15 婚約者ですから
目を開けたとき、まだ自分は夢の続きを見ているのだと思った。
極上のベッドに包まれて、極上の枕に頭を預けて、そして天使のような青年に見つめられていたのだから。
「目が覚めたか、フラン」
わずかに上ずった声で公爵さまが身を乗り出すと、彼の銀髪が儚く揺れる。綺麗だな、と見惚れてしまったせいで、フランは名前を呼ばれたことに一瞬気づけなかった。
フラン。彼の声が紡ぐ自分の名前に、なぜか聞き覚えがある気がして。
「あ――……」
そして、思い出す。
「わたし、公爵さまに助けていただいて」
セレーネ公爵が馬車の窓から指輪を投げ捨てた。それを追いかけて、街を探し回って、見つけたと思ったら怖い人に目をつけられて……。
「公爵さま! お怪我はありませんでしたか!」
今度はフランが身を乗り出す番だった。と同時に全身が悲鳴を上げて、咄嗟に顔を歪めそうになったがなんとか表情を取り繕う。
殴られたあとから意識が朧げになってしまって、よくは覚えていないのだけれど、公爵さまが来てくれたことだけは確かだ。そしてその時、名前を呼んで頂いた、気がする。
「どう見ても怪我してるのはお前だろう」
そんな呆れ顔すら美しい。そんな美しい人に、抱きしめるみたいにして、フランと。呼んでもらった気がするのは本当に、現実なのだろうか?
ノックの音が響いた。入ってきたのはトレイを手にしたレーヴェさんである。起き上がっているフランを視認した彼女は目を瞠った後、微かに微笑んで、
「目を覚まされたのですね。安心しました」
痛み止めをどうぞと、水の入ったコップと粉薬を差し出してくれる。
「それから、いい加減呼び方を改めろ。お前は私の名前も知らずに婚約したのか?」
「もちろん存じ上げています、セレーネ公爵さまです」
背中をレーヴェさんに支えてもらいながら渡されるままに水と薬を口に含んで、
「そうじゃない。ジルハルトと呼べと言っている」
あわや、飲み下す前に盛大に噴射しかけた。
「ごほ、げほっ……な、なん……!?」
僅かに残った男爵家令嬢としての矜持がなんとか薬を喉の奥へと追いやったけれど、代わりに激しく咳き込んでしまった。苦しい。痛い。レーヴェさんが背中をさすってくれる。優しい。
涙目で公爵さまを見やれば、冗談を言っているような顔ではなかった。
わたしが、公爵さまのことを、名前で呼ぶ?
ジルハルトさま、と?
それはあまりにも、
「不敬ではありませんか……?」
至極真面目に問うたつもりだったのだが、公爵さまは呆けた顔をした。
「お前の家では婚約者の名前を呼ぶと不敬になるのか?」
「婚約者、ですか……」
「そうだ。フラン・レイトラム、お前は私の婚約者だろう」
「……そうでした」
「本当に大丈夫か。頭を強く打っていたりするんじゃないか」
そうかもしれない。それでこんな都合の良い幻覚が見えているのかもしれない。
フランのことを婚約者だと、公爵さまの口から認めてもらえたことが信じられなくて頭がくらくらした。名前を呼ばれあたたかな体温に包まれた記憶も、今の会話も、全部頭を打った後遺症でありもしない光景が見えているのだとしたら納得がいく。
レーヴェさんがゆっくりとフランの体をベッドに横たえてくれる。とてもありがたかった。なんだがひどく疲れた気がする。さざ波のような眠気が迫ってきているのを感じていた。
それに気づいたのであろう公爵さまは立ち上がり、少し出てくると言い残し部屋を後にしようとする。
「この話は次の機会にしよう。とにかく、良くなるまで安静にしていろ。レーヴェ、しっかり見張っていろよ」
「心得ております」
「あ。あの、そういえばここはどちらのお部屋ですか?」
「私の部屋だ。遠慮なく使えばいい」
ジルハルトさまの一言は、さながら突風のごとくフランの眠気を吹き飛ばしていった。ぎょっとして下ろしたばかりの頭を枕から引き剥がす。
つまりこのふかふかの枕も羽毛布団も、全て昨日まで公爵さまが使っていたもの、ということだ。言われてみればなんだか良い香りが――ではなくて。
「そんなの無理です!」
「構わないと私が言っている」
悲鳴のように叫んでベッドから転げ出ようとするフランだったが、レーヴェさんに優しく、しかし有無を言わさぬ手付きでベッドへと押し戻される。体調が万全であったならもう少し格闘できたはずだが、フランの体であるはずのどこもかしこもが、少し動こうとするだけで軋んで痛んでじっとしていろと叱りつけてきてはどうしようもなかった。
ぱたん、とドアが閉まる。公爵さまが出て行ってしまった部屋の中で、楚々として横に控えているレーヴェさんに、上目遣いに問いかけてみる。
「本当に良いのでしょうか……」
「無論です」
そう言って彼女は顔色ひとつ変えずに頷いてくれるけれど、高貴な方のベッドを占領しているのだ、肩身が狭くないわけがない。
公爵さまはどこで眠っているのだろう。ただでさえこのお屋敷にはすぐに使えるような客室なんてないのに、他に使えるベッドなんてあるのだろうか。ああ、こんなことならもっと色んな部屋を掃除しておくんだった。
「あ、レーヴェさん、立ってなくて良いんですからね。座って楽にしたり、なにかすることがあるなら、離れてくださって、だいじょう、ぶ……」
薬の効果だろうか、まぶたが鉛のように重い。
くす、とレーヴェさんが笑った気がするけれど、もしかしたら幻聴だったかもしれない。それくらい、夢と現の境界線が曖昧に溶けていく。
「ありがとうございます、フランさま。ゆっくりとお休みください」
まるで母のように優しい手がフランの前髪を遠慮がちに梳いてくれたところで、意識は完全に途切れた。




