5―2 差
「では、始めようカ」
殺意と共に放たれた声。
並の生物なら恐怖を禁じ得ない音。意味を理解できなくても体が逃げようと動いてしまうほどの威圧感。
それでもシャネスは微動だにせず〈牙〉を見据えていた。
「ふン、どこまでその余裕が続くかナ。もっとも余裕を失う前に死んでいるだろうガ」
「…………」
〈牙〉の挑発にもシャネスは反応しない。それこそ既に死んでいるかのように静かだった。
やがてシャネスはたった一つだけ〈牙〉に問う。
「……ミルはどこだ?」
ここに来て初めて発するシャネスの声はいたって冷静に聞こえた。しかし〈牙〉は知っている。シャネスが必死に怒りを抑えていることに。これだけ明確に体温が上がっていれば誰にだって分かるだろう。
「…………ここダ。見えるカ?」
笑みを浮かべながら〈牙〉が一歩横に退くと、暗がりに隠れ横たわっているミルの姿が明らかになった。右腕に酷い出血――恐らく裂傷によるもの――が見える。
「心配するナ、まだしばらくは死なないだろウ。……これを何度殺してやろうと思ったことカ。感謝してほしいほどダ」
ゴミでも扱うかのようにミルを足で転がした〈牙〉。シャネスの脳裏にどす黒い何かがよぎる。
奥底で蠢くドロドロとした衝動、欲求。決して暴発することはないが、黙って引いていくこともない。深淵にて静かに流れる負の感情はひたすらそこで循環し続ける。行き場を失わないように、溢れてしまわないように。
「……いっそここで殺してやろうカ? 今、お前の目の前デ」
――そこでシャネスの破壊欲求は飽和を迎えた。
「……御託に付き合うのはもう飽きた。帰るぞ、ミル」
「ハ、ただで帰すはずがないだろウ。この娘はここで――」
フッ、と消えたように見えたシャネス。
「……? どこニ……」
次の瞬間には、〈牙〉に背を向けて立つシャネスの腕にミルが抱かれていた。
「―――!?」
〈牙〉が足下を見ても確かにミルはそこにいない。つまり、今の一瞬でシャネスは〈牙〉に接近し、ミルを抱きかかえ離脱したということ。
「せ…………ぱ、い……」
辛うじて意識はあったのか、ミルが掠れた声でシャネスを呼んだ。
「無理するな。……悪かった、怖い思いさせて。少し寝てろ」
優しい声にミルは微笑んだ。靄がかかったように不鮮明な意識の中で、安心できる何かを見つけたような気がした。
それきり静かになったミル。小さく、しかし確実に続いている呼吸音を確かめて、もう何も聞こえていないだろうミルにシャネスは呟いた。
「すぐに終わらせる」
その背後に――〈牙〉。
「それは己れの言葉ダッ!!」
強化を果たし万全の状態にまで回復した〈牙〉。より強くしなやかになった体を存分に生かし、弾き出されたように加速、シャネスの背後へと距離を詰めた。
〈牙〉の我慢もまた限界を迎えている。一切の余裕を消した全力の一撃だ。
獰猛な獣のごとき本性をあらわにして、その剣をシャネスへと突き立てた。
洞窟に轟いたのは――衝突音。
「な……ニ……?」
――〈牙〉の剣はシャネスの首の直前で何かに阻まれていた。
これ以上ぴくりとも動かない。いくら力を加えても傷がつくどころか微動だにしない。〈牙〉の攻撃力をもってして砕けない。
何もないはずなのに。この暗闇の中で何かを張り巡らせるような余裕は――
「…………闇……だト?」
そして〈牙〉は一つの可能性へと思い至る。
同時に気付く。眼前の人間から放たれる覇気が変質していることに。先程までの忌々しい勇者のそれからかけ離れた、むしろ対極にある覇気へ。それはまるで、〈牙〉が初めて脅威を感じたあの人間に似ていて。
「…………やっと気付いたか?」
「……ッ」
シャネスがぽつりと漏らす短い言葉が、〈牙〉の推測をほぼ肯定していた。
〈牙〉とシャネスとを隔てるのは硬質化した闇。かつてとある魔王が使っていたはずの“刻”。勇者が使えるはずのない障壁。
「〈闇夜〉――〈闇夜の帳〉」
シャネスの左腕から溢れる闇。不自然な粘度を持った半液体のごとき漆黒が、シャネスを一切の脅威から守っていた。
闇を割るのは不可能と飛び退った〈牙〉。
「お前……何者ダ…………?」
ゆっくりと振り返ったシャネスの瞳。
その冥さが〈牙〉の記憶と一致する。
「勇者のシャネス・ノワン・ファーテルム。もっとも今は――」
一瞬の沈黙の後、シャネスは言った。
「魔王――アクト」
「……ッ」
途端に放たれたのは魔王特有の覇気。勇者や異形とはまた違う暴力的な気配。
〈牙〉でさえも一時体が強張るほどの濃密な死の雰囲気。
「は……はハ、面白イ! まさかあの魔王がお前だったとは! わざわざ探しに行く手間が省けたということダ!」
一瞬気圧された〈牙〉は声を張り上げる。シャネス――いや、アクトはミルをゆっくりと地面に下ろしてから、そんな〈牙〉の内心を見透すかのような揺るぎない視線を向けた。
左腕の甲の紋様から溢れる闇がミルを覆い、球状の膜が展開される。これでもうミルに手出しはできない。
つまりそれは、アクトが躊躇する理由が消えたということ。
「俺も会いたかったよ、〈牙〉。……今度は楽に殺してやる」
いつの間にか左手に握られていたのは、右胸の内ポケットに仕込まれていた黒い短剣。アクトにしか分からない封をしてあり、触った程度では判別できないようになっている。
その瞳はかつて〈牙〉が相見えた勇者とはまるで別人だった。救う者ではなくただ淡々と奪う者の目だ。この暗闇でもそうと分かる冥さは〈牙〉を萎縮させるのには十分だった。
「――〈凶化刃〉」
闇が短剣を覆う。硬質化し、耐久力と殺傷能力を高めた殺意の具現が〈牙〉へと向けられた。
〈牙〉は動かない。いや、動けない。アクトから感じる重圧が〈牙〉にこれ以上ない脅威――すなわち、不用意に近付けば死ぬという予感を訴えていた。明確な力の差を〈牙〉は感じたのだ。
「そんなはずガ……あるものカ…………!」
事実を否定する〈牙〉の足は震えている。劣っているはずがないという自信と本能の制止、恐怖がせめぎあっていた。
「殺、ス……そのために己れハ……ああああああアアアア!!」
叫んだ〈牙〉。
自らに発破をかけて硬直を解いた〈牙〉は、洞窟内の反響が始まる前にアクトの目の前に迫っていた。
「死ねエッ!!」
「―――」
刹那。
轟音が響いた。
「…………ハ?」
〈牙〉が――壁に激突する轟音が。
腹には横一文字に走る斬線。数瞬遅れて血が溢れ出た。
「ガハ…………」
吐血しながら倒れる〈牙〉。
一体自分が何をされたのか、〈牙〉が窺い知ることはできなかった。捉える、捉えられないという問題ではない。予測、感知、反応といった過程を無意味化する刹那の事象が〈牙〉を襲った。
「な……ゼ…………」
失われつつある視界には、唯一冥さをたたえるアクトの瞳が映っていた。




