18 初めての、
「お料理はお上手ですのに、どうして……」
呆然とレヴィンさんが呟くのも無理はない。眼前で、本来はクッキーになるはずだった”なにか”が黒く焦げて異臭を放っているのだから。
「わたしにもわかりません……」
型をとって綺麗に並べてオーブンに入れたはずの生地が、何をどうしたら焼け焦げ、ひとかたまりになって中央にどすんと鎮座することになるのか。
昔からそう、菓子になるとこうなのである。本来意図したものとは全く別の物体を生み出してしまう、フランの身に起こる唯一無二の怪奇現象。レイトラムの家で菓子を作れと命じられたことがなくて心底ほっとしている。こんなものをあの人達に出したらどんな目に合わされるかわかったものではない。
「今回は先生の腕が良いので、なんとかなるかなと思ったんですけど」
「い……いえ、私の教え方が悪かったのです。申し訳ありません」
絶対にレヴィンさんのせいではないのだが、彼は主人の婚約者に恥をかかすまいと律儀に謝罪する。その優しさがまた胸に痛い。
「なんだこの匂いは」
「ひっ……!」
なんというタイミングで現れるのかとフランは戦慄させたのは、怪訝な顔をして厨房に入ってくるセレーネ公爵である。
「お帰りでしたか。王子殿下との茶会はいかがでしたか」
「戻ったのはたった今だ。もう二度と会いたくない、あのくそ王子。いつか殺してやる」
「心中お察しいたします」
何やら物騒な言葉が飛び交っているが、とにもかくにもこの出来損ないが公爵さまの目を汚してしまう前になんとかしてしまおう。せっかく材料を使わせてもらったのだし、包んで今夜の晩御飯にでも……と、実際に食べられるかどうかはおいといて、包み紙になりそうなものを探してこそこそあたりを見回したのだけれど。
「それで、この焦げた物体はなんだ。すごい匂いだが」
「……これはその」
問われたレヴィンさんが言いよどむ。
公爵が不審げに指し示すのは、もちろんクッキーのなりそこないである。
証拠隠滅作戦、失敗。
腹をくくったフランは猛烈な勢いで頭を下げた。
「クッキーを作ろうとして失敗しました、申し訳ありません!」
「クッキー? これが?」
「……はい……」
信じられないとその目が物語っている。ああ、穴があったらこのなりそこないと一緒に入りたい。
フランの横から、セレーネ公爵がおもむろに手を伸ばした。
「だ、駄目です!」
慌ててその腕に追い縋るが遅かった。セレーネ公爵は迷いのない動作でなりそこないの欠片を摘むと、ひょいと口に放り込んだ。
ぼき、と、決してクッキーから発せられるべきではない音がした。
「公爵さま、大丈夫ですか」
「む、無理に飲み込まないでください! 出してもらって構いませんから!」
レヴィンさんは生死でも確認するかのような硬い声で安否を問う。
公爵さまが咀嚼するたび、石でも噛んでいるんじゃないかという凄まじい音がしていた。
フランの料理は公爵さまのお口に合わなかったみたいだから、公爵さまが好むというお茶菓子が作れるようになりたかった。レヴィンさんという先生もいるし、成功するのではという安易な考えだった。叶うならスコーンをかじっていたときの頭がお花畑な自分を叱りつけてやりたい。殴ってでも止めさせたい。
これで体調に障りが出たらどう責任を取ればいいのだろう。むしろフランごときで責任が取れるのだろうか。わからない。どうしよう。止めようとしたまま掴んでいた公爵さまの腕を、ぶるぶると握りしめる。
婚約者と侍従である人間たちに固唾をのんで見守られる中、ようやく口の中のものを飲み下したセレーネ公爵は、
ぷ、と吹き出した。
「お、お前……どうやったらこんな不味いものが作れるんだ」
本当に不味い、とくつくつ肩を震わせて笑うセレーネ公爵に、フランも、そしてレヴィンさんも固まる。
それはいつもの怜悧な、作り物みたいな美しさなどではなくて、ちゃんと熱を持ってそこに存在しているんだと実感が湧くような、人間らしい笑みで。
初めて見た。
笑っているところ。
「今度はうまく作れよ」
そしてぽんとひとつフランの頭を、優しく叩いたのか撫でたのかよくわからない仕草をして。
「ああ、そういえばレヴィン、橋の修理はどうなった」
「は……はい。別の商家に見積書を提出させましたが、納得の行く金額提示でしたのでそのまま着工するよう指示を出しております。ただやはり少し時間がかかるとのことで……」
硬直していたのはレヴィンさんも同じだったはずなのに、すぐさま切り替える様子はさすがである。何事もなかったかのように事務的な会話を始めた公爵さまとレヴィンさんの横で、フランはおっかなびっくり自分の頭に触れてみた。そこに特別な何かがあるわけではない。ただ公爵さまの触れた場所だと言うだけ。
すごく、嬉しかった。だから、ありがとうございます頑張りますと、笑って言えばよかったのに、できなかった。ただ言葉を失ってしまった。
なぜかと問われればまず、”今度は”と言ってもらえたことに驚いたのが大きな理由だと思う。次に、失敗を許してもらえた安心感も確かにあった。
でも、それだけではなかった。
きゅう、と胸の奥が変な音をたてて小さく痛んでいた。初めての感覚だった。
変な感じだ。
うまく息ができない。
「――ということだ、フラン」
急に名前を呼ばれて、フランは小動物のように飛び跳ねた。
「は、はい! なんでしょう!」
「なんだ、聞いていなかったのか」
「申し訳ありません……」
公爵さまは呆れたように、
「もう体は良いのだろう。今日こそドレスを買いに行こうと言ったんだ」




