんだ……」溜息と一緒に疲れ切ったような悪態が聞こえてくる。フランは申し訳無さで視線を下げてから、気づいた。つまりマーダさんに会いたくはなかったのに、フランのためだけにお店に連れてきてくれたのだ、この方は。


 ドレスが収められた箱はすべてレヴィンさんが馬車の荷台に載せてくれたと思っていたのだけれど、いつの間にかジルハルトさまの手には中くらいの箱がひとつだけあった。何が入っているのだろう、ジルハルトさまの個人的なお買い物があったのだろうか、などと考えていたら緩やかに馬車が走り出して、がたんという揺れに意識が奪われた。


 一度途切れた思考を繋ぎ直そうとしたフランの脳裏に別の疑問がぷかりと浮かぶ。そういえば今日の出費はどれくらいだったのだろう。マーダさんは王家のお抱えの仕立て屋さんだとジルハルトさまは言っていた。そんな人が作ったドレスにどれほどの値がつくのか、考えただけで恐ろしいけれど――。

 どうお礼を言うべきか真剣に思案していたフランの前で、ジルハルトさまは箱のリボンに指をかけた。


「欲しいものがあれば伝えて欲しいと言ったはずだが、お前は何も言わない」


 ため息混じりに解いたリボンを脇において、蓋を開ける。

 あ、と声が漏れていた。


「だからこれは私からの勝手なプレゼントだ」


 現れたのは、ワインレッドのメリージェーン。

 驚きのあまり身動きがとれないフランに、普段どおりの涼しげな顔に、少しだけ心配そうな、どこか反応を伺うような表情をにじませて、ジルハルトさまがそれを差し出す。


「気に入ってもらえるだろうか?」


 震える手で受け取りながら、耳に蘇るのはマーダさんの囁く声だ。


 ――フランちゃんは特別なのね。


 特別な訳がない。これはきっとジルハルトさまにとっては気まぐれで、普通のことで、他意なんてない。きっとフランが自分でも気づかない間に物欲しそうな顔をしてしまったから、ジルハルトさまは気を遣ってくださったのだ。そこに特別な意味なんてない。求めてはいけない。


「……嬉しい」


 いけないのに、両手でぎゅっと抱いた赤い靴に、こんなにも暖かい感情が灯る。

 何も望んでいない、それは本心だ。けれどこの方は、フランが欲しがる前に惜しげもなく降らせてくださるのだ。優しさを、喜びを。冷たい紫水晶の瞳の奥に穏やかな色を映して。


「嬉しいです。本当に――本当に」

「……そうか」


 顔を上げれば、ジルハルトさまの柔らかな表情が見られたのかもしれない。そういう声音だった。わかっていても駄目だった。あまりにも胸がいっぱいで、これ以上はきっと何かが溢れ出してしまうと思った。



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