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* 2-(2) *


 寮の玄関で、サスケは下駄箱の上の白い厚紙製の箱を手に取り、ズイッとハナの目の前に差し出した。

「午前中はランニングだ。あの藤堂とかいうヤツの屋敷から ここまで、普通に歩けるってことは、ハナは それなりに体力があるんだけど、体力は あればあるほどいいからな」

 ハナは条件反射で箱を受け取りながら、これまた 既にほとんど条件反射のような、

「はい! 師匠っ! 」

返事をし、手渡された箱を開けてみる。白い運動靴だった。

「研修生用のシューズだ。サイズは いいと思うぜ? ハナが ここに履いて来た靴を確認して、シュンジイさんが用意してくれたやつだから」

言いながら、サスケ、管理人室の小窓の向こうのシュンジイに目をやる。

 つられて目をやり、シュンジイと目が合ったため、ハナ、

「あ、ありがとうございます! シュンジイさんっ! 」

 シュンジイは、ニコッと笑み、右手を上げて返した。

「よし、行くか」

言って、サスケはハナに背を向け、下駄箱から自分のスニーカーを出して 玄関の土足スペースに放り出すようにして置いてから、つっかける形で履いて歩き出そうとする。

 ハナ、トイレに行きたかったため、焦って、

「あ、あの! 師匠っ! 」

止める。

「御手洗いに行きたいですっ! 」

 サスケ、振り返り、

「ん? ああ、そうだな。オレも済ませとくか」




 それぞれ用を足して、再び寮の玄関。トイレに行く前に脱いだままにしてあった靴をつっかけ さっさと外に出て行こうとするサスケの背中を、ハナは急いで追おうと、運動靴を箱から出し 土足スペースに置いて履き、一歩踏み出した。瞬間、

(っ! )

ステーンッ! と見事な音をたてて思いきり転んでしまった。

 サスケがギョッとしたような顔で振り返って固まり、シュンジイが驚いた様子で小窓から顔を出したのを、それぞれ目の両端に映しながら、

(痛……。お腹 打っちゃった……)

ハナは起き上がり、転んだ拍子に脱げた運動靴に手を伸ばす。片方を持ち上げただけで もう片方も ついてきた。左右の靴が 細く白いプラスチックのようなもので出来た紐でつながっていたのだ。

(ああ、これのせいか……)

 小窓からシュンジイが、

「ハナちゃん、大丈夫かい? 」

「あ、はいっ、大丈夫でっす! 」

 と、サスケが無言でハナに歩み寄って来て しゃがみ、

「靴、貸してみ? 」

ハナの手の中の靴に手を伸ばして取り、歯でプラスチックの紐を切って、ハナに戻す。

「師匠、すみません! ありがとうございますっ! 」

 サスケ、頷き、

「よし、じゃあ、今度こそ行くぞ」

 そこへ突然、

「うーん、いいねー……」

シュンジイが唸った。

「何か、微笑ましいね。娘が大きくなっても幼い頃と変わらず仲良くできてる父娘おやこみたい。オジサン向けファンタジーだね」

 サスケは、えーっ? と声を上げる。

「勘弁して下さいよー。まだボク、こんなデカい子供のいる歳じゃないっすよー! 」

 本日絶好調のハナ、シュンジイの発言に、

(『オジサン向けファンタジー』……? って、何だろ……? )

と、なりつつも、とりあえず、それは置いておいて、

「師匠がお父さんだったら、相当 自慢のお父さんですよねっ! 若くて、カッコよくて! 」

すかさず お世辞。言いながら、切なくなってきた。

(…私のお父さんも、自慢のお父さんだったんだけどな……)

そのまま落ち込んでしまいそうになって、ハナは、ごまかそうと、意識して勢いよく立ち上がり、靴に足を突っ込んで、

「雪村花、走りまっす! 」

大きめの声で宣言し、軽い駆け足で外へ。

 サスケやシュンジイに、落ち込んでいる姿を見られたくなかった。見られたら、うっとおしいと 嫌がられそうで……。

 後ろから、

「おいー、ハナー! 先に準備体操ーっ! 」

サスケの声が追いかけてくる。




 寮の玄関の真正面、裏門を出たところで追いついたサスケの指導の下、準備体操を済ませてから、ハナはサスケの後に従って、裏門前の道を右手側へ。

 右手側へ走ってすぐ、植えられている街路樹から銀杏ぎんなん街道と名付けられている幹線道路と交わる交差点の横断歩道の信号待ちで、斜向かいに、ハナの通う高校の正門が見えた。今日は平日。どこで運命がズレたのだろう。何かの ちょっとした加減の違いで、今頃 自分も、あの正門の内側で普通に勉強していたりしたかも知れないと、ハナは思った。しかし何故だか、今 自分が実際に置かれている立場のほうが、当たり前に感じられていた。

 信号が変わり、サスケが走り出す。

 ハナも続いて横断歩道を渡り、高校と自動車学校の間の道を 高校の敷地を左手に見ながら走る。 高校の生け垣のすぐ向こうにチラチラ見え隠れする体育の授業中らしい体育着姿が、少し離れた所に見える3階の渡り廊下の制服姿が、何だか別の世界のもののように思えた。

 駅前繁華街を抜け、市役所・保健センター・老人福祉施設の裏手を通り、施設と市立病院の敷地とを曖昧に分ける 誰でも自由に通行出来る雑木林の中の遊歩道を走る。 

 サスケのペースは速い。一生懸命ついて行こうとするハナだが、サスケとの距離は開く一方。

 遊歩道出口に着いたサスケが、その場で足踏みしながら ハナを振り返る。

「どうしたー? ハナー! キツいかー? ペース落とすかー? 」

 ハナ、見放されるのを恐れ、

「いえ! 大丈夫ですっ! 」

力を振り絞り、全速力でサスケの許へ向かう。

 速く走りすぎて、ハナの頭はグワングワンしていた。視界が揺れ、真っ直ぐ走れている自信が無い。だが、サスケの姿は確実に、グングン近く大きくなっていく。

(あと少しっ! あと5歩? くらい? で師匠のトコだ! )

 そこへ、

「おっ? やるねえー」

サスケから声が掛かった。

(褒められたっ! )

ハナは嬉しくて、もっと褒めてほしくなり、サスケの横を そのまま止まらず、スピードも落とさず、走り抜けようとした。

 しかし、

「おっと」

サスケに二の腕を掴まれ 止められる。

「すぐそこは駐車場だぜ? 車に撥ねられたいか? 昨日の夜 飛び降りた時も そうだったけど、確認しないのは、ハナの悪いクセだな。 直さねえと、セキュリティの そこそこ しっかりした場所に忍び込むには、致命的だぜ? 」




 遊歩道を出た先の市立病院の駐車場を通り抜け、通称・市民通りという 市の公共施設が多く在る幹線道路に出て右、来た方向へと、その整備された広い歩道を、ハナ、ひたすら サスケについて走る。

 踏切を渡ると、道路を挟んで左手側に、ほんの2ヵ月ほど前までハナが住んでいたマンションがある。そこで暮らしていた頃は幸せだったと、その時には当たり前に感じていたが、今になって しみじみ思う。

 ハナはマンションが視界に入らないよう、顔を軽く右に向けて俯き、少しスピードを上げて通り過ぎた。

 だが、何が違うのだろう、と思う。マンションに住んでいた頃、何故 あんなに幸福感に包まれていたのだろう、と。むしろ、窮屈ではなかったか? と。アパートに引っ越してからの生活のほうが、自由で、実は気に入っていたのでは? と。……父の友人や仕事関係の人が訪れる度に、ピアノを弾かされたり、一緒に お茶を飲みながら会話に付き合わされることもなくなった。母の手料理に いちいち感想を求められることも無くなった。服や文具を買い与えられることもなくなったが、以前 与えられていた物で充分足りていた。習い事を全部やめたため時間が出来て、別の目的のほうが大きかったのは事実だが ただ単純に好きでもある本を、毎日 学校で借りて帰っては、心ゆくまで読み耽ることが出来た。本当に、何が違うのだろう。

(…やっぱ、ひとつだけか……)

父の変化……それだけだ。全ては 藤堂……あの男のせいで……。

「ハナ」

名を呼ばれて、ハナは ハッと顔を上げる。自分の前にいたはずのサスケがいない。

 ハナ、足を止め、キョロッと首を動かしてサスケを捜すと、サスケはハナの左斜め後ろにいた。

 同じ 今 走っていた市民通りと銀杏街道が交わる大きな交差点でも、ハナが立っている場所は 銀杏街道を渡ることになる、自動車学校敷地側面とキリ・セキュリティ敷地側面を結ぶ横断歩道の手前。サスケが立っているのは 市民通りを渡ることになる 自動車学校正門とカトーナノカドー西側入口を結ぶ横断歩道の前。考え事をしていたために、いつの間にかサスケを追い越し 通り過ぎてしまっていたのだ。

「ハナ、こっち」

サスケはハナを手招き、親指でナノカドーを指して、

「ちょっと、そこ 寄ってくから」




 サスケの後をついて ナノカドーの入口を入りながら、ハナは、胸がキュッとなる。

 明るい照明、軽快なBGM、新しい物だらけの独特の匂い……。ここは、ハナにとって ちょっと特別な場所だ。

 ハナは ここに、ひとりで来たことや友達同士で来たことは ほとんど無い。いつも、大体 大人と一緒だった。両親と買物したり食事をしたりして楽しく過ごした場所。そして……そこまでで気分が悪くなった。両親の笑顔の思い出を、藤堂の あの気持ちの悪い笑顔に邪魔されたのだ。ここへは、藤堂とも時々、一緒に来た。バーベキューの材料の買物や、ハナの誕生日プレゼント選びで……。

 ハナは一度 深呼吸して、気持ちを切り替えてから、

「師匠っ、お買物ですか? 」

 答えてサスケ、ハナが着替えやタオル類など生活に必要な物を何も持っていないため それらを買うのだ、と。

「ありがとうございますっ! さっすが師匠! 細やかな気遣いですねっ! 」

 サスケ、そうだろうとも、と、冗談っぽく ふんぞり返って見せてから、ちょっと肩を竦め、

「なんてな、本当はツキなんだ。ハナにバイトをさせようってのも、ツキの案」

「あ、そうなんですかっ? ツキさんて、外見だけでなく、本当にステキな女性ですよね! 昨日も色々と、私の世話をして下さったんですっ! 」

素直に直接的な表現でツキを褒めてしまってから、ハナは、ふと思いつき、しまった と思った。

(師匠の良い奥様になりそうですよね、とか、言えばよかった。そっちのほうが、絶対、師匠、喜ぶのに……)

 サスケも、ごく普通に、そうだなー、と返す。

 ハナ、次の機会には頑張ろう、と、心に誓った。


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