14 その体に残るのは
すぐにフランを連れ帰り、レーヴェに介抱させた。
馬車に乗り込む頃にはフランは意識を失っていて、正直ひどく、焦った。
フランが自分で片付けたとはいえかろうじてベッドがある程度の部屋に怪我人を運び込むわけにも行かないから、選んだのはジルハルトの寝室だ。
続き間になっている応接室で、ジルハルトはソファに浅く腰掛け指を組む。
「ジルハルトさま、温かい紅茶です」
「今はいい」
「ですが……」
「大丈夫だ」
レヴィンの心遣いは嬉しいが、喉を通る気がしなかった。
レーヴェの医術は相当なものだ。彼女に任せていれば万に一つもない。彼女に寄せる信用は確かなものなのに、焦慮の念は拭えなかった。
ようやく寝室からレーヴェが出てきたとき、ジルハルトは弾かれたように立ち上がっていた。
そんな珍しく焦りを見せる主人に驚く様子もなく、落ち着き払ったレーヴェはジルハルトに頷く。
「命に別状はございません。今後、残りそうな傷もありませんでした」
「……そうか」
――よかった、と続けそうになって飲み込んだ。あまりにも柄ではない台詞だ。背凭れになだれかかれるように、深くソファに腰掛けて大きく息を吐く。
レーヴェが手にしているタオルは斑に赤い。それを染めたのはあの少女の血なのだろうと思うと胸が痛んだ。消毒液の匂いが鼻をつく。
それでも、これでやっと眠れる。そう胸を撫で下ろすジルハルトに向け、レーヴェがおもむろに口を開いた。
「ただ、怪我をされたのは今日だけではありませんでした」
ジルハルトは首を傾げた。それはこの屋敷内で転んだり怪我をしたということだろうか。それは、そんなに物々しい表情でジルハルトに告げなければならない事案なのだろうか。
「見えない場所にばかり、治りかけの打撲痕や擦過傷が幾つもありました。偶発的な事故のせいと言うには数が多すぎます。おそらく、ここに来る前に出来たものかと」
緊張がとけたばかりの身体に、頭から冷水を浴びせられたような思いがした。
秒針の音を幾つ数えたかわからない。長いこと、ジルハルトは息を止めていた。
「つまり……日常的に暴力を振るわれていたのではないかと、そう言いたいのか」
ようやく絞り出した結論に、レーヴェは何も言わなかった。ただ静かに首肯した。背後でレヴィンが息を呑んだのが分かった。
ああそうか。
フランがなぜ頑なにこの屋敷に居座ろうとしたのか。抱き上げた体がどうしてあんなに貧相で軽かったのか。急に何もかもが腑に落ちた。
「……レヴィン、レイトラム家について詳しく調べろ」
「はい」
「レーヴェ、今日はここで寝る。毛布だけ用意してくれ」
「かしこまりました」
フランの身になにがあったのか気にならないと言えば嘘になる。しかし考えをまとめようにも、重い疲労が頭に靄をかけていた。
適切な裁量に必要なのは正確な情報と理論的な思考回路だ。そのどちらもが決定的に足りていない今、自分に出来るのはとにかく眠ることだとジルハルトは判断する。思索するのはレヴィンの報告を待ってからでも遅くはない。少なくともこの屋敷にいる限り、フランを害する人間はいないのだから。
まさか怪我人の横で寝るわけにも行かないから、ブーツを脱いでソファの上で横になり、レーヴェが運んできた毛布を適当にかける。
双子の侍従は下がらせた。燭台の炎を消して夜の帳が降りた部屋の中、ジルハルトはポケットから指輪を取り出して月明かりに翳してみた。フランが見つけ出した母の形見の指輪である。
儚い光を強欲なまでに取り込んで、自分が一番だと言わんばかりに輝こうとするダイヤモンドはまるで母そのものだ。
母の最期を今も覚えている。忘れられるわけがない、残酷で真っ赤な記憶。
血塗れの母の華奢な指がこの首に食い込む感触は、十二年を経た今でもジルハルトの肌に残っている。
それでも。ジルハルトは手のひらに指輪を握り込む。
それでも、この指輪が戻ってきたことに、失われなかったことに、ほっとしている自分がいた。
フランはよく眠れているだろうか。まだたった16歳の、痩せぽっちで、器量が良いわけでもない、けれど確かにジルハルトの婚約者であるあの少女は。
良い夢を見てくれなんて贅沢なことは言わないから、ただ滾々と、深く眠れれば良い。
そして、はやく元気になると良い。
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