5―3 決着
大量の血を流して地に倒れ、それきり沈黙した〈牙〉。
もはや微動だにしない物体から目を背け、アクトがミルを囲う障壁へと足を向けた――そのとき。
「ま……ダ……だ」
「…………」
聞こえた声にアクトは動きを止めた。
振り返った視線の先で、瀕死であるはずの〈牙〉がゆっくりと起き上がる。腹の傷は当然塞がっていない。無理をすれば残り僅かな命をさらに縮めることになるだろう。
それでも、大粒の血滴を滴らせながら、底知れない気配と共に〈牙〉は立ち上がった。
途切れ途切れの呼吸におぼつかない足下。とても何かできるようには思えない姿。しかし今の〈牙〉には、目を離してはいけないと本能に訴えてくる凄みがある。アクトをしてその拘束から逃れることはできなかった。
「……見せてみろ。ただ死ぬつもりはないだろ?」
〈牙〉の真意を悟ったアクトはそう促した。
“真駆”のみに与えられた特異な体。並の異形では扱えない強大な力であると同時に“真駆”であることの何よりの証明。〈牙〉が抱く自負とその力ゆえの義務――すなわち勇者、魔王を殺戮すること。
繰り返した敗北は確かに〈牙〉に蓄積されていた。本来は異形に似つかわしくない高い知能もまた〈牙〉の才と言えるかもしれない。いずれにしろ、〈牙〉は確実に、そして飛躍的に力を高めていた。
全てはこの勇者――あるいは魔王を殺すために。
「ぐ……あ……ア、あ……あアアあアあああ!!」
洞窟に響き渡った〈牙〉の叫びは、単なる音でありながら、まるで世界を揺らすかのような錯覚をアクトに与えた。
〈牙〉は変質する。小枝を折る――否、大木をへし折るような破砕音をまき散らしながら、体は一回り大きく膨張し一部がさらに変化していく。口から文字通りの牙が飛びだし、皮膚はより滑らかに、より光沢を放つように。
そして――黒い斑点が浮き出た二本の腕。周囲の鉱石が放つ微かな光を反射してぎらつくそれらは大剣と形容するに十分な質量を備えていた。固さも鋭さも以前とは段違いだろうと一目で分かるほどに、腕は凶悪に輝いていた。
「これデ……今度コそ、お前ヲ……殺す」
「……やってみろよ」
ゆっくりと短剣を構えたアクト。順手に持ち替えたのは、剣の威力より速度を重視したためだ。刃先を真っ直ぐに〈牙〉に向け、どんな攻撃にも対応できるように体勢を整える。
〈真化〉を遂げた〈牙〉と魔王としての真価をあらわにしたアクト。一度目、二度目の遭遇時とはまるで違う邂逅を果たした一人と一体は、次の瞬間、示し合わせたかと思えるほど同時に動いた。
鈍い音が発生したのはちょうど二人がもといた二点の中間地点。
「アああッ!」
「……!」
右の剣でアクトの短剣を抑え込んだ〈牙〉はもう一方の剣を振りかぶる。ボッ! と放たれた空を裂く鋭いその突きは、寸前で首を捻ったアクトの頬を掠めて後方へと抜けていった。
つう、と血の滴が流れるのに何かを考える暇もなくアクトは〈牙〉から距離をとろうとする。得物を抑え込まれたままでは有効な攻撃などできるはずもない。一旦引いて仕切り直そうとしたのだが。
アクトが飛び退って地に足を着いたとき、その背後に襲いかかるのは〈牙〉の剣。
アクトの背面で百八十度方向を転換した剣が迫っていたのである。当然アクトが直接視認することはできない。〈牙〉がにやりと笑った。
「――ッ!」
――しかし剣がアクトを貫くすれすれでアクトは無声の気合と共に猛然と〈牙〉目掛けて走り出した。やむを得ず〈牙〉も後を追うように剣を操作する。アクトが不用意に攻撃しようとすれば、その隙を突いて今度こそ貫けると思ったからだ。
瞬く間に〈牙〉との距離を詰めて短剣を引き絞ったアクト。予測通りの動作に〈牙〉が叫ぶ。
「はハっ! 死ねえッ!」
アクトの心臓に、剣が突き刺さるその瞬間。
「――お前がな」
いつかも言った言葉を呟くと同時に、アクトも仄暗い笑みを浮かべた。その姿はどこか影がかかったように一段と暗く。
ズブリという生臭い音を〈牙〉は聞いた。
「……ガふ……っ!」
剣が貫いていたのは――〈牙〉の胸。
アクトは〈牙〉も知らぬ内にその背後に立っていた。
「ナ…………ンだと……?」
「さすがの鋭さだ。自分の皮すら貫くとはな」
嘲るアクトの体を覆っていた闇の残滓が靄のように消えゆく。それは紛れもない〈闇夜〉の力。
〈幽歩〉。実体の残像に重ねるように薄く闇を展開し、ほんのわずかな間、あたかもそこに本体がいるかのように錯覚させるアクトの技術。
〈牙〉も剣を自身に受け流してくる可能性は当然考慮していた。もしアクトが少しでも背後を警戒するような真似をすれば咄嗟に剣を制御できるように構えていたのだが、ほぼ零距離にまで接近された上で本体だと思っていた影がただの闇であれば、それを察知し剣を制御できる余裕などない。
「ぐ……フ…………っ!」
吐血しふらつく〈牙〉。それでも倒れることなく体を支えると、激痛を無視して剣を自身の胸から抜いた。
途端、大量の血が流れる。
ゆっくりとアクトへ向き直る〈牙〉。隙だらけであるにも関わらず、アクトは興味深そうに〈牙〉を見るだけで攻撃を加える気配はない。次は一体どんなことをするのかと楽しみさえ感じているようだった。
その態度に〈牙〉の自尊心が逆撫でされる。
「…………アああアアああァアアアあ!!」
突如激昂し思いきり両の剣を振りかぶった〈牙〉。アクトがぴくりと反応するより早く剣はアクト目掛けて打ち出された。
アクトは動けない。恐るべき速度のそれが容赦なくアクトを貫いた――ように見えたときにはアクトの体は霧散し消える。〈幽歩〉による幻影だ。本体は既に十歩も離れた位置に平然と立っている。
「アアあアッ!!」
〈牙〉はそこで止まらずに巧みに剣を操り、宙で蛇行するようにうねってアクトを突き刺した――が、薄ら笑いを浮かべたアクトはたち消える。
殺したと思えばまたどこかへ現れるアクトの姿はもはや完全に〈牙〉を馬鹿にしているようだった。出現と消滅を繰り返すアクトを剣は追いかけるが、本体に当たるはずもなく徒労に終わる。しかし〈牙〉は諦めず、愚かにも見える行為を繰り返し続けた。
どこまでも伸びしなやかに曲げられる腕が洞窟に占める体積を増やしていく。アクトは〈牙〉の背後にも現れるために結果として重心は〈牙〉の垂直線上に残っており傾くことはない。曲がると同時に硬化することで剣は浮遊した状態を維持し続ける。
「…………? ……!」
ふと、アクトが初めて眉をひそめる。そして高速で移動しつつ辺りを見回して、何かに気付いたようだった。
そう――〈牙〉が仕掛けていた罠に。
「……モう遅イ!」
狂ったように叫んでいた〈牙〉が明瞭な言葉を発した。
アクトが感じたのは知らず移動範囲が狭まっていることへの違和感。〈幽歩〉はあくまで残像を本体と見せかけるだけでアクトという実体が消える訳ではなく、当然〈幽歩〉中も物理的な接触が可能だ。それゆえ宙に残る〈牙〉の腕に触れないように動く必要があったのだが、大きく長く広がっていく腕によってアクトの移動範囲が小さくなっていたのだ。時折見られる上空へ伸び上がるような腕の動きによって飛び越えることさえも防がれている。
加えて〈幽歩〉の致命的な欠陥は、残像は本体が通過した位置にしか残せないということ。つまり、逆に残像の動きを追えばある程度の本体の足取りが把握できる。叫びながらも冷静に〈牙〉はアクトの動きを追い、移動の自由を奪っていたのだ。
「終ワり……だア!」
洞窟いっぱいに広がった腕は一気に収縮する。獲物を絡めとるクモの巣の如きそれが、アクトが逃げる余裕を与えずにアクトに迫った。
まともに引っ掛かれば転倒は免れない。かと言って避けることもできない。選択の余地など与えられるはずもなく。
「……見事な罠だ。これはかわせないな」
俯いたアクトを見て〈牙〉は笑みを深くし――次の言葉に表情を失った。
「壊すしかないか」
黒く輝く短剣が瞬くのを〈牙〉が視認することはなかった。
唯一聞こえたのは絶望だけを〈牙〉に与える破砕音。
アクトを包囲していた腕は、次の瞬間、粉々に崩れた。
「――これで満足したか?」
アクトが眼前に立っていることにさえ〈牙〉は反応できなかった。
シャネスに敗北して屈辱に耐えながら逃亡し、その悔しさを糧に強くなったはずの〈牙〉。〈真化〉による超強化以前に肉体強度は段違いになっていたはずだ。
しかしそれですら、この魔王相手には障害にもならない。これを絶望と言わずして何と言うのか。
シャネス、そしてアクトを相手にしたことがそもそもの間違いだったのだということを〈牙〉は遅まきにも悟った。
「〈闇殺刃〉」
あまりにも滑らかな短剣の一撃が吸い込まれるように命中し。
音なく〈牙〉の首は宙を舞った。
――アクトの“刻”である〈闇夜〉はシャネスが持つ〈晴天〉と相反する力。〈晴天〉が光を制し光あるところで行使者を強化するのに対し、〈闇夜〉は闇を従え闇あるところで行使者を強化する。
つまりこの洞窟にアクトを誘いだしたこと自体が愚かであることを〈牙〉が知ることはなかった。
崩れ落ちた肉塊にはもう目もくれず、アクトは短剣を納めミルへと歩き出した。




