2 おはようございます
幾つか部屋を覗いてみると、幸運なことにベッドのある部屋を見つけた。
ただ長らく使われていなかったようで、空気を入れ替えるため窓を開けようにも錆びついてなかなか開かない有様である。
ベッドには黄ばんだシーツがかけられていたのでそれを剥ぎとり、強引に開けた窓(強引にやりすぎて立て付けが少々悪くなってしまったから後で公爵さまに謝ろうと思う)の外で振って埃をはらうと、シーツの端を割いて簡単なはたきと雑巾にした。
大掃除は明日に回すとして、せめてくしゃみをせず寝られるくらいにはベッド周りを清潔にしたい。そのためには、とフランは腕まくりをする。
まずはマットレスをはたきではたいて埃を浮かせた。それから、お屋敷の敷地内のどこかにきっと水汲み場があるはずだと探し回っていると、東の端に井戸を見つけることができた。そこから水を汲み出して、雑巾を浸して床を水拭き。
毛布は見当たらないので、夜は残ったシーツを体に巻きつけて暖を取ろう。少し肌寒いだろうが春先だし耐えられないこともないはずだ。なにより柔らかいベッドで眠れるだけ十二分に幸せだと、まだ少し埃のにおいのするマットレスで横になる。
カーテンすらない窓の外は、いつの間にか夕焼け色に染まっていた。
フランに去れと言ったあの男性。あれがきっとセレーネ公爵なのだろう。
本当に綺麗なひとだったな、と思い返してみながら、視界のすみに流れる自分の黒髪を一房つまんでみる。
セレーネ公爵の神秘的な銀色の髪と対極的な色をした自分の髪は、中途半端に伸びていて、ごわついて艶もない。髪の手入れなんて随分出来ていないから当然だ。
「……いいの。お母様の色だもの」
漆黒の髪は母から、空色の瞳は父から譲り受けた大切なもの。
フランは目を閉じて、手にとった髪に唇をつける。
ああ、それにしてもなんて静かで穏やかな世界なのだろう。
幽霊の気配はもちろん、叱りつける声も嘲笑もない。
セレーネ公爵に面と向かって婚約破棄を言い渡されるまでは、フランは公爵さまの婚約者であり、この屋敷に居座る権利があるはずだ。
その権利が潰えない限り、どんな目に合おうと屋敷を出ていくつもりはない。
(去れとは言われたけれど、婚約を解消するとはまだ言われていないもの)
揚げ足取りではなかろうかと自分の冷静な部分が突っ込んでいるけれど、知らんぷりを決め込む。
さあ明日は何をしようか。
とりあえず部屋を片付けて、それから……。
*****
かたん、という小さな物音が聴覚に引っかかり目を覚ます。
「あれ、わたし……」
暖を取ろうと思っていたシーツを抱きしめるようにしていつの間にか眠っていたらしい。寝ぼけ眼をこすりながらあたりがもう朝の光に満たされていることを確認して、
自分を見下ろす三人の人影に気がついた。
「………………おはようございます」
「……ああ」
状況が飲み込めないままそれだけ言うと、その神秘的な容貌の持ち主はやや面食らったような顔で頷いた。顔立ちが整っている人はどんな顔をしても絵になるなあ、なんてことをぼんやりと考えて、
「!?」
ベッドの上で、思わずのけぞってしまった。
「あれ、あの、もしかして、セレーネ公爵さま……!?」
昨日と変わらぬ美しさと気品をまとうセレーネ公爵は、右と左にそっくりな顔の侍従を従えている。左右の侍従で違うのは見事なまでの金髪を高く結い上げているか、短く刈っているかくらいのもので、人形のような表情のなさまでそっくり同じである。どうやら男女の双子のようだ。
微妙に掃除のされた部屋を見回しながら、セレーネ公爵は眉をひそめる。
「も、申し訳ございません! このような見苦しい格好で、たいへんな失礼を……!」
慌ててベッドを降り、床に額を擦り付けるようにして謝罪の意を示す。
あとは勝手に部屋を借りたこと、片付けたこと、それから少し窓を壊してしまったことを謝らなければ、と寝起きでうまく回らない頭で考える。
しかしセレーネ公爵が聞きたかったのはもっと別のことだったらしい。
「そんなことはどうでもいい。お前はなぜ昨日帰らなかった? 恐ろしくはなかったのか?」
「……なにが、でしょう?」
「私や悪霊の噂は聞いているだろう。屋敷に足を踏み入れたとき、おかしなものも見たはずだ」
不審な人影や女の声が聞こえたことを言っているのだとわかった。
それならばと、フランは用意していた言葉を返す。
「霊の類は怖くありません。公爵さまのお噂も伺っておりますが、もし公爵さまが望まれるのであれば、どのような行為も受け入れる覚悟で参りましたので」
公爵さまの噂を踏まえて、家を出るまでに何度も考えた台詞だったから、詰まらずにきちんと言えた。
義母や義姉につつかれたとき余裕を持って返事をするために考えた台詞を、まさか公爵さま本人に使うことになるとは思わなかったけれど。
「無残に殺されろと言われれば、それでも良いと?」
「はい。仰せのままに」
頭を下げたままだから顔は見えなかった。ただ。セレーネ公爵がまとう空気が、なんとなく不穏なものに変わった気がした。
「レヴィン、ナイフを」