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曰く付き公爵は婚約者の涙を愛す  作者: 朔間 はる子
1/37

1 婚約者は曰く付き


 それはそれは立派なお屋敷を、フランは見上げて立っていた。

 自分だってそれなりに裕福な貴族の家に生まれ落ちたはずなのだが、相手が公爵家ともなると、お屋敷の大きさも、庭の広さも、無駄に凝った装飾も、やはり格が違う。ぜんぜん違う。自然と緊張で喉が鳴る。


「これを鳴らせば良いの……かしら」


 大きな玄関扉の横には呼び鈴がぶら下がっている。その吊り紐を引っ張る前に、フランは胸に手を当て、ひとつ深呼吸をした。大丈夫。きっとやれる。そう自分に言い聞かせた。


 このお屋敷の主がどんなに物狂いだと噂されていたとしても。

 何があっても逃げ出すつもりなんて、なかった。



*****



 家計が火の車なのは知っていた。以前はあんなにいた使用人がいつのまにか半数まで減っていたし、このお屋敷で開くお茶会も夜会も回数がずいぶん減った。避暑用の別荘も今年は行かなかったから、たぶん売り払ったのだろう。

 だから、お義母さまたちがその巨額な財産目当てに公爵家と繋がりを持とうとしたのは、当然の成り行きだったと言える。


「あんたも知ってるでしょう、セレーネ公爵さま。あそこが今、婚約者を探してるそうでね、あんたみたいな木偶でも良いって言ってくださったの。こんな良いお話二度とないわ」

「セレーネ公爵といえば、女性を大層”大切に”されると噂の方よ。せいぜい愛されておいでなさいな」


 そう告げられたのは、フランが16歳になってすぐのことだ。

 義母と義姉がにたにたと笑い合うこの光景から解放されるなら何でも良かったから、フランは二つ返事で婚約を承諾した。

 たとえセレーネ公爵が、女性をいたぶり飼い殺す趣味をお持ちで、彼のお屋敷では殺された女性たちの怨霊が今も彷徨っている――などとまことしやかに噂される御仁だったとしても、フランは構わなかった。それでどんな非道な目にあっても、いつか殺されてしまうのだとしても、この家で生き続けるよりよっぽど良い。本気でそう思った。


「間違っても婚約破棄などされないようにな」


 部屋の隅で本のページを繰っていた義兄が顔もあげず、興味なさげにつぶやく。


「はい、もちろんですお義兄さま」


 刺激しないよう粛々と頭を下げ、薄い笑みを唇に刷いて失礼しますと部屋を出る。

 その間際、


「ほんと、あんたの笑顔って気持ち悪い」


 そう義姉が忌々しげに吐き捨てたのには、聞こえないふりをして。



*****



 荷物は少なかった。そもそもフランの持ち物があまりなかった。

 下着が二枚、普段着が二枚、そして外出用のドレスが一枚。靴はもとより普段履いている一足だけだし、装飾品も持っていない。化粧道具もない。

 だから婚約が正式に決まった翌朝には、付き添いもない身軽な姿で公爵家のお屋敷の前に立っていた。

 フラン自身はとても助かったけれど、化粧一つしていない状態で、公爵様に失礼だと思われないだろうかと心配になったりもした。しかし義母たちも特に何も言わなかったし、構わないのだろうと思い直す。

 なんせ相手は女をいたぶるのがお好きだともっぱら噂の公爵さまだ。婚約者として名乗り出る者が少なすぎて、婚約相手に求める条件がどえらく引き下げられていたのかもしれない。例えば、もはや性別が女ならそれで良いとか。それならフランでも構わなかった理由としても非常に納得ができるというものだ。


 意を決し、フランは呼び鈴に手をかけた。甲高い澄んだ音が響き渡る。

 しかし鈴の音の余韻が消え去ってしばらく経ってもなお、扉の向こうはうんともすんとも言わなかった。


 首を傾げもう一度、さっきよりも心持ち大きめに呼び鈴を鳴らしてみた。

 しかし結果は同じだ。反応がない。

 こんな広いお屋敷だし、きっとすごい数の使用人がいるはずだ。それなのに誰一人として気づく者がいないなんて、そんなことあるのだろうか……?


「もしかして歓迎されてない、のかしら」


 あえて無視をされている可能性が正直、一番有り得そうではある。


「いえでも、婚約者を探していたのは公爵様のはず……」


 考えていても仕方ない。フランは気合を入れ直し、お屋敷の扉に手をかけた。

 誰も出てこないのなら、不在なのかどうかだけでも確認したい。それなら誰かが帰ってくるまでいつまででも外で待つつもりだ。

 フランは屋敷の中に恐る恐る足を踏み入れる。


 お屋敷の中の空気は、ひんやりと冷たかった。


 ぞく、と背筋に悪寒が走る。

 まだ春のはずだ。それなのにこの空気の冷たさは一体どういうことだろう。

 昼間なのになんとなく薄暗いし埃っぽい。そしてなにより人の気配がまるでない。


「す、すみません……」


 ためらいがちにかけてみた声は、広い玄関ホールに小さく反響してすぐに消えてしまった。

 視界の端で何かが動いたのはそのときである。


「!?」


 一階の端、柱の陰に一瞬だけ黒い影が見えた。

 小柄な女性、のような、なにか、だった気がする。

 肩をこわばらせてそちらを凝視していたら、今度は二階の窓を何かが横切る。


 ――くすくすくす……。


 どこからともなく聞こえてくる、女性がさえずるように笑う声。

 それに被せるように、男性の声が響いた。


「去れ」


 いつの間にそこにいたのだろう。玄関ホールの正面に、すらりと背の高い男性が立っていた。

 この世のものではないと言われても信じてしまうほど、綺麗な男の人が。

 月の光を溶かしたような銀髪はきらきらと輝いて見えた。深い深い紫紺の双眸は最高級の紫水晶をそのままはめ込んだかの如く鮮やかで、そして研がれたばかりの刃のような、鋭い光をたたえている。

 氷の妖精が人の形をとったならこんな姿になるのかもしれない、なんて、御伽話を読むような年齢でもないのに考えてしまうくらい、人間離れした美しさ。

 こんなに顔立ちの整った男性を見たのは生まれてはじめてだった。


「痛い目にあいたくないなら去れ」


 凛とした声で繰り返すなり、彼は踵を返す。

 あまりの美貌に目を奪われていたフランははっと我に返った。


「お、お待ち下さい!」


 追いかけようとするけれど、まるで影に溶けるように彼は屋敷の奥に消えていく。

 女性の笑い声はいつの間にか聞こえなくなっていた。


「……どうしよう」


 途方に暮れ、フランはあたりをもう一度見回す。

 薄暗い玄関ホールにもう人の気配はない。ただ汚れた窓から、外の光が淡く射し込むだけ。


 ひとまずこのお屋敷で、

 今夜寝れるような部屋でも探そうか。



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