5―4 もう一つの決着
「シャネス! 無事か!?」
ミルを抱き抱えて洞窟を出たシャネスを待っていたのは、会うのが随分と久しぶりに感じるガリエルとメザリアだった。
「お前ら……何でここに?」
「何でも何も追ってきたからに決まってんだろうが! 何があった!?」
「あ……そうだ、メザリア! 俺よりもミルを先に……!」
メザリアがいることに気付いたシャネスがミルの傷口を見せると、メザリアはすぐに事態を察したらしく、その手を傷口へと当てる。ミルがぴくりと眉を潜めるが、目を開けることはない。
「かなり衰弱してるわね……。もう大丈夫よ、ミル。〈治癒〉」
ミルを包む緑色の優しい光。メザリアの“印”である〈治癒〉だ。その効果は凄まじく、手足の欠損程度ならば先天的なものでないかぎり即座に修復できる。
今回のミルの傷自体がさして深くないせいもあり、あっという間に傷口はふさがった。
「んん…………」
痛みが和らいだことでミルの表情は幾分か穏やかになっていた。シャネスはひとまず安堵し大きなため息をつく。途端に緊張の糸が切れ、疲れが押し寄せてきた。
「はあ……助かって良かった…………」
ミルをメザリアに預け、地面に座り込む。ミルは傷による直接的なダメージよりも血量不足の状態であの洞窟に長時間いたことによる消耗の方が激しいはずだ。そのため傷こそ治ってもしばらくは安静にしておかなければならないだろうが、命の危険はないだろう。
「……ったく、心配かけさせやがって……。――〈牙〉に襲われたのか?」
ガリエルの問いにシャネスは頷く。
「ああ。ただ……腹の傷を押して動くには、ミルを攫うだけで精一杯だったんだろう。俺が向かったときにはかなり弱ってた。おかげで何とか一人で倒せたんだ」
「……そうか」
脚色された経緯を疑うことなくガリエルは納得したようだ。ミルも気を失ったまま、しかも外部の様子を窺い知ることはできない〈闇夜の帳〉に覆われた状態であったため、洞窟の中で実際に起こったことを知る者はいない。
――シャネスのもう一つの姿を知る者はいない。
「とにかく〈牙〉は倒したんだ。ミルのこともあるし、詳しいことは後にして一度“聖域”に戻ろう。本隊にも連絡しないとな」
「そうだな。ま、ここに来るまでに何だかんだでかなりの範囲を探索した。それも伝えておけば後は連中が終わらせるだろ」
立ち上がったシャネスはゆっくりと歩き始める。自然にガリエルと、ミルを抱いたメザリアがその後に付いた。
番外小隊の遠征は、こうしてひとまずの決着を迎えたのだった。
***
――少し時間は前後する。
ちょうどシャネスが洞窟内でアクトへと姿を変えた頃。
大森林にて〈牙〉の捜索を行っていた討伐作戦本隊は大きな混乱に包まれていた。
原因は突如として隊の前に現れた一体の異形。不気味な光沢を放つ白く滑らかな体表に、大きく横に裂けた口とおぼしきもの以外何もない頭を持つその異形に、隊は既に半壊状態となっていた。
旅団を構成する一小隊の小隊長が、異形が鏖殺を続ける光景から目を離せないまま震える声を上げた。
「まっ、間違いない、〈牙〉だ! 信号弾はまだか!? クカラたちの小隊も全滅するぞ!」
「もう撃ちましたよ! ただ、ラーク様がここに到着されるまでどれほどかかるか……!」
そう言っている間にも〈牙〉と対峙していた男が容易く斬り裂かれる。小隊長を務めていたクカラ・メジャだ。若手の中では頭一つ抜きん出た実力者だったが、本物の脅威と戦うにはあまりにも若かった。
これで旅団の三分の一があの凶刃の前に倒れたことになる。もっとも当事者の彼らにはそんなことを考えている余裕はない。
実に愉しげな笑みを浮かべる〈牙〉が次の獲物を探す。
「くそッ……全滅した! 来るぞ、構え――あ?」
その声が気まぐれな〈牙〉の標的を定めさせた。
彼が言い終わる前に視界が斜めに傾く。何もしていないのに、ぐらりと世界が歪む。
自分は上半身と下半身に両断されたのだと気付いたのは、地面に倒れ非現実的な虚脱感を感じてからだった。
「うわああああああ!! く、来るなああ! おごっ…………」
「ひっ!? た、頼む、許し――ぐえっ」
「嫌だ、こんなところで死にたグギッ……」
一人、また一人と馴染みのある声が途切れていく。彼の小隊の仲間たちだ。まだ結成されてから月日こそ浅いものの、苦楽をともにしてきた戦友が死んでいく。
急速に光を失っていく視界のなか、目の前に転がる剣が反射する眩しい光を見つめながら彼は悟った。
――人間に勝ち目なんてない。このレベルの異形を……“真躯”を相手にできることなんてない。奴らがその気になれば勇者も魔王も簡単に滅びるだろう…………。
眠るように瞼を閉じた男。その意識が消えゆく刹那。
ブワッ! と一際強い風が頬を叩いた。
戦場の混乱が一瞬にして静まる。〈牙〉までもが動きを止めたようだ。
やがて、風の発生源である何者かは言った。
「やあ、〈牙〉。随分と……暴れてくれたみたいだね?」
ひしひしと感じる圧倒的な覇気。勇者たちが感じるのは恐怖ではなく安堵。
――そうだ。我らにはこのお方がいるのだ。
「お願い……します…………ラーク、様…………」
それだけを言い残して、男の意識は霧散した。
「…………」
一方、どこからともなく現れた青年――“英雄衆”第三軍団軍団長ラーク・カミナジルは改めてゆっくりと辺りを見回す。
目に映るのは惨状と言うほかない光景。十を優に越える死体がそこら中に転がっており、地面が血で染まっている。中には死んだ後にも徹底的に破壊されたとおぼしき惨殺体もあった。しかもそれらがたった一体の異形によって為されたと言うのだから驚きだ。
「よくここまでやったものだ……。正直予想以上だよ」
ラークが〈牙〉を直視すると、本能的に何かを感じ取ったのか、笑みを消して身構える。いつ襲いかかってきてもおかしくない態勢だ。対してラークは構えるどころか得物すら手にしていなかった。
「ラーク様、お下がりください。ここは我々が……」
そう言って前に出ようとした傍付きの精鋭たちをラークは腕で制す。
「いいよ別に。退屈してたし、僕がやる。それに……アレも僕に興味があるみたいだしね」
〈牙〉が意識を向けるのは真正面に立つラークのみ。他は眼中にもないようで、注意を向けることもしない。自分と渡り合える可能性があるのはこの男だけだと判断したらしい。
実際には、傍付きの男たちも連係を組むことで十分に〈牙〉と切り結べるだけの力はあった。だからこそラークの手を煩わせることもないと思ったのだが、ラークが「不用だ」と言うならば逆らう理由はない。それだけ彼らはラークの強さを――あるいは恐ろしさを知っている。ゆえに静かにラークの指示に従い後ろへ下がった。
これで、ラークと〈牙〉を遮るものはなくなった。
「……ガアッ!!」
瞬間、〈牙〉が地を蹴る。目標は当然ラークだ。まだ武装すらしていないラークへとその鋭い腕が届く――
「……“印”、〈嵐風〉」
刹那。猛烈な逆風――否、空気の壁とすら思える暴風が〈牙〉の体を叩き、超速度による運動量を相殺するどころか負に押し戻して〈牙〉を吹き飛ばした。
「ギッ…………!?」
何とか態勢を立て直し、両手両足を地面に突き立てることで制動する。それでもしばらく大地を削り、もといた位置まで後退したところでやっと〈牙〉の体は止まった。
膝をついたまま、信じられないといった様子でラークを見る〈牙〉。武器も持たないまま〈牙〉相手に怯むことなく見据えるラークは言った。
「……まあこんなものか。言っとくけど、お前じゃ僕に触れることもできないよ。もっと強くなってから出直しな?」
「グッ……アアッ!」
言葉は理解していないようだが、ラークの言わんとするところを感覚的に悟ったのか〈牙〉は苛立つように吠えて立ち上がった。先程のラークの一撃はあくまで〈牙〉を吹き飛ばすだけにとどまり、ダメージを与えた訳ではない。まだまだ動くことは可能だ。
そんな〈牙〉をラークは指差した。〈牙〉が訝しげに身構えるのと共にラークは小さく笑う。
「ふふっ、もちろん出直してくる前に……殺すけどね。〈旋風斬〉」
呟いた後、ラークはゆっくりと〈牙〉の右肩から左腹へと抜けるようにその細い指を動かした。
直後。
まさしくその指の軌跡をなぞるように、〈牙〉の体に斬線が走った。
「……!? ガフッ……!」
その距離は大股でも優に十歩を越える。剣はおろか刃と呼べるものを何一つ持っていないラークが〈牙〉を斬ったのだ。
「ほらほら、動かないと。死んじゃうぞー?」
「グッ……アガアッ! ガハッ…………!」
子供と戯れるが如く楽しげに笑いながら、その指は一切の加減を許さず淡々と動く。みるみるうちに〈牙〉の体には深い傷が刻まれ、たまらず〈牙〉は再び膝をついた。
そのカラクリはラークの“印”――〈嵐風〉。風を操るというシンプルな力だが、それゆえに汎用性は著しく高い。暴風を起こして物を押し戻したり、局所的な鋭い風で切断するといったことにとどまらず、多種多様な攻撃、防御を可能にする。
ラークは指を止める。ボタボタと血を垂らしながらも〈牙〉から放たれる威圧感は収まらない。むしろラークの挑発的な姿に、まして怒気を強めていた。
そんな〈牙〉を尻目にラークはくるりと背を向けた。
「予想以上ではあったけど想定以上ではなかったね。飽きたからもういいや、代わりに殺っといて。討伐証拠を剥ぎ取るの忘れないでね」
それきり、興味を失ったようにすたすたと歩き出すラーク。その背には〈牙〉に対するいかなる感情もない。恐怖も畏怖も哀れみも持たず、言葉通り、飽きたから帰るだけのこと。
それが〈牙〉の逆鱗に触れた。
「オ……アアアアアアアアア!!」
咆哮と共に〈牙〉は弾かれるように立ち上がり、最後の力を解き放った。変質していくその体はより凶暴に、より強力に。全身の皮膚は強固に組成を組み換え、黒い斑点の浮かぶ腕の剣の威力は先程までとは比するのも愚かだろう。
〈真化〉――“真躯”たる所以を示した〈牙〉はそのままラークへと突撃した。
並みの兵では知覚の埒外、精鋭たちでも反応が遅れるほどの速度。あっという間にラークとの距離を駆け抜けた〈牙〉は、しかしまたしても暴風に阻まれる。何かに触れている訳ではない――あるいはまさしく空気の反発を受け、〈牙〉の速度は零に収束した。
だが。
「グオアアアアアッ!!」
〈牙〉は足を地面に突き立て暴風に逆らう姿勢をとった。強靭な肉体をもって暴風の勢いに抗い、ラークへの執念のみを糧に踏みとどまる。
やがて熾烈な争いを制したのは――〈牙〉だった。
暴風が突如やむ。〈嵐風〉は風、ひいては空気を操るのであって空気自体を生み出す力ではない。当然、一ヵ所に風を送り続ければ周囲には甚大な減圧現象が起こってしまうため、ラークはやめざるを得なかったのだ。
〈牙〉は獰猛な笑みを浮かべた。振り返ったラークの目は、驚きで大きく見開かれている。
「まさかこの暴風を乗り越えるなんて――」
〈牙〉は大きく剣を振りかぶった。眼前の男を粉々にするために。
そのとき、ラークの目は驚きから喜びへと変わっていた。
「――予想以上想定内だったよ、〈牙〉。さよなら。〈見えざる爪〉」
凄絶な笑みに言い様のない恐怖を感じた〈牙〉。すっかり向き直ったラークは五本指を立てた右手でいまだ血まみれの〈牙〉を袈裟状に優しく引っ掻いた。
――一層深く致命的な傷がそこに現れたのは、ラークが踵を返してすぐのことだった。
「ハ…………」
返り血すら風が弾き返しラークには届かない。美しい長髪をなびかせ優雅に歩くラークの背後で、限界を迎えた〈牙〉は仰向けに倒れた。
その巨躯が動くことは、もう二度となかった。
「…………」
静まりかえる一同をよそにラークは歩みを止めると指示を出す。
「ひとまず〈牙〉は殺したし、作戦終了としようか。残りの探索はもしまだ他に〈牙〉がいる可能性が浮上したらだ。……亡骸もできるだけ拾って皆で“聖域”へ帰ろう」
少しの時間をおいて、了解の意を示す敬礼がラークへと向けられた。様々な思いのこもった敬礼をその背に受けてラークは歩き始める。
作戦終了を示す信号弾が、これ以上なく澄みわたった空に高々と打ち上げられた。




