10 そんな顔をしないで
「……申し訳、ありません」
仮にも公爵家の婚約者という立場にある人間が、ドレスの一着も持っていないなど言語道断、あまりにもみっともない。体面を保つためにも、最低限のドレスを公爵さまが買ってくださると、そういうことなのだろう。セレーネの名を汚さないように。
申し訳ありませんともう一度呟いて、フランはうなだれた。
その資料とやらにはどこまで書かれているのだろうか。レイトラム家がひどい財政難にあえいでいることを知ってしまったのだとしたら、公爵家には家柄が相応しく無いと、婚約の話自体なかったことにされてしまうかもしれない。
(それは嫌だ)
――もうあの家には帰りたくない。
「まあ、物狂いの公爵家に娘をやるような親だ、まともでなくて当然か。装飾類ならいざ知らず、普段着すら使い古しを持たせるくらいだ」
俯くフランの聴覚の表面を、つまらなさそうな公爵さまの声が滑っていく。
フランにお金をかけたくなかったのだろうけれど、それが公爵家に対する非礼に繋がるとは、レイトラムの家の者たちはこれっぽっちも考えはしなかったのだろう。
本来なら色とりどりのドレスや宝石、そしてたくさんの侍従を持て余しているような美しい令嬢が公爵さまと婚約しているはずなのに、フランはその内の何一つ持っていない。呆れられて当然だ――
宝石。
頭に浮かんだその言葉で、フランは昨日見つけた指輪の存在を思い出していた。
今がふさわしいタイミングとも思えないが、あんなに大きなダイヤモンドの指輪をずっと持っているのは気が引けた。盗みを働いているようで落ち着かない。
「あの、公爵さま、これ」
胸元に忍ばせていたハンカチはレーヴェさんに借りたものだ。それを解くと中から銀色の光が現れる。
訝しげな顔でフランの手のひらに視線を落としたセレーネ公爵の顔色が、変わった。
すう、と温度が下がるように。
冷えるように。
凍るように。
射殺すような、眼光を。
「……どこで見つけた」
決して指輪には触れず、絞り出したのは聞いたこともないような低い声。
その呪詛のような音声に、知らずびくりと肩が跳ねる。
「しょ、肖像画のあるお部屋に、落ちていました。とても高価なものに見えたので、お渡ししようと……」
肖像画、という言葉に公爵さまのまぶたが一度だけ震えた。
公爵さまはしばらく動かなかった。動けずにいた、のかもしれない。
何か大きな感情を、こらえて、飲み込もうとしているようにフランには見えた。
まばたきを忘れた公爵さまの眼差しが、一瞬陰った。
そう思った次の瞬間、指輪は窓の外に投げ捨てられていて。
息を呑んだときにはもう遅かった。
「まって――!」
咄嗟に窓から身を乗り出すと風に煽られた髪が視界を遮った。すぐさまばたつくそれを横に流して抑えつけるけれど小さな指輪の光はもうどこにもない。せめて落ちた場所だけでもと思うのに景色はあっという間にフランを置き去りにしていく。
「公爵さま、どうしてっ……!」
「あれは、不必要なものだ」
公爵さまは前を見据えたまま動かない。ただやはり何かに耐えるように厳しい眼差しをしているだけ。
あの指輪が誰のものなのか、どういうものなのか、フランにはわからない。知りようもない。だからフランにとって、今フランの目に見えるものが全てだ。
「不必要だと言うのなら、なぜそんな……辛そうな顔をするんですか?」
セレーネ公爵は答えなかった。
本当に自分に要らないものを手放したと言うのであれば、もっと胸がすいたような顔をしてくれないとおかしいではないか。
そんな、どこかが傷んでいるような表情をされては――納得ができないではないか。
曰く付きの公爵さまの、曰く付きの指輪。
ただ放り捨ててしまうにはあまりにも、きっと良くも悪くも意味のある指輪。
馬車の速度が落ちる。もうすぐ目的地に到着するらしい。
「公爵さま、着きました」
馬車が停まり、レヴィンさんが扉を開けて降りやすいようにとフランに手を差し伸べてくれる。
その手をはねのけるようにして、フランは馬車を飛び出した。
「フランさま!」
レヴィンさんの慌てた声なんて初めて聞いた――そんなふうに驚く余裕などなく。
フランは街を駆け出していた。




