5―1 対峙
血痕をたどってシャネスが着いたのは、垂直に切り立つ岩盤の表面に生まれた穴の前。森の奥に隠れていた洞窟の入り口だ。
内部は暗闇に包まれている。辺りに木がなく明るいためというのもあるのだろうが、洞窟の中に光源はほとんどないとみていいだろう。ここからでは三歩先に地面が確かに存在するのかさえ判別できないほどの闇だ。
奥から流れてくる冷たい風がシャネスの頬を撫でた。一応は空気の流れがあり、それなりに内部は巨大であるということだ。
物資や装備の類いはほとんど持ち合わせていない。何があるかも分からない地帯に侵入するにはあまりにも無防備だ。普通ならば一度様子を見るべき状況ではあるが。
「…………」
腰に吊った鞘と右の胸の辺りに触れてその感触を確かめてから、シャネスは躊躇なく洞窟へ足を踏み入れた。
***
「……! ガリエル、あれ見て」
シャネスが洞窟へと入ったのと時を同じくして、メザリアは極限まで集中するために瞼を閉じたまま探索を続けるガリエルへと声をかけた。
二人はこの数日間、常にシャネスとミルを探すことに全力を注いでいた。あの二人ならば生存は間違いないとはいえ、早く再会するのに越したことはない。最低限の休息をとった上で、シャネスたちが流された急流に沿って川を下ってきていた。
道中で〈牙〉には遭遇どころか感知もできなかった。結果としてそれなりに広い範囲を探索した訳だが、それでも見つからないということはどこかに潜伏しているのかもしれない。そう思い、今もなお警戒を続けていたのだ。
〈超覚〉を行使している最中のガリエルは巨視的に風景を捉えており、細部にまで気を張るのは難しい。怪しげな地点を同行者に伝えるのがガリエルの主な役目なのだ。
「あれは…………」
ガリエルは目を開けると、メザリアが指し示した地点を直視した。そこには意図的に拓かれたのだろう広場のような空間。中央には火を起こしたと思われる跡。
「間違いねえ。シャネスたちがここにいたはずだ」
彼の嗅覚がそれを証明している。残り香とでも言うべきだろうか。先程から感じていた馴染みある気配が、この辺りにいまだ強く漂っている。
「時間は……それほど経ってねえな。三十分ってとこか。どこに行った?」
「わざわざ二人でどこかに行くとも考えにくいわね。……いえ、シャネスのことだからミルを一人にはしないかしら。待ってれば戻ってくる?」
「多分待つだけ無駄だ。どっちも俺の感知範囲に引っ掛からないってことはかなり離れてる。食材を捕るためとしてもそこまでは動かねえだろ」
「となると…………」
二人は静かに思考する。シャネスとミルの思考をなぞり、かつ二人に起こりそうなこと、起こっても不思議ではないことを精査した上で予測する。
結論が出たのは同時だった。
「……どちらかを探しに行った?」
「だろうな。そのまま奥に入り込んだか、あるいは……予想外の何かが起こったか」
ガリエルの言葉が、静寂に満ちた森に深く響いた。
ざわざわと妙に強い風が木々を揺らす。太陽の光はゆっくりと空を流れる雲に閉ざされた。
「急ぎましょう。一刻も早く向かわないと」
「言われなくても分かってるっつの。これだけ接近すれば、あとは筋をたどっていずれ追いつくはずだ」
ガリエルはすぐに〈超覚〉を発動させ、シャネスの動線を追跡する。ひとまずは川へ向かう方向だ。木々の奥には確かに人工的なものと思われる道があった。
「待ってろよ……!」
再び神経を尖らせながらも、ガリエルはそう呟いた。
***
洞窟内部は予想どおり暗闇が辺りを支配していた。
光源は壁や天井、床などを構成する岩に紛れこんだ特殊な鉱石のみ。時折探索者が発掘してくるそれらが放つ淡い光だけが唯一の道標だ。光量は蝋燭の火よりも小さく、至近距離で向かい合わなければ互いの顔すら識別できないほどだ。
もっとも、それなりに手練れの勇者であれば視覚だけに頼るということはしない。ガリエルのような特殊な能力を持つ勇者には及ばずとも、聴覚、触覚など全感覚を研ぎ澄ますことによってある程度の外界の状態を知ることができる。シャネスもその例にはもれなかった。
自然に発達した洞窟らしく、何者かが意図的に岩を砕いたような様子は見当たらない。幸いにも道は分岐しておらず、空気が流れる横穴にも人が通ることができるほどのものは存在しなかった。
これだけの大きさならば他の動物や異形がすみかにしていても不思議はないだろう。だというのに鼠一匹見つからない理由には心当たりがあった。それを分かった上でシャネスはここへ足を踏み入れたのだ。
「…………ここか」
一度も止まることなく歩き続けたシャネスがやがてたどり着いたのは、やけに広い部屋――いや、ドーム状に天井が湾曲した大きな空間。光を放つ鉱石が多く散らばっており、通路よりはいくらか明るい。
そしてそのぼんやりとした光景の最奥に、人型の何かが立っていた。それこそがシャネスが予期していた異形。
「ようやく来たカ、人間」
気味の悪い能面のような顔。淡い光を不気味に反射する皮膚。聞くだけで心をざわつかせる不快な声。
“真躯”に指定される異形、〈牙〉がそこに立っていた。
シャネスが見るかぎりでは右脇腹には傷痕すら残っていない。この数日で完璧に治癒した……いや、それどころか肉体が全体的に強化されたように思える。漲るような覇気と皮膚の輝きがその証拠だ。
「お前だけは己れがこの手で殺したかっタ。もう久しく人を殺していなイ……我慢の限界ダ」
目の前に宿敵と呼ぶべき存在がいる。それだけで〈牙〉の体は自然と震えていた。抑圧されてきた本能が今にも解き放たれてしまいそうだった。
強化を果たした〈牙〉と言えど無策でシャネスに挑むなどという愚かな行為に走ることはない。シャネスが日光、あるいは熱や単なる光に反応して強くなることは、かつての戦闘から学んでいた。ゆえにこうして光も温度も以前を下回るような場所へシャネスを誘いこんだのだ。この状態でならば、あの厄介な速さとそれに伴う攻撃力の高さは殺せたと考えていい。
加えて洞窟の闇は人間の視界を奪う。多少の感覚を研ぎ澄ましても、人間にとって視覚以上の情報を得ることは不可能だ。〈牙〉のように視覚に代わる特殊な感知能力を持たないかぎりは。
そしてそれはそのまま、〈牙〉の勝利を意味していた。
溢れる唾液を吐き散らしながら、醜い笑みを深くした〈牙〉。
「は……はハ、ハハ……ハははハハ……!」
堪えきれない悦びに声が自然と漏れだす。洞窟の壁や天井で反響し、無数に響く笑い声が空間を支配した。
「ハハは…………はァ……。……では、始めようカ」
ひとしきり笑って満足したように声を沈めた〈牙〉。ぞっとするような冷たい声音には、これ以上なく純粋な殺意が込められていた。




