11 忘れ物
「ジルハルトさま、よろしいのですか」
焦りを滲ませた声でレヴィンが問いかけてくる。
急に空虚になったように感じる馬車の中で、ジルハルトは額を抑えて大きく息を吐きだした。
「帰る」
「よろしいのですか? フランさまは……」
「レヴィン」
二度は言わない。
静かに名を呼ぶだけで、ジルハルトの侍従は主人の言いたいことを正確に理解する。
「……かしこまりました」
しかしその僅かな間が、視線が、ジルハルトになにか伝えたいことがあると物語っている。
そのことに今だけは、吐気がするほど嫌悪した。
見つかるわけがない。
どこかの溝にでも落ちて海まで運ばれているかもしれないし、すでに誰かの懐に入っているかもしれない。馬車に踏まれてひしゃげた可能性だってある。
おびただしい人間が行き交う街中に放り投げた指輪を見つけるなど、砂漠に落ちた一粒の宝石を探し当てるのと同じくらい不可能だ。
だから、日が暮れれば諦めて帰ってくると思っていた。
ジルハルトが切り捨てたものを拾い上げようとした罰のつもりだった。
けれど実際に日が暮れて、夕食も湯浴みも終えるような時間になってなお、少女は帰ってこなかった。
「ジルハルトさま」
背後からレーヴェの声がした。この双子は気配を消すのに長けているから、声を発するまで近くにいるのに気づけない。
「さすがに遅すぎるのでは」
誰が、とは言わなくともわかる。
「どうせ逃げ出したんだろう。ようやくだ」
は、と短く笑って見せれば、レーヴェはなにか言いたげに沈黙した。
姉弟揃ってこれだ、とジルハルトは奥歯を噛みしめる。
気にかけてやる必要などない。逃げ出したんだ。そうに決まっている。他の婚約者だった女たちと同じでついにジルハルトに嫌気がさしたのだろう。今回は少し時間がかかったが、ようやくお払い箱にできたのだ。清々する。
――そう思いたいのに。
あの少女はきっと逃げ出したりしないと、心のどこかで確信している自分がいる。
この先、例え何度ジルハルトに嫌味を言われ脅されても、きっとへらりと笑って頭を下げて、そして何事もなかったかのようにまた屋敷の中を走り回るのだ。そのくせ何も望まず、二人になれば萎縮して肩を小さくして俯いているのだ。
意味がわからない。不可解だ。
なぜそうまでしてヘレーネの家にこだわる?
フランの資料に描かれていたのは、父がいないこと、兄と姉がいること、レイトラム家の財政状況が傾きかけていること、その程度だった。確かに家は苦しいのだろう。だが死に物狂いで公爵家の財産を当てにしなければ明日にも路頭に迷ってしまうほどの惨状でもないはずだった。
目を瞑ると、瞼の裏に小さな指輪の光が瞬く。
共に浮かんでくるのは、今はもういない、自分と瓜二つの忌々しい女の顔。
大嫌いだ。いや、もっとだ。恨んでいる。もしまだ生きているのならこの手で殺してしまいたい。それくらい憎悪しているのに。
馬車の中で、少女に見せられた指輪があの女の持ち物だと一目で分かった。
あの瞬間、なぜかジルハルトは刹那――泣きそうになったのだ。
忘れ去ろうとした。けれど捨てきれずに屋敷の隅に追いやったあの女の肖像画も、今なら心ひとつ動かさずに眺められると、もうあの女を思い出してもどこも痛まないと思っていた。
それなのに。
――不必要だと言うのなら、なぜそんな……辛そうな顔をするんですか?
まるでジルハルトよりもよっぽど傷ついたような、苦しそうな顔をして、少女は問うた。
そんなみっともない顔、私がするわけがない。そう鼻で笑い飛ばしたかったのにできなかった。ただ駆け出していく少女を見送った。
(情けない)
本当に探しに行くべきは、ジルハルトなのに。
がたんと椅子を鳴らして、立ち上がった。
「……忘れ物をした」
「はい」
「馬車の用意を」
「できております」
こうなると分かっていたとしか思えない即答である。
ジルハルトは舌打ちで、ばつの悪さを誤魔化した。




