2―3 遭遇
思っていたよりも時間がかかってしまった――
天頂をとうに過ぎゆっくりと傾いていく日を、木の葉の間から眺めながら、青年は森を走る。
既に“獄土”を出て二時間は経っているだろうか。生い茂った木々の根があちこちにしっかり張られ、水分を含む雑草類が地を覆う深い森の中はかなり薄暗い。足場が悪いせいで全力で走れている訳ではないが、“獄土”からはもうかなり離れたはずだ。
心なしか程度に地に降る木漏れ日が眩しい。基本的にどこか暗い“獄土”に目が慣れたせいか光のマーブル模様がやたらと目に刺さる。もともと青年は明るいのがあまり好きではなかった。光あるところではなんだか落ち着かないのだ。
「日没までには着くか……」
青年が目指すのは勇者の領域である“聖域”。現在は隣接していない“獄土”と“聖域”ではあるが、その距離はそれほど離れていない。大規模な軍勢を移動させるための道を通るのならまだしも、勇者や魔王単体が移動するのであれば、こうして森の中を走ることで最短距離を駆けることができる。
――とはいえそれでも、一日足らずでその道のりを踏破できる青年は異常と言わざるを得ないが。
体感的には今走っているのは“獄土”と“聖域”の中間地点の近く――いや、やや“獄土”寄りだろうか。
既に数時間休みなしで走っているにも関わらず軽快に駆けながらも青年は違和感を覚えていた。
あまりにも異形がいなすぎるのだ。普通であれば、これほどの距離の間に複数体遭遇していてもおかしくない。この辺りでは、危険度で最下級付近に位置する、人の半身ほどの小鬼であるゴブリンや、強酸性の厄介な粘液を身に纏うスライムがいるはず。少なくとも形跡は残されていても不思議でない。
「…………」
嫌な予感とは得てしてよく当たることを青年は知っていた。いつも頭に強者の勘が囁くのだ。数多くの死線をくぐり抜けてきた中で養われた危機察知能力がこの場の異様な空気を感じとっていた。
そしてその予感は見事に命中する。
「……!」
目の前の光景に青年は足を止めた。止めざるを得なかった。
――その足下にあったのは死体。
恐らくは魔王と思われる男が大量の血を流して死んでいた。
体中に残るのは鋭い斬り傷と貫通痕。鋭利な刃のようなもので容赦なく襲われたようで無事な部位は一つもない。恐らくは絶命してからもしばらく斬り刻まれたのだろう。
その死体の惨さは、残虐を越えて、もはや奇怪でしかなかった。例え相当の恨みを持った相手だったとしてもここまではできないだろう。殺す、苦しめるというよりも、単純に体を壊すことを目的としたような有り様だ。
つまりこんな凶行をしでかすのは人間ではなく――
「…………あれか」
青年の目に映っていたのはかなり先を歩く人形の存在。ただし服は着ていない――というよりも白く滑らかで弾力のありそうな肌がうっすらと光沢を放っている。青年からは背中しか見えず顔は確認できない。
ただ、その体から放たれる気配は、魔王のものとも、ましてや勇者のものとも違っていた。異形と見てまず間違いないだろう。ついでに言えば本来この辺りに棲み着いている異形とは一線を画す化け物だ。確かめずとも青年には分かった。
この距離では気付かれず回り込むことは不可能だ。隠密行動に長けた青年は自らの気配を消すことで異形の感知を防いでいるが、それも長くは持たない。
「…………ォ」
そのとき、異形は何かに気付いたらしい。ゆっくりと、不気味なほどゆっくりと振り返り――
「…………何?」
――その顔に顔はなかった。正しくは、目や鼻といった本来顔にあって然るべきパーツが一切存在しない、文字通りの無表情がそこにあった。唯一横に大きく裂けた口らしきものだけが動いている。
髪もなければ耳もない。丸い型に白い革をぴったりと纏わせたような頭だった。
そして、その口が何かを呟いたあとに笑った。
「―――」
次の瞬間に青年を襲ったのは衝撃。
準備動作もなく距離を詰めた異形の一撃を青年が短剣で防いだのだ。反応が遅れれば正確に胸を貫いただろう拳を見切ったのである。
凄まじい速度で後ろに吹き飛ばされながら青年の瞳はしっかりと異形を捉えていた。短剣を地面に突き立て数秒かけて勢いを殺すと同時、目の前に迫ってきた異形の拳を下からすり上げるようにいなし、右肩の上を通す。
風を切る音を耳の近くで感じてから青年は異形の背後へと回り込んだ。逆手に持った左手の短剣を異形の左腹に叩きつけるような一撃は、しかし空を切る。
異形が瞬く間に距離を取ったのだ。
「速いな……」
十数歩先にいる異形を見てぽつりと青年は呟く。これまで青年が戦ってきた異形の中でもかなりの上位に位置する速さだ。しかも厄介なのは速いだけでなく、その攻撃力。
一度防ぎ軽くいなしただけだが、十分にその威力は伝わった。見れば最初はしっかりと五本指があった右手は細長い一本の棒状に変形している――いや、棒というよりも剣といった方が正確か。いまだ五本指である左手からしても弾力があるように思えた皮膚は恐ろしい硬度を持った金属並の武器へと変化したのである。
「お前、面白イ。己れが斬れないの久しぶリ。楽しイ」
異形が片言ながら話すのを聞いて青年は驚く。人語を使える異形は稀だ。長い時を生きる種でもなければ人語を理解する前に死に絶える。
「この辺り、勇者と魔王多イ。斬ると血、流れル。地面に染み込むと嬉しイ。だからお前の血も、見せ、ロ!」
深く理解している訳ではないのか微妙に不自然な人語をまくしたて異形は再びかき消える。舌打ちしながら青年も神経を尖らせた。
――後ろか。
反転し異形の袈裟斬りを下段から掬い上げるような剣筋の短剣で相殺。金属音と強い衝撃が青年の体を通り抜けていく。手に伝わる感触はいなすときの比ではなく重い。
反動ゆえか異形の動きが鈍った。その隙に青年は一度離れて様子を窺う。
尋常でない速度に攻撃力を持つ、勇者や魔王を殺して回っているという異形。今実際に剣を交えて確信した。これほどの異形であれば、確かに並の勇者や魔王では歯が立たないだろう。
つまり、目前にいるこの不気味な異形こそが。
「〈牙〉……“真駆”の内の一体」
異形、〈牙〉がにたりと笑う。その荒い息は息切れではなくこれから魔王を殺せる愉悦からか。
勇者たちでも旅団を複数隊投入し、軍団長まで加える必要があると推測されるほどの危険度。たった一人の魔王が何かをできるとは思えない――が。
そんなことはどうでもいいと青年は袖を払い短剣を持つ左手をあらわにした。
その甲に描かれているのは悪魔ゆえの力を持つことを象徴する紋様。
〈牙〉に対する他人の評価などどうでもいい。全ては自らの目で確かめるまで。それが情報屋としての青年の信条にして、負ける気は微塵もないという自信の表れ。
そして青年はその身に宿る力を解放する。
「“刻”――〈闇夜〉」
力の解放に呼応するように、左手の甲の紋様が震えた。