20 ミス・マーダ
ぱたぱたと手のひらで顔を扇いで冷ましてから、フランはお店に足を踏み入れた。
ジルハルトさまが連れてきてくださるぐらいだからものすごく豪華なお店を予想していたのだけれど、予想に反して広さはそんなになくて、ただ壁やラック一面に色とりどりのドレスがぎっしりと並べられていた。物珍しさにはしたなくもきょろきょろ左右を見回してしまう。
野太い声が響いたのはその時だった。
「会いたかったわジルさま――――!」
その声はなんと表現すれば良いのか。男性のものなのに、女性らしい声だった。そちらへ首を巡らせたフランは思わずぎょっとした。
ドレスを纏った巨躯がジルハルトさまに飛びつくところだったのである。
ジルハルトさまも充分に背が高いが、その人はさらに顔ひとつ分背丈があった。ドレスの上からでもわかる、どんな衝撃にも耐えられそうな首の太さ、広い肩幅、はち切れそうな袖口からのぞいた立派な上腕二頭筋、どれをとっても成人男性の、いや”鍛え上げられた”成人男性のそれ。ドレスの裾は幸いなことに(と言ったら怒られるだろうか)長いので確かめようこそないが、おそらく太ももから足首までも上質な筋肉で覆われているのだろうということは想像に容易かった。
「やめろ、離れろ暑苦しい」
「ああ! 今日もなんて麗しいのかしら! モデルの話考えてくれた!?」
「するわけがないだろう」
「なんでよお! ジルさまがちょーっとポーズとってくれたら、絶対すごいインスピレーションわくのにい!」
「絶対に嫌だ。それよりも仕事の話だ」
男性を……いや、この場合は女性と表現すべきなのだろうか? とにかくその人を強張った顔で引き剥がしながら、ジルベルトさまがフランを指した。途端にその人の興味はフランへ移る。
「まあ……まあまあまあ! なあんて可愛いのかしら! はじめまして、あたしマーダ。ミス・マーダって呼んでちょうだい!」
「は、はじめまして。フランと申します」
「ミスターの間違いだろう」
「ジルさま、それ以上は許さないわ。……それにしても、ああんお手手ちっちゃい、食べちゃいたいわ! でもあなたちょっと細すぎよ、もっと太りなさいな!」
ミス・マーダはフランの手をがっちりと握って上下にぶんぶんと振る。あまりの力に体が浮きそうになるのをなんとかこらえるが、その気になればこのままフランの手首くらい簡単にへし折ってしまえそうだと思った。これはやはり男性の力な気がするけれど、追求するのはやめておくことにする。なんだか怖い。
「それで、どんな服を作ればいいのかしら?」
「欲しいのは私のものじゃない、フランのドレスだ。有りものでいいから作る必要もない。後日屋敷に呼ぶから、きちんとしたものはその時に頼む」
「やだ、ほんとに言ってる? あたしから女の子のドレス買いたいって?」
「嘘を言う必要がどこにある」
ミス・マーダはまじまじとフランの顔を覗き込む。
「まさかフランちゃん、ジルさまの恋人なの?」
まさか、という言葉に、ちょっとだけ、動揺する自分がいた。まさかフランのような地味で器量の良くない女が、妖精めいた美貌の公爵さまの婚約者だなんて誰も思いもしない。当然だ。
へら、とフランは笑ってみせる。
「恐れながら、婚約させていただいています」
「まあ……! ちょっとその話詳しく」
「マーダ、与太話はいいからドレスだ」
「あーもううるさいわね! わかったわよ、ちょっとまってなさい!」
ミス・マーダは噛み付くように吐き捨てると、どしどしと床を踏みしめ店の奥へと入っていく。
色鮮やかなドレスに囲まれているのに、どんどん景色が褪せていくような気がした。どんなドレスを身に着けても無駄なのかもしれない。華美に、豪奢に飾り付けても、結局フランはフラン以外の何物にもなれはしない。
「フラン、気になるものでもあったか?」
「……いえ」
「それならドレスはあいつに任せよう。フラン、こちらへ」
ぎゅうぎゅうに詰め込まれたドレスを掻い潜っていくと、お店の一角に少し雰囲気の違うスペースが現れた。
「ここには装飾類があまり置いてないんだが、一つもないよりはましだろう。どれか気に入るものはないか?」
並んでいるのは手触りの良さそうなリボンや、レースの付いた髪飾り、大きな宝石がついているわけではないけれど繊細に細工が施されたイヤリングやネックレスだ。そのどれもが輝いていて、愛らしいし、美しい。
どれも素敵だとは思う。けれど惹かれるものがないどころか、心は徐々に陰っていく。どれもこれもフランに似合うとは思えない。ただジルハルトさまが見ている手前、興味があるふりをして、指で一つずつなぞってみせる。
「あのなりだが、マーダは王家お抱えの仕立て屋だ。腕は良いから安心するといい」
「そんな方のドレスをわざわざ……申し訳ありません」
「なにが申し訳ないんだ。むしろ我が儘のひとつでも言ってみたらどうだ」
もし我が儘が許されるなら、フランの願いは唯一つだ。




