4―1 分裂
「んぁ…………」
頭がズキズキと痛む。体の感覚が覚束ない。ふわふわとした浮遊感は心地よいものではなく、むしろ思いきり何かの中でかき混ぜられた後のようで気持ち悪い。
そんな最悪の目覚めをシャネスは経験した。
「……あ、気付きましたか、先輩」
一番に目に映ったのは萌木色の髪。ミルクのような香りがふわっと漂う。
握り拳二つほど先にミルの顔があった。
その後ろには闇。近くに火があるのか不自然な影がミルの顔に映っていた。いつの間にか夜になっていたらしい。
どうしてこんなことに……と思い出してシャネスはため息をつく。
「そうか……俺、丘が崩れるのに巻き込まれて…………」
ゆっくりと蘇った記憶は苦いものだった。あれは不注意以外の何物でもない。〈牙〉を倒すのに気が急いてしまった結果起こった完全な失敗だ。
小隊長ともあろう者が情けない。他の三人は無事だろうか――
「……? 何でミルがここにいるんだ?」
今さらすぎるそんなシャネスの言葉に明らかにミルは不機嫌になった。
「どうしてって……一応私が先輩を助けたんですけど。気を失って川に落ちたのはどこの誰ですか」
遅まきながらシャネスはようやく気付く。川に落ちたあとシャネスを助けたのがミルなのだと。
あのときミルは他の二人よりも早くシャネスを救いに飛んだ。何とかシャネスを抱えて急流に落ちた後は倒木に掴まり、そのまま流されたのである。幸いと言うべきか〈牙〉はどこかへ逃げたらしくミルたちを襲うことはなかった。
結果としてガリエルたちとは離れてしまった。蛇行しながらかなりの距離を流されたため、ガリエルの〈超感〉をもってしてもミルたちを見つけるのは容易ではないだろう。しばらくはこのまま行動しなくてはならない。
「はぁ……小隊は分裂、〈牙〉は逃したか……。詰めが甘いんだよなぁ…………」
シャネスはいつもこうだ。肝心なところでミスを犯し失敗する。改善される見込みがない自分の性根に嫌気が差す。
しかしふと、目を瞑り自己嫌悪に陥るシャネスの頭をミルが撫でた。
「……別にいいと思いますよ、先輩は。そこを補うのが私たちですから。最初さえ導いてくれれば、それでいいんです」
「…………」
慈しむような優しい手にシャネスはゆっくりと目を開けた。
そして問う。
「なあ……これってもしかして膝枕されてる?」
「…………ええ、そうですけど」
少しの間を置いて肯定したミル。聞くや否やシャネスはすぐに跳ね起きた。
「ちょ、何で起き上がるんですか! 安静にしててくださいって!」
「この状態で安静になんかしてられるか! むしろ邪念が……って何でおまっ……!? てか俺も!?」
起き上がってやっと気付く。シャネスは下着一枚、ミルも最低限のシャツと恐らく下に一枚のみ。断言できないのはミルが着ていたのが丈の長いシャツだったからだ。
「し、仕方ないじゃないですか、あんなずぶ濡れの格好でいたら死にますよ! まだ夏だったからよかったものの! あと、み、見ないでください!」
ミルは自分の腕で局部を覆いながら顔を真っ赤にして後ろを向いた。さっきまで膝枕してたくせにと思わなくもないが、シャネスとしても女子のそんな姿を見て平静を装っていられる自信はない。やむなくお互い背を向けるように座る。
頭を打った影響は今こうして動けることを考えるかぎりそこまで大きくはないようだ。もちろん後から響いてくる可能性もあるため油断はできない。なるべく安静にしよう……と反省してシャネスは心を落ち着けた。
「…………」
「…………」
――沈黙が辺りを包む。火の粉が爆ぜる音とどこからか聞こえる梟の鳴き声以外、森に音は存在しなかった。
「……先輩」
「ん?」
少ししてからミルの声が聞こえた。シャネスは顔は向けないまま返事をする。
「やっぱり体に悪いです。寝てください」
「いや、さすがに夜通しの見張りをミル一人に任せるのは……」
いくら危険の少ない森と言えど無防備に寝るのは愚かと言わざるを得ない。一人は見張りを立て、時間ごとに交代するのが普通だ。
特に二人しかいないこの状況では、シャネスはミルと交代で見張りをするべきだと提案するつもりだったのだが、先を越されてしまった。
気絶明けのシャネスとはいえ、うら若き女子に一晩中見張ってもらうのはプライドや申し訳なさや不甲斐なさや様々なものが込み上げてくる。
いっそ男らしく「俺が見張ってやるよ」とでも言おうかと思いながら渋るシャネス。しかしその頭が掴まれ、ぐいっと後ろに倒された。
「おわっ」
頭が着地したのは地面とは明らかに違う柔らかい感触の何か。赤く染まったミルの顔が見えた。
「……嫌だろ、こんなの」
「嫌じゃないです。私がしたくてしてるんですから、気にしないでください」
「…………じゃあ、お言葉に甘えます……」
シャネスはもう何かを言うのは止めた。ミルが頑固なのは今に始まったことではない。この膝枕も妙な義務感からだろう。
抗議は無駄だ。シャネスは大人しく言うことを聞いて目を瞑った。
しばらくするとミルはまた頭を撫で始めた。年下の女子に膝枕されながら頭を撫でられるという何とも言えない状態にシャネスは内心気が気でなかった。なにせ今は下着一枚。そして生理現象は意思で抑えつけられるものではないのだから。
目を瞑っていつつも感じる目の前の二つの物体による無言の圧。後頭部の柔らかい感触。そしてミルの優しい吐息――
「……せ、先輩……?」
「っ、ど、どうした?」
唐突な声にシャネスの心臓が跳ねる。どうにかなってしまいそうな状況下で何とかシャネスは理性を保つ。
「あ、あの……その……ずっと思ってたんですけど…………」
何やら言いにくそうな雰囲気。というか吐息が熱くなっている。速い鼓動は自分のものかミルのものか分からない。
ミルはやがて言った。
「お、男の人って……こんなに、ふ、太くて長いんですか…………?」
「はうあっ!?」
ドキリとシャネスの心臓が波打った。
嘘だ、まだ俺は――
「先輩の…………髪、って……」
「……ああそうだよ! 手入れしてないから荒れまくっててさー! はははははは!」
夜とは思えない――いや、むしろ夜だからこそのテンションでシャネスは押し切る。この空気はまずいと悟っていた。
「先輩が寝てるときも弄ってたんですけど、そしたら………ああ、男の人ってこんな感じなんだって、気付いちゃって……。そ、それで、私も自分のを触ったら……すごく濡れてて――」
「水から上がったばかりだからね! 他意はないよね! あと夜も遅いから寝ようか、うん! おやすみ!」
シャネスは口を閉じた。ミルに悪意がないのは分かっているが、もうこれ以上付き合ったら理性を保てる自信がなかった。
寝られる気がしねえなぁ……と思いながら、シャネスの試練の夜は明けていった。




