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曰く付き公爵は婚約者の涙を愛す  作者: 朔間 はる子
13/37

13 君の名前※

流血、暴力表現があります。


 一呼吸の間に男との距離を詰めていた。気配に気づき何事かと振り返ろうとしてももう遅い。

 立ち上がろうと中腰になっていた男の腹に右の拳をめり込ませそのまま背後の壁に叩きつけた。肋骨が何本か折れる感覚が拳を通じて伝わってきたがとりたてて感情は浮かばない――しいて言うならざまあみろ、といったところか。男が自分の身に何が起こったのか理解するよりはやく、くの字に折れようとするその肩を抑え今度は膝を入れた。手を離せば支えを失った男の体がバランスを崩し顔から地面に倒れ込む。

 一瞬のうちに仲間がぴくりとも動かなくなるのを見て、もうひとりの男はひいだかなんだか喚き立てて尻もちをついた。


「な、なんだよ、なんなんだよお!」


 情けなく後ずさろうとしていた男に向けて一歩踏み出すだけで、そいつは短い悲鳴を上げた。そして弾かれたように男が走り出す――と思った次の瞬間には、足をもつれさせて数歩も行かない場所で転倒していた。腰が抜けて足が立たないのか、半泣きでこちらを仰ぎながら、それでもずりずりと這って距離を取ろうとする。

 あまりにも小胆なその姿にジルハルトは思わず笑ってしまいそうになった。笑ってしまいそうなくらい、不愉快を極めた。

 圧倒的な強者の前では自尊心など溝に捨て、喜んでひれ伏し靴を舐めるような矮小な人間ほど、自分より弱いものを探すのだ。そうして玩具のように弄び、暴力で服従させ、日頃の鬱憤を晴らそうとする。

 虫にすら劣る、塵のような人間。その膝裏を力任せに踏み抜いた。


「――――ッ!」


 声にならない声が木霊する。確実に骨は折れただろう。折るつもりでやった。手加減などない。さらにぐり、と靴底で追い打ちをかけると、痛みが許容範囲を超えたのか、男はあわを吹いてあっさりと気を失った。こんなものでは手ぬるいにも程がある。あと何発か殴ってやらなければ気が済まない。そう思って糸が切れた人形のように倒れている襟首を掴みかけて、唇を噛む。

 腸は未だ煮えくり返っている。おさまらない。だが、今は優先すべきことがあった。

 どちらの男も死んではいない。ただしばらく日常生活には支障をきたすだろう。今はそれで納得することにする。


「おい、大丈夫か。しっかりしろ」


 倒れた少女に駆け寄り、慎重に助け起こした。

 朝にレーヴェに付けてもらったはずの髪飾りはどこかで落としたのだろう、肩の上で遊ぶほどの長さしかない黒髪がはらりと少女の頬を滑る。

 青白いまぶたがひどく緩慢な動きで持ち上げられて、その瞳がジルハルトを捉えた。そして大きく見開かれる。


「こうしゃく、さま。どうしてここ、に」

「探しに来た。もう大丈夫だ。すぐに手当してやる」


 端的に返しながら、とにかく、意識があることにほっとした。

 僅かでも身体が動くたび喉の奥で呻き声を殺しているのを鑑みると、殴られたのは顔だけではないようだ。こめかみから血が流れているのは地面に打ち付けたのか。頭を打った可能性もある。細心の注意を払って運ばねばならない。


「すみません、わたし、ゆびわ、さがして。みつけたん、ですけど、おとこのひとに、とられそうに、なって」

「喋らなくていい」

「にげ、たんですけど、とろくて、つかまって、しまって」

「喋るな、頼むから」


 ジルハルトの懇願が聞こえているのかいないのか、熱に浮かされたような目で少女が続ける。途切れ途切れに紡がれる声は今にも消え入ってしまいそうだった。舌がもつれているのは口の中も切っているのだろうか。あの男たち、やはりもっと痛めつけておくべきだった。憎悪と後悔を綯い交ぜにしながら、ジルハルトは少女の唇の端に滲む血を手の甲で拭ってやる。触れた肌は冷たかった。

 とにかくレーヴェのところまで戻らなければと少女の体を抱き上げようとして、その袖を弱々しい力が引いた。


「でも、とられ、ませんでした、これ」


 そう言って少女は固く閉じた手のひらをゆっくりと開いた。

 そこにあったのは、指輪。


 ジルハルトの母の形見の、指輪。


「たいせつ、なもの、でしょう」


 そして少女は笑った。

 身動きも取れないほど体が痛んでいるくせに。

 呼吸に乗せるようにして辛うじて喋っているくせに。

 それでも、自分の怪我なんてまるで知らないと言うように。

 ジルハルトを、安心させるように。


「――……っ」


 少女の身体の痛みも無視して掻き抱いたのは無意識だった。

 こんなに細かったのか。こんなに軽かったのか。遠目に見ていただけでは気づかなかった。

 こんなに折れそうな体で、ジルハルトが必要ないと切り捨てた、そんな指輪を守ったのか。

 ジルハルトにとってどんな価値があるかも知らないくせに。


「お前は馬鹿だ」

「すみ、ません」

「本当に、馬鹿だ。――フラン」


 はっと、腕の中の小さな少女が息を呑んだのがわかった。

 口の中でもう一度、その名を呼ぶ。

 フラン。


「……はい、こうしゃく、さま」


 さらさらと、耳に少女の――フランの髪が、声が触れる。

 柔らかく流れるような、甘やかな。

 その声で、彼女が嬉しそうに微笑んだのがわかった。



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