ホリゾンブルードロップ
「夏休み×1」「夏ノ夜空二、散ル花ハ」の外伝
「真夏のリハビリ企画」参加作品
今回はある学生さんが主人公です。
活動報告もご覧いただくと分かりやすいと思います。
学生ホールの空いた席に座ってコンビニおにぎりの包装を剥がした。教科書も開いたところにひょろっとした人影。昊くんが立っていた。
「お勉強?」
「まぁね、そっちはお休み?」
「そ」
俺は専門学校で理学療法士になるための勉強をしている。昊くんは俺より7歳上の夜間部の2年生で、普段は病院でリハビリ助手のアルバイトをしている。昊くんがサングラスをしたまま俺の向かいに座った。疲れた顔をしているからまたスカウトだろう。
「スカウトのきっかけ、彼女さんのインスタなんだね」
「勝手なことしてくれちゃってさー……参るよ」
「サングラス替えれば?」
「やったけどバレるんだよ」
昊くんは流行りのマッシュショートを掻き混ぜて苦笑した。さらさらしたアッシュグレーが目を引いた。
昊くんは図書室で自習をすると言って学生ホールから出て行った。
「またサングラスのままだったね」
看護学部に在籍する葛城結唯が俺の向かいに座っていた。周りはマドンナ扱いするけど、コイツはずっと好きじゃない。
「相内さん。ここ別に陽が射してるわけでもないのに」
結唯を無視してレタスサンドを開けた。話題になった昊くんの写真を開いた。今日もかけていた縁の細いボストンサングラスをかけた彼が立膝でどこかを眺めている。表情ばかりに目がいくのは服が何の変哲もないカットソーだからだろうか。
「ねぇ、相内さんって彼女に学費出してもらったんだって。やっぱりって思ったけど」
口を半開きした写真の中の昊くんは小児的で、それなのに首に浮き出る喉仏や煙草を持つ骨ばった手のせいで雄の匂いがする。目を隠すグレーのレンズは秘密のベールに見えた。
「あの人に関わったらロクな目に合わないよ。寄生されたりするかもしれないじゃん」
じゃあじゃあと蝉の鳴き声が聞こえる。たぶん近くの木に止まってるんだろう。俺は最後の一口を放り込んだ。
「ねぇ、来栖くんの為に言うけど、あの人と関わるのやめた方がいいよ」
「お前が俺に警告出来るほど立派な立ち位置にいると思えないけど」
色々勘違いを起こしている向かいの女が蝉よりもウザかったからゴミを捨ててホールを足早に出た。次は確か講義だったと思う。
今日は日曜日。バイト先のカフェがある吉祥寺に行く為に電車に乗った。そこそこ混んでいる車内にぽつぽつと人が入る。電車に乗って出入口のそばにある手すりに捕まったのはお腹の大きな女性だった。息を整えている女性の足元には大きく膨らんだトートバッグが二つ。
「おかけになりますか?」
「え…ありがとうございます」
女性はゆっくり座席に座った。トートバッグは彼女の足元に寄せた。
「お荷物大丈夫ですか?」
「えぇ、安かったから買い過ぎちゃって」
困ったように女性が笑った。どんぐり眼に小さい鼻、顔の輪郭がすっきりとした美人だった。
「お持ちしますか?」
「いえ、ご用事がありそうですし、旦那が吉祥寺駅の前まで迎えに来るので大丈夫です!」
「僕も吉祥寺で降りますし、時間も少しありますから気にしないでください」
「すみません……じゃあお願いします」
ずっしりしたトート二つと軽い俺のバッグを交換して電車を降りた。旦那さんの話を聞くと彼女は真っ黒けな会社で働いていたところを今の旦那さんに助けられたという。元々彼と生きていくどころか高校時代から人生を終わらせてもいいと思っていたらしい。エレベーターを降りて改札を抜けたところで体格のいい男性と目が合った。
「椎菜!」
「ただいま」
「1人で出歩いちゃダメだってばぁ!」
「ごめん調子良いから僕も歩こうと思って」
「じゃあ声かけてよ!」
「ごめんて」
旦那さんは叱っているようだけど彼女にペースを持っていかれてるように見える。僕って言った。かわいい。のんびり屋な彼女と優しい彼が歩く未来はきっと明るい。俺に何度も礼を言う旦那さんと会釈をする奥さんに「お気をつけて」と言ってバイト先へ向かった。
小さいカフェはまだ開いたばかり。裏口から入ってマスターへの挨拶もそこそこに身支度を始めた。店に出るともうお客さんがいた。
「あれ? なっちゃん久しぶり」
「こんにちは、神谷さん」
ここはオフィス街や学校から少し離れているので混むことはないけど常連さんがいるくらいには経営が回っている。多分、紅茶好きなマスターこだわりの紅茶とママさん特製プリンが理由だと思う。
神谷さんはここの常連さんで、派手なファッションとは裏腹な柔らかい口調と花が飛ぶような笑顔が素敵な女性だ。マスターいわく優秀なシステムエンジニアらしい。この人ギャップあり過ぎだろ。
「ランチ1つドリンクはディンブラのストレートをアイスでよろしいですか?」
「ごめん今日2つ。ドリンクは同じやつで」
「? かしこまりました」
注文を受けた俺は調理補助のためキッチンに入った。ハヤシライスのご飯を盛ってママさんに渡す。そしたらプリンを2つ出しておく。ママさんが笑顔だったからOKってことだろう。
俺の独断でやった「おまけ」に神谷さんは嬉しそうだった。彼女のほにゃっとした笑顔に満足したところで来客のベルが鳴った。
「あ、来た! ねぇホラおまけしてくれたよ!」
「マジか。ありがとうございます」
ごく最近聞いたような低音が店内に通る。入り口の方に目を向けると若い男がいた。長身痩躯で、白い顔には切れ長の目と高い鼻が綺麗に収まっている。何より目を引いたのは、東洋人には滅多に見られない碧眼だった。この暑いのに、氷雪の国から王子が来たのかとさえ思った。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは、この人が気に入ってる店って言うから気になって」
マスターと話す男をキッチンから見る。彼が店に来たのは初めてだと思う。思う、っていうのは、どこかで見たような気がするから。俺がどこで見たのか思い出しているうちにまたお客さんが入ってきた。
常連のご婦人を相手に世間話をしていると、神谷さんと連れの男がハヤシライスを食べ終えてプリンを楽しんでいた。「ごゆっくりどうぞ」とご婦人のテーブルから離れてカウンターに戻った。
「こちら伝票です」
「あ、はーい」
神谷さんの側に伝票を置いてテーブルを拭く為の布巾を持って来ようとしたら碧眼の男と目が合った。男はアイスティーをストローで啜っていた。何か話さないといけないのに言葉が出ない。
「あの…」
「ありがとね那智」
ストローを咥えた唇が妖しげに微笑った。あぁ、そうだったんだ。なんで言ってくれなかったの?
「昊、やめな? ビックリしてる」
神谷さんは楽しそうに笑いながら残り一口だったプリンを口に入れた。一方、俺は思いがけず昊くんに会ったことに驚いたのと、昊くんと目の前の男の雰囲気が全く同じだったということに「やっぱりな」というのが混ざって噴き出してしまった。
「やっぱり昊くんだったの」
「やっぱりって気づいてなかっただろお前」
昊くんは苦笑してスツールから降りた。神谷さんがレジスターの前に来たから俺も会計をするためにカウンターを出た。
バイトが終わってゆるゆると自宅までの道を歩く。音楽プレーヤーの時計は16時41分。夏の夕空を見て、そういえば昊くんの瞳を見たのは初めてだったことを知る。甘やかで、爽やかで、儚げで、なんともいえない瞳。すごく神秘的だと思った。でも、地平線に乗った夏の空のような柔らかな青はまたきっとグレーのレンズに隠される。
昊くんがあとから来た理由
「やべぇコンビニのトイレに財布忘れた」
「え~!? もう早く戻ろうよ大変だよ!」
「場所分かるから先行ってて? 急いで行くから」
「いいよゆっくりで。汗かくの嫌でしょ? 注文しとくし」
「わかった」
お付き合いいただき、ありがとうございます