ゲラゲラ
駅のホームは閑散としていた。今日は昼までに出社すればよかったので、俺はのんびりとした気分と開放感を楽しみながら電車を待った。いつも見慣れているはずの駅の景色はまったく異なる顔を見せていて、新鮮な印象をさせていた。するとふいに右斜め後方から笑い声がした。何気なく反射的に振り返ると男が笑っていた。背広姿の中年男性で、髪はツーブロックに整えられ、ウェリントンタイプのメガネをかけていて役所勤めか銀行員のような印象だ。連れは居らず、男はひとりで笑っていた。何かを読んで笑っているようでもなく、明らかに俺を見て笑っていた。俺と目が合っても気にするようすもなく、げらげらと笑い続けていた。俺は嫌な気分になったが無視することにした。再び線路の方を眺めながら、何も聞こえず、何もなかったかのように振舞った。
後ろで男は笑い続けていた。げらげらという笑い声は益々大きくなり、ほぼ無人のホームに響き渡った。
(構うな、構うな。冷静に、冷静に)
俺は頭の中で繰り返した。先ほど路上で出会ったニャンコを思い出したり、昨日ラッキースケベに与り混み合ったエレベーターの中で肘に当たっていたアルバイトの女の子のおっぱいの感触を再現させたりと務めて頭の中に障壁を築こうと集中した。だがそれは徒労に終わった。俺の我慢は限界に達しようとしていた。
俺は凄い勢いで体を捻ると男に言った。「ちょっとあなた、なんですか!」
だが、表情と口調は穏かであるように努めた。トラブルは求めていないし、俺はけんかに弱い。しかし男は相も変わらず笑い続けた。
「ねえ、僕のことを笑っているんですか? 何かおかしいですか? ちょっと。笑ってばかりいないで答えてくださいよ」
男はそんな俺のようすを見て、いっそう笑い声を大きくした。両手で腹を押さえ、体を丸めながら笑っている。ひーひーと息を漏らし、ときおりげほげほと苦しそうに咽て、呼吸が整うとまた笑った。
俺はそのようすを睨みつけていたが、なんだか妙な気分が身体の中心に生まれ、じわりじわりと全身に広がっていくような感覚に気がついた。おかしな気持ちになり、ついには「ぷっ」と吹き出してしまった。男はそれを見てさらにげらげらと笑った。俺は「くすくす」と肩を震わせながら笑いはじめ、その笑いは次第に大きくなり、とうとうげらげらと大笑いになってしまった。俺と男は駅のホームでげらげらと大笑いをした。笑いは止まることなく、いつまでも続いた。ふたつのげらげらという笑い声は構内に高らかに響いた。
紅いワンピースにベージュのパンプスの若い女性がホームにやって来た。スマホをいじりながら電車を待っていたが、後ろで笑い続ける我々の存在に気付きちらりと見た。だが、女性は何もなかったかのようにスマホに意識を戻した。
しばらくして女性は身体をこちらに向けた。表情は険しかった。
「ねえ! なに、あなたたち!」
だけど我々は笑い続けた。女性を見ながらげらげらと笑い続けていた。