1―0 転生
――人は死んだらどこへ行くのだろう。
そんなことを、今まさに死の瀬戸際に立っている少年は思った。
右脇腹から血が流れていくのが分かる。深い刺し傷から体内に入り込んでくる死の気配をリアルに感じながらも、少年は至って落ち着いていた。
ゆっくりとした鼓動に呼応するように呼吸が苦しくなっていくこともさして気にならなかった。いや、気にならないというよりも、気にするほどの興味がなかった。仰向けでよく晴れた真っ青な空を見上げ、少年は左手を目を灼く太陽へと伸ばした。
しかし、そんな最後の身体的自由も失われ、神経が途切れたかのように左手が横たえられる。もはや瞼を開けているのも限界だった。
暗闇に包まれていく視界。辛うじて聞こえる悲鳴。無差別殺傷事件とは珍しいものだと思っていたが、それに巻き込まれたことに関しても大した驚きはない。そもそも、運悪く自分が巻き込まれたのではなく、数多いる人間の中から無作為に抽出されたがゆえの結果でしかないのだから。客観的に捉えるならばこんなことは至極当然のことだ。
少年の父と母もまた数年前に事件に巻き込まれ、理由なくこの世を去った。これでまた父と母に会えるようになるならば、むしろ何とも言えない感慨を少年は覚えた。
死ぬことに恐怖や驚きはない。幼くして身寄りを失い、苦しみと寂しさの中で生きてきた少年にとって「死」は救いとさえ思える。
ただ、一つの希望だけを少年は願った。
輪廻や業といったものを信じている訳ではないが、もし生まれ変われるならばもう一度人になりたい。ただし普通の人間ではなく、力を持った人間に。奪わせず、奪えるだけの何かを持った人間になりたい。そんな大それた願いを少年は抱いた。死は怖くなくても、生物である以上は命に執着がない訳でもない。今度は不当に奪われない人生を少年は望んだのだ。
――あ、死ぬ。
そう、声なく呟いて、少年――夜霧空人の一生は幕を閉じた。
***
「…………」
――と、空人は思ったのだが。
意識がある。自我がある。自分は夜霧空人であるという記憶がある。
死ねば全てを失うだけだと思っていたが、そんな推測は間違っていたのか。もしくはここは死後の世界で、地獄や天国は実在したのか。だとすれば自分はいったいどんな状態で――
『起きろ、少年』
不意に聞こえたのは、やけにくぐもった男の声。
驚いてびくっと跳ねる空人。その拍子に、空人は体の感覚があることを知る。先程まではふわふわと漂うようにいたはずの意識が、ゆっくりと確かな実感を持っていく過程を感じる。
『まだその体には慣れないか。しかしいずれは自らのように扱えるはずだ。心配する必要はない』
声はよりクリアに聞こえるようになった。しかしやはりくぐもっているのは変わりない。感覚がどうこうという話ではなく、純粋に何かを被っているような声だ。
他の感覚もさらに鋭敏になっていく。匂いは……草の香りだろうか。幼少期に訪れた母方の実家で感じた緑の匂い。手に感じるのもさわさわとした柔らかい草の触感だ。耳をすませば確かに草が擦れあう音が聞こえる。
肉体と意識が一つずつ繋がっていく感覚がある。腕、足、胴、首、頭――そしてそこからさらに手首や指といった細部へと連結していく。
最後に連結した瞼を空人はそっと開けた。
「こ……こ、は…………?」
無意識に発した声は、まだしっかりと意識と同期していないのか妙に掠れていた。いずれにしろ生前の自分の声でもない――もっともここが死後なのかも分からない訳だが。
視界も同様にまだざらついた情報しか捉えることができない。しかしその視界の中央には、こちらを見る二つの人影があった。向かって右は黒い人間――というよりも黒い鎧だろうか。左に立つのは白い鎧だ。
空人の問いに黒い鎧の男が答えた。
『ここはファルテウム。貴様らの世界からすれば異なる世界……異世界に相当する。俺が貴様をここへ招いた。――ようこそ、異界ファルテウムへ』
「異世界……?」
ファルテウムというらしい不思議な響きの世界に空人は呆けた声を上げる。まさかドッキリか……とも思ったが、これほど大がかりな企みをする必要も、空人を相手にする理由もない。
まずは現実として認めるしかないと空人は判断した。
「俺は……死んだんですか?」
ようやくまともな声を出せるようになってきた空人はそう訊ねた。とにもかくにもそれが重要だと思ったのだ。
かくして返ってきたのは肯定の言葉。
『間違いなく死んだ。腹部を刺されたことは覚えているだろう。ちなみに貴様を殺した男は自殺したぞ』
「……そうですか」
他者から言われて、空人はすとんと納得した。ああ、自分は死んだのだと腑に落ちた。その他者というのが信用できるかどうかを無視して、空人は確かに理解したのだ。
「それで……ファルテウム、でしたっけ。どうして俺はここへ?」
いまだぼやけたままの視界に存在する、唯一意思伝達が図れる存在へと空人は問う。
すると男はしばしの沈黙のあと答えた。
『……貴様には、任せたいことがある』
「任せたいこと……?」
『――息子を救ってほしい。貴様は奴に足りないものを持っている。その力で奴を支えてほしいのだ』
「……?」
男の息子……もしかしたら隣に立つ白い鎧の人間とも関係があるのかもしれない。しかしそもそも力とは何か。ファンダジーのような特殊能力が発現した記憶などあるはずもない。空人はいたって普通の平凡な人間だ。
「それ……俺にできるんですか?」
思わず漏れた本音に男はわずかに驚いたようだった。
『……まさかそう問われるとは思ってもいなかった。まずは急にこの世界に呼ばれた不条理を嘆くものと予想していたが』
空人は疑問符を浮かべる。
「……? だってここにいる時点で後悔しても無駄じゃないですか。そもそも、現実より悪い世界と決まった訳でもないし。いや……あれより酷い世界なんてあるんですかね」
吐き捨てるように空人は言った。
現実は素晴らしいものであるといったい誰が決めたのか。運悪く……まさしく運悪く、空人は世界に、世間に疎まれるごく少数の人種に分類された。ある日突然に“ただ飯食らい”という名前で呼ばれるようになった。
父と疎遠になっていた叔父の家に拾われ、まともな食事も与えられず、まともな物も買い与えられず、それでも必死に生き抜こうとして――空人は死んだ。
まだ高校にも入れていない。青春という言葉のせの字も想像できない。「生きているだけで素晴らしい」というのは生きていることを承認されるという前提条件があってこそだ。もちろん空人はそんな条件を満たしていなかった。
『……それだ』
「え?」
男の不可解な言葉に、俯いていた空人が顔を上げる。
空人の顔を――瞳を覗きこんだ男は言った。
『貴様は“無力である”ことを知っている。そしてその思いに反発して生み出された破壊衝動も。それこそが奴に必要なのだ。制御できる負の衝動を俺たちは欲していた』
「…………」
破壊衝動と名付けられた意思。否定する気はまったく起きなかった。むしろ全面的な同意と共に空人は納得した。自分は壊したかったのだと。
『貴様の願いは叶えたつもりだ。今の貴様の体には、この世界でも類を見ない可能性が秘められている。もっともそれを使いこなせるかは今後の修練次第だがな。貴様が望むように使い、奴を救え』
「…………拒否権は?」
『ない。いや、貴様が拒否するはずがない。貴様は、一度死んだ身ながらに何かを恐れるような弱者か?』
断言する男に空人は苦笑する。男が言ったのは、まさしく自分が思っていたことだったからだ。
空人は仄かに笑った。男の言葉どおり、拒否するつもりなどない。もう一度人生を歩めるのならば、むしろ願ったり叶ったりだ。
「分かりました。やれるだけやってみます。それで……俺が助けるべき人は?」
男は言った。
『息子は―――』
そして、空人はこの世界に新しく生を受けることとなる―――