2―4 目覚める“刻”
“刻”とは悪魔が持つ特異な力の総称である。
魔王であれば潜在的に誰しもが持つ力であり、逆に言えば“刻”を持っていること自体が魔王の証明でもある。発現する能力は個人によって異なるが、基本的にはどれもこの世の理を超越した事象を起こす。
例えば“獄土”随一の鍛冶屋であるミズナの“刻”は〈変換〉。ある物質を自分が理解した同系統の物質――金属ならば金属、結晶ならば結晶など――に作り変えることができる“刻”だ。これによりミズナは武器の素材を理解した上で、鍛冶屋としての経験と才で寸分の狂いなく剣の成型をこなす。修復もまた同様に。
そして、青年の“刻”は――
「“刻”――〈闇夜〉」
青年が“刻”を行使すると同時、甲の紋様から瘴気が溢れだした。液体のような不自然な粘性を持った気体がその黒い短剣の刀身を覆う。
「〈凶化刃〉」
完全に闇が刀身を覆いつくし硬化する。瘴気は途端に黒光りする金属のように姿を変えた。
完成したのは紙一枚以下の薄さの闇を纏った短剣。その鋭さは微塵も失われていない――どころかむしろより鋭利になったようにすら思える。それにして強度は以前の数倍にまで高まった。
青年の“刻”である〈闇夜〉は瘴気を生み出し自由に操る力だ。硬化、軟化だけではなく思う形に造形することができる。
「……楽しミ」
青年の力を本能的に悟ったのか、〈牙〉は歪に口の端を歪ませたあとに姿を消した。
現れたのは青年の目の前。鋭い突きは一切動揺のない青年の短剣に逸らされ血を流させることはできなかった。今度は恐ろしい速さで短剣を引き戻した青年は〈牙〉の突きからほぼ間を置かずに腹を薙ぐが、〈牙〉もまたそれに反応し飛び退る。
「己れよりは遅イ。まだまだ足りなイ」
景色が高速で前に流れる中、〈牙〉は青年を挑発する。確かに青年は並の勇者や魔王とは段違いに速いが〈牙〉とはよくても互角、あるいはそれ以下だ。集中してさえいれば十分に反応できる。フードの奥の顔を想像しながら青年の動きを感知する〈牙〉だったが。
「……そうか。ならもう少し見せてやるよ」
――青年の姿が〈牙〉の視界から完全に消えた。
「……!? おアッ!」
瞬間的に青年を見失った〈牙〉。その認識外から青年が〈牙〉の左肩口を斬った。
切断には至らないが肩の骨までは届く一撃。赤い血液が宙を染め、たまらず〈牙〉も声をあげた。
――止まれば死ヌ。刹那、そう判断した〈牙〉は肩口の激痛に逆らって反転し独楽のように体を回転させて青年の首を刈った。
轟音が森に響き渡る。
「……そんなものか?」
闇を纏う短剣にて〈牙〉の腕を受け止めた青年は明確な挑発の意味を込めて問うた。
「――ああアッ!」
神経を逆撫でされた〈牙〉は咆哮し腕にさらなる力を込める。相反する力はやがて限界を迎え、青年と〈牙〉は互いに弾かれるように後ろに飛んだ。
両者は共に着地。そして一瞬の静寂の後、同時に地を蹴った。
轟くのは連続する剣と剣の衝突音。木々をかわしながら高速で移動する一人と一体が剣戟を繰り広げているのだ。並の勇者や魔王には捉えられない速度で、一度も途切れることなく硬質な音が響く。
――しかしやがて。
「ぐウッ……おあアッ……!」
鮮血が宙を赤く染め始める。量は決して多くない。だが木々や地面に飛散するその赤さが青年と〈牙〉の実力の差を明確に表していた。
「がハ……ッ」
短くはない剣戟の末ついに地に膝をついたのは〈牙〉。その体にはいたるところに血を滲ませる傷が刻まれている。
対してそれを見下すように立つ青年のコートに傷は一つもない。〈牙〉の高速かつ複雑な攻撃を完全に避けてみせたのだ。その上で〈牙〉に確かな傷を残したのである。
苦悶の表情を浮かべ青年を見上げる〈牙〉。薄暗い森でかすかな木漏れ日の光が暴く青年の瞳の輝きはどこまでも冥く、どこにも慈悲という感情は持ち合わせていないようだった。
青年は塵芥を見るようなその瞳のまま言った。
「期待外れだ。これなら勇者の雑兵相手でも大して殺せはしないか……」
「……なニ?」
聞き逃せない言葉に〈牙〉が反応する。しかし青年は多く語らず、〈牙〉への興味も完全に失ったようだった。
「ここで死ぬお前には関係ない。さっさとこの世から失せろ」
黒光りする短剣。青年の殺意を体言するような不気味な剣には表情はなくとも戦く〈牙〉の顔が映っていた。
「…………ぁア」
そんな自分自身を見て〈牙〉は思い出す。この体を持つ意味と自負を。
〈牙〉にとってこんなところで死ぬということはありえないのだ。まだ何も果たしていない。たかが一人の魔王に負けるなどあってはならない。
ゆっくりと〈牙〉は立ち上がった。
「……あ、ア、アァア……」
「……?」
小枝を踏み折るような音とともに〈牙〉の体が変質する。それこそが〈牙〉の、“真駆”の本来の姿。全身の肌の光沢が増し、腕にいたっては黒い斑点の浮き上がった奇怪な見た目へとその姿を変えていた。
「こおォ……」
口からはまさしく長い牙が飛び出し発音が不明瞭になっている。そもそも言語を扱う知能を失ったのか、意味のある単語を話すことはなかった。漏れ出るのは無意味な呻きだけ。
「……なるほど。〈真化〉か」
青年が思い当たった答えがまさしく〈牙〉の変化を表していた。
“真駆”はもとより非凡な力を持つ種であるが、真に脅威なのはその全力を解放したときにもたらされる〈真化〉という状態。詳しい原理は一切不明の“真駆”の真の姿である。制限が外れた“真駆”は全てを破壊する獣となり、これまでにも多くの被害が出ていた。
青年の前に立つのはまさしく〈真化〉を遂げた〈牙〉。その潜在能力がはたしてどれほどなのか、青年が見定めようとしたときだった。
スパッ、と青年の頬をかすめた何かがフードの裾を裂いた。
「……!」
辛うじて青年が首を捻り回避したのは〈牙〉の右腕。明らかに射程外だったはずが、一瞬で腕が伸びたのだ。
「ァぁアあア!」
ぐん、と一瞬で青年の懐に潜り込んだ〈牙〉。唾液を吐き散らす口から不快な叫びをあげると左腕までもが剣と化し青年の腹を狙う。
「……! チッ」
瞬間的に後ろに飛んだ青年は己の失策に気付く。さっきまでであればこれで回避できるはずだったが――
「しゃアッ!」
伸びた左腕は大股で三歩はある距離を無視して青年に届く。辛うじて腕の軌道に短剣を割り込ませ、青年は薙ぎを受け止めた。もちろん空中で踏ん張れるはずもなくさらに後ろへ吹き飛ばされる。
勢いあまった腕は辺りの木々を軒並み刈った。かなりの重量を持った樹木は次々と傾き、青年と〈牙〉の間に倒れる。その重さゆえ大量の木片と土埃が辺りに舞った。
青年が着地するのとちょうど同じくしてその木々に斬線が走る。
「おおオ!」
倒木を蹴散らすように姿を現した〈牙〉は勢いのままに青年に襲いかかった。
青年も応戦するが〈牙〉の動きが先程とはまるで違う。単純な速さや力はもちろんのこと、時おり非思考的な動きが混じるのだ。“異形”としての身体能力と特殊な体があって初めてできる厄介な動きが青年を襲う。
距離をとればまた伸縮する腕の餌食になるため青年はあえて接近したまま戦おうとするが、〈牙〉がそれを許さなかった。一度大きく青年の短剣を弾いた〈牙〉は寸前の木々の伐採によって森にぽっかりと空いた穴へ飛び上がり、高木をも上回る高度から青年目がけて両腕を伸ばす。
頭上から迫り来る二本の剣。しかし青年は慌てず滑るように回避。
〈牙〉も伸びた腕はすぐには引き戻せない。体勢は不安定で落下するしかない空中の〈牙〉へ追撃しようと青年が足に力を込めたとき、その背筋を怖気が走った。
「ッ……!」
自分の勘に従って横に飛んだ次の瞬間、青年がもといた地点の地面を割って剣が飛び出す。〈牙〉は地下で剣と化した腕を操ったのだ。
金属に匹敵、あるいは凌駕する硬度を持つはずの腕は奇妙に曲がりくねりながら青年を追撃する。少しの時間差を置いて迫ってくる腕は、あらゆる角度から、青年を貫かんと襲いかかってきた。
青年は先に襲いかかってきた右腕を背後へと逸らすが、その腕はすぐさま反転し背後から青年を狙う。さらに前からは左腕が向かってきていた。どうにも避けられない挟撃だ。
回避は間に合わない。そう悟った青年の周りを瘴気が漂った。
「〈闇夜の帳〉」
〈牙〉の腕が青年を貫くかのように思えた瞬間に硬質化した瘴気。青年の周囲を完全に囲む球状の漆黒の壁である。腕は鈍い音を発して弾かれる。
障壁は地下までも完全に覆っている。猛った〈牙〉の攻撃も全て防ぎ、超然と球はそこに座していた。
これで時間的猶予は得られた。ではどうするか……と方策を考えようとした青年に届いたのは激しい衝撃。続いて小刻みな、しかし一度響くごとに着実に球の限界に近づきつつある衝撃。
球ごと震えるような衝撃は〈牙〉本体の体当たりによるものだ。腕を常時の長さに戻しぶつかってきたのである。
それでもまだ壊れないと知った〈牙〉はその速さと攻撃力を生かし球の一点に集中して突きを叩き込む。奇怪な叫びをあげながら次々と。
当分は壊れないと思っていた球にピキリとヒビが入った。一筋の亀裂は秒を追うごとに大きく深くなっていく。
「……しかたない」
球を展開してからおよそ十秒で甲高い破砕音とともに障壁は破壊された。しかし中に青年の姿はなく、かわりに内部に充満していた瘴気が溢れだした。
「……? ァ!」
鋭敏な感覚で青年を見つけた〈牙〉。顔が向けられたのは頭上。
球が壊れる瞬間に上空に逃げていた青年は言った。
「ひとまず決着はお預けだ。〈闇の牢獄〉」
握りしめられた右手。刹那、地上に漂う瘴気は〈牙〉を巻き込んで硬質化した。
「ガ……ッ!」
いくら〈牙〉と言えど微塵も体を動かせない状態では壁を破るのにも時間がかかる。青年がこの場を離れる程度の時間は稼げるだろう。
「勇者相手にどこまでできるか、少しは楽しみになった。また後で会おう」
音なく着地した青年は不気味な黒い塊を一瞥してから”聖域“へと走り出した。