不死者、異世界へ!③
村の外れの山中には、数十年使われていない井戸がある。
昔は生活用水として、専ら村人に使われていたらしいが、今はその限りではない。
かつて村に疫病を振り撒き、村人を苦しめていた魔女が存在したと云われ、その魔女を封じる為、用いられたのが、この井戸だと代々語り継がれている。
井戸は魔女を封じる以前から『この世とあの世を繋ぐ場所』と言われていた曰く付きの場所だった。
だからだろう。
魔女を封じるための結界の場に選ばれたのは。
この世に生を受けて今年で七年目になる今日。
野城神妻は生まれ育った娯楽の少ない村に毎日怠屈していたが、今日だけは違った。
むしろ、今日に限って言えば、心踊る気持ちを抑えるのが大変なぐらいだ。
「ちょっと置いていかないでよ~、カヅくぅ~ん」
「嫌だね! もう祭り始まる時間なんだ。
早く来ないと置いてくぞ、みつ姉!」
夏の盛りに毎年行われる村祭りは、例年通り今回も夕方から神社の境内外にある正面広場で開始されることになっている。
「カヅ君、生意気! 私の方がお姉ちゃんなのに!
生意気!」
「なんで、同じこと二回言う!?
同じこと二回言ってしまうほど生意気だったって言うなら、すげ~心外なんだけど」
自称お姉ちゃんと言う、神妻より二つ歳上の麦わら帽子を被っている女の子は、神妻の本当の姉ではない。
親の再婚相手の連れ子が、神妻より歳上だったから姉になったとか、腹違いの姉とか、そういう羨まし設定でもない。
ただ、たんに近所の世話好きな、お姉ちゃん。
それが『美都みつ』と『野城神妻』の関係。
「奥さん、待ってよ~」
神妻とみつしか、この場にはいない。
みつが言う奥さんも主婦らしき人も見当たらない。
突然何を言っているんだ?
もしここに他の人がいたら、そう思うかもしれない。
けれど、この場にいたみつ以外の唯一が反応を示した。
お姉ちゃんこと、みつ姉の声を聞いた途端、先行してみつ姉を置いていこうとしていた神妻の足がピタリと止まったのだ。
それからぎこちない動きで身体を半回転、物凄く恨めしそうな形相をしつつも、みつの目の前までやって来た。
「誰が奥さんだ! 誰が!」
奥さん=神妻のことだった。
「もう! カヅ君、目の前でがならないでよぉ。
だって、カヅ君の名前に『妻』って字あるじゃない?
妻――、……つまり奥さん!
……じゃない?」
「違うわ! いや、言葉の意味はそうだけど……、そういうことじゃなくて!
俺のこと、奥さんって呼ぶなって、何度も言ってるだろ、みつ姉!」
「ん~、日本語って難しいね、カヅ君」
「俺にとっては、時折みつ姉の取り扱いの方が難しく思えることがあるよ!」
話してる最中の神妻に構うことなく、みつが、
「隙あり!」
近付いた神妻の手を捕った。
そしてしたり顔で、
「これで私を置いて行けなくなったね」
いつもはのほほんとしてるくせに、気が付けばいつも主導権を握ってる姉に、神妻は深い溜め息を吐いた。
「……勝手にしてくれ。
ただし、こうなったらみつ姉にも頑張ってもらうぜ?」
「え?」
きょとんとするみつに、今度は神妻の方が笑みを見せた。
それもとびきり邪悪な笑みを。
こういう顔をする時の神妻が次に取る行動には、今までろくなことがなかったことをみつは思い出す。
そして不本意ながらすぐに自分の直感の正しさを我が身で知ることになろうとは。
「きゃああっ!! なに、なに!?」
みつに握られている手を、今度は神妻が握り返す。
よりにもよって山道から外れた、まったく踏み固められてさえいない、急傾斜の道なき獣道へとみつを引っ張り走り出したのだ。
飛び落ちそうになる麦わら帽子をみつは慌てて押さえる。
走り下りているというよりも、最早滑り落ちているという表現の方が正しい。
良い子は絶対に真似したらダメ、とお母さんに知れたら怒られるかしら。思いながらも、みつの足は傾斜の勢いに乗って止まってくれない。止まってくれないので、みつは恐怖を紛らわすために声を大きくあげた。
滑り落ちる進路上に木は立っておらず、もちろん茂みや岩が邪魔することもない障害物のないところを神妻が選んだわけだが、いかんせん加速のついた、この状況、みつには恐怖しかない。
みつの悲鳴が鳴り止むのと、滑り台のような獣道から開放され山道に踏み入れれたのは、ほぼ同時だった。
「うっはー! 面白怖かったな、みつ姉!
祭りの広場までさっきみたいのが、あと一回あるんだ。行こうぜ!」
みつの顔がみるみる蒼くなる。
次いで両肩をふるふると震わせ、
「絶対に行かない!! 一人で行ってきなさい!!
カヅ君なんて、大っ嫌いっ!! バカッ!!」
なにもバカって言わなくても、と思う神妻だったが、半べそ状態で怒鳴るみつの迫力に負けて、口をつぐむしかなかった。
「わかったよ、一人で行くよ。
まぁ、この道ならみつ姉も分かるよな?
ここから七、八分も走れば神社前の広場に着くはずだから」
「うん。でも走らないけどね」
じゃ、また後で。……と挨拶をし、つれないみつの要望通り、一人で行くことにした神妻。
さっきと同じように進路上に障害物がないのを確認してから、急な坂を駆け下りて行く。
加速がつき過ぎて足が縺れそうになるが、なんとか持ち堪えて、無事に坂を下り終えた。
「はぁはぁ……近道なのは良いけど、しんど過ぎるのがネックか。下手したら怪我するぞ、これ。みつ姉付いて来なくて正解だったかもなぁ。
特段、みつ姉も運動神経が悪いわけじゃないけど、なにせ女の子だし」
男と違って、肌に傷でも負って残ったら大変だ。
誘っといてなんではあるが、と心の中で付け加えとく。
実はこの道とは言えない道を使ったのは、神妻も今日が初めてで、前々から行けそうだと思っていたのを、今試した次第だったりする。
「だいたい神社の裏側あたりか。
このまま神社に向かって抜ければ、広場まですぐのはず」
そう言って、前方に広がる背丈ほどの高さの茂みを掻き分け、前へ進む。
「……なんだ、これ?」
視界が広がった神妻の目に入ったのは石造りの円形のもの。直径一メートルと数十センチぐらいの大きさ。
石と石の隙間のあちこちに苔が生えており、石そのものもところどころ角が欠けたり、ヒビがあったりで随分と古めかしい。
天辺には、石造りの形に合わせた円形の鉄蓋がしており、茶色く錆にまみれたそれは、こちらも十分に年季を感じさせた。
要するに古い井戸である。
井戸を塞いでいる鉄蓋の厚さは五センチほどもあり、それだけでも十分に閉じるという役目を果たしていると思われる。それなのに蓋の上には、さらに表面いっぱいの大きさをした岩が敷かれており、その厳重さにこの井戸の異様さを神妻に思わせた。
「神社の近くにこんな薄気味悪い井戸があったとはなぁ。
茂みに囲われてちゃ、今まで見つからんわけだ」
「……………………か?」
一陣の風に乗って声が聞こえた気がした。
辺りをぐるっと見渡してみるが誰もいない。
よく聞こえなかったので神妻は訝しげながら、今度はちゃんと耳を傾けてみる。
「だ…………い……すか?」
聞き間違いでもなく、確かに聞こえた。
女の子の声。
声が何かに反響したような感じで聞き取りづらい。
「誰かいますか?」
今度も声の反響がありつつも、しかしながらはっきり聞こえた。
声が響いていて分かりづらいが、神妻には聞き覚えのない声に思える。
そして驚くことに、その声は前方の……目の前にある井戸からのものだった。
「まさか、この井戸の中に誰かいるのか!?」
如何にも重そうな鉄蓋に、さらにその上に岩が乗っかっているこの状況で、自分から井戸に入って蓋を閉じるのは絶対に無理だ。
誰かが井戸を外から塞いだのだ。
知ってか知らずかわからないが、井戸に誰かいるにも関わらず。
「ちょっと待ってろ! すぐ出してやるから!」
自分一人で動かすのは大変かもしれないが、中からは無理でも外から少しずつなら動かせるかもしれない。
まずは重石になっている岩を退かす。
次いでこちらも重そうな鉄の蓋だ――そう神妻が思っていたところに、井戸の中から神妻に制止を呼び掛ける声がした。
「ううん、私は大丈夫。どうか、そのままでいて」
「そのままって……中から出ないってこと? どうして?」
閉じ込められれば、誰しもそこから抜け出したくなるもの――それが当たり前なことで、考えるまでもなくそうするものと思っていた神妻には、声の主が何を言ったのか理解できなかった。
悪戯をして父親にバレた時、よく押入れなり裏小屋に閉じ込められたものだが、いつも「ここから出してくれ」「絶対すぐに抜け出してやる」などと思ったものだ。
ところが井戸の中にいる女の声は、神妻の時と過程はおそらく違うとしても反対の選択をしたのだった。
理解できない。
できないから、次の言葉が生まれない。続かない。
だから神妻はさっきの問いを反芻するしかなくて、
「……どうして?」
一度目よりもやや弱い口調で再度口にした。
「ごめんなさい。助けようとしてくれたのに……
でも私は良いの、このままで。
ただ……願わくば、一つだけお願いがあります」
井戸から助けてもらう以上のお願いって何なんだろうと、神妻は息を呑む。
まだ小学生でしかない神妻にできることなどたかがしれている。
しかしながら、井戸の中に閉じ込められている状況で、自分の姿が見えない以上、そんなこと察してもらえるとも思えない。
お願いを無下に断るのも悪い気がして躊躇われるしで、どうして良いかわからず、神妻は軽い緊張を持って井戸の主の次の言葉を待つことにした。
そんな神妻の心情を知ってか知らずか、
「私の話し相手になって欲しいの」
神妻の心配はなんだったのか――
彼女の願いは神妻でも簡単に叶えてあげれそうなものだった。
相手に見えないのに、神妻は頭を縦に一度振ると、
「もちろん」
さっきまでどう応えるか悩んでいたのが馬鹿馬鹿しいぐらい、きっぱり答えた。