* 5-(2) *
(…どうしよう……)
ナノカドーの食品売場、生クリーム等の乳製品売場の前で、ハナは途方に暮れた。
昼食後に始めたクリスマスパーティの準備中、生クリームを買い忘れていたことに気づいたサスケに頼まれ、買いに来たのだが、売場に見当たらず、店員に確認したところ、まさかの売り切れ。
(他に、生クリーム 売ってるトコって……)
考えたが、自宅アパート近くの商店しか思い浮かばない。
(行きたくないな……)
会社を辞めさせられて以降、引っ越しで前のマンションから現在のアパートへ移動する時以外、ハナの知る限り全く外に出なかった父だが、今、父は独りなのだ。近くの商店にぐらいフラフラッと買物にでも出て来て、鉢合わせるかもしれない。
(でも、ケーキ食べたいし……。買って帰らないと師匠に怒られるだろうし……。仕方ない)
会わないように気をつけて行こう、と、決心し、ハナは、西側入口からナノカドーを出た。
市民通りと交わる線路沿いの道を、ハナは自宅方向へ。この道を通るのは、本当に久し振り。家を出た日以来だ。
商店は、自宅アパートを少し通り過ぎた所にある。
アパートが近くなるにつれ、ハナの足は重くなっていった。
(……? )
自宅アパートの前に パトカーと救急車が停まっており、自宅の玄関が開け放たれ、2階へと続く階段の上り口に通せんぼするように立つ2人の警察官の前に人垣が出来ている。
(…何……? )
ハナの胸の底のほうが、低く、ドクン、と鳴った。何となく その場を離れることが出来ず、人垣の最後列で見守る。
ややして、その開け放たれた玄関から、担架が救急隊員に運ばれて出て来た。
警察によって分けられた人垣の間を通って救急車に向かう担架。担架に掛けられた毛布が、人の形に膨らんでいる。頭から爪先までスッポリと毛布に覆われ、誰だか分からない。
(誰……? )
救急車は、担架と救急隊員を乗せ、走り出した。静かに、サイレンを鳴らさず、赤い回転灯も点けず、自宅アパート前の道路を、標識通り 時速30キロほどの速度で、ハナが来た方向とは逆の方向へ。
自宅玄関から運ばれて出て来たのが誰なのか、何があったのか……。かなり高い確率で、ハナは無関係ではない。
ザワザワ騒ぐ胸を抱え、ハナは、救急車を追って走り出す。
救急車は、すぐの角を左折。追ってハナが曲がった時には、その先でT字にぶつかる銀杏街道へ右折で出て行くべく、右にウインカーを出して停まっているところだった。
ハナ、急いで追いつき、救急車の脇をすり抜けて追い越し、先に右に曲がって、時々 後ろを向いて救急車を確認しつつ先を走る。救急車が どこの病院へ向かっているか分からず、いつどこで また曲がるか予想できないが、銀杏街道は50キロ道路であるため、何故か一般の交通ルールに従って走行しているものと思われるとは言え、まともに走り出されては、少しでもリードしておかないと ついて行ける自信が無いのだ。
救急車が銀杏街道に出た。相変わらずサイレンを鳴らさず、回転灯も点けず、標識に則って五十キロ。一般車輌の流れに乗って走ってくる。
ハナは頑張って走るが、やはり途中で追い抜かれ、差をつけられ、しかし、救急車が赤信号で止められている間に追いつき、追い越し、リードし、それでもまた 青信号になると抜かれ、差をつけられ……の、繰り返し。
*
銀杏街道に出てから12・3キロほど走った頃だろうか、救急車が左にウインカーを出し、車が2台すれ違えるくらいの広い門を入って行く。
(…警察……っ? )
そこは、警察署だった。
(どうして警察なの……? 病院じゃないの……? )
門を入った救急車は、警察署の駐車場内を徐行し、駐車場隅の、白く塗られたコンクリート壁の小さな建物の前に着けた。
ハナは、駐車場に停まっている一般の車などの陰に隠れながら移動、最終的には 救急車の着けた白い建物のすぐ横の植え込みに身を隠し、様子を窺った。
建物の、軽そうな金属製の銀色のドアの横に、白衣姿の男性が1人、立っている。
救急車の後ろのドアが開き、車内へ運び込まれた時の担架ではなく、今度はストレッチャーに乗せられて、全身をスッポリと毛布で覆われた人が運び出された。
白衣の男性が建物のドアを開け、救急隊員がストレッチャーを動かして中へ入り、それに付き添う形で白衣の男性も中へ。
ちょっともしないうちに、救急隊員と、中身が空になったらしいペタンコになった毛布を載せたストレッチャーだけが出て来、ドアが閉まった。
救急車が、救急隊員とストレッチャーを乗せ、静かに去って行く。
辺りは静まり返った。銀杏街道からの車の音と、警察署のメインの入口付近の人の声が、遠くに聞こえるだけ。
騒ぎ続ける胸。ハナは、どうしよう、と、頭を巡らす。
建物の中の様子を知りたい。人が中にいることは明らかなのだが、建物の中からは、頑張って耳を澄ませても、物音も人の声も聞こえてこなかった。植え込みの陰からでは、もう、何の情報も得られないと思った。
と、その時、救急車が行ってしまってから ものの数分か、先程の白衣の男性が1人で建物の中から出て来、ドアを閉め、鍵をかけて、メイン入口方向へ去って行った。
(外から わざわざ鍵をかけるってことは、中から鍵をかけれる人がいない? )
つまり、今、建物の中には、たった今 救急車で運ばれて来た人と、他にいたとしても 同じように 自分では身動き出来ない人だけということだと判断し、ハナ、辺りに注意を払いつつ植え込みの陰から出、建物に近づく。
ドアの、ハナの目線より少し上の位置に、「検視室」と書かれたプレートが貼ってあった。
(検視室……? って、何だろ……? )
ハナは、さっき男性が鍵をかけているのを見たが、間違って開いてくれないかと、ドアノブを回しながら そっと引いてみるが、
(……やっぱダメか)
ドアは、引っ張られたことで揺れるだけ。
ハナは諦め、建物側面へ回る。正面から見た場合の右側面・左側面、いずれにも窓があったが、鍵が掛かっていた上、磨りガラスで中が全く見えない。残るは、裏。 裏手には、やはり磨りガラスの、横に細長い窓が、背伸びをして腕を伸ばし ようやく指の掛かるくらいの高い位置にあった。
ハナは、一縷の望みを託し、片手を伸ばして指先に力を込めてみる。
(開いたっ! )
何と、鍵が掛かっていなかった。
音をたてないよう、そうっと、ゆっくりと、窓を 開くところまで開けるハナ。そして、一旦、伸ばした手を引っ込め、膝を曲げることで反動をつけてジャンプ。開けた窓の枠に両手のひらをついて体を持ち上げ、そこに上る。
修行の成果か そんなことを易々とやってのけられた自分に少々驚きつつ、窓枠から見下ろした その建物内部は、12畳ほどの1つの部屋になっていた。コンクリートむき出しの床や壁や天井。日が当たっていないため薄暗く、室温は、真冬の外気よりも更に冷たい。
壁に寄せて、ファイルの並ぶ書棚と薬品と思しき瓶の並ぶガラス戸棚、それから何かの機械数個が置かれており、部屋中央に 幅の狭いベッドが3つ、人と人とが擦れ違える程度の隙間をあけて並べられ、うち真ん中の1つだけに 白いシーツが掛けられて、そのシーツの中に人が寝ていると思われる膨らみがある。
ハナの足下には流し台。ステンレス製で弱そうなため、へこませないよう気を遣って、静かに その上に下りる。
薬品の臭いと腐敗臭が鼻をつくが、腐ったものが実際に そこにあるというより、部屋全体に染み付いた臭いといった感じだ。
ハナは、3つ並んだベッドのうち、シーツが掛けられている真ん中のベッドに歩み寄った。
自宅から運び出された人は、救急車で この建物に運ばれ、出てきていない。この建物に、他に部屋は無い。例えばハナが自宅から運び出される人を見るよりも前に 一緒の救急車の中に別の人が既に運ばれて車内にいて、ハナの見た自宅から運び出された人は ここでは救急車から降ろされていない、とかでない限り、真ん中のベッドの膨らみが、自宅から運び出された人で間違いない。
シーツをめくろうとハナは手を伸ばすが、たった20センチ先のシーツに、手が届かない。
ハナは、震えていた。怖いのだ。シーツの中の人が、生きている気がしなくて。生きている人間の頭から 毛布やシーツを掛けるなどありえない気がして……。
怖い。それでも、何故か確認せずにはいられない。
手の震えを どうにか抑え、恐る恐るシーツをめくった。 瞬間、
(……! )
ハナは、頭のてっぺんから爪先まで、スウッと冷たくなっていく感覚を覚えた。一瞬、呼吸を忘れた。
(…お、父さ…ん……)
そこに横たわっていたのは、父だった。
驚きとは多分違う。騒ぐ胸の奥で、無意識のうちに そうではないかと感じていたのかもしれない。
部屋が薄暗いせいか青白く見える、しかし、ハナが嫌っていた諸々の要素の抜けきった、穏やかで綺麗な顔。ハナの大好きだった頃の、仕事で疲れて帰って来た後の寝顔そのもの。
…確かめたくない……。
だったら確かめたりしなきゃいい……そう思うのに、何故か、本当に何故だか、吸い寄せられるように、呼吸を確かめるべく、手が父の鼻に伸びる。
(……)
分からない。
手で分からないなら頬でと、父に覆い被さるようになって、頬を鼻先に寄せる。父の鼻先が微かに頬に触れた。
(っ? )
その鼻先は驚くほど冷たくて……。呼吸も、自分の息を どんなに凝らしてみても、感じとることが出来なかった。
(…嘘、だよ……)
ハナは、必死で探す。
(違うっ! )
探す。…何を……? …父が生きている証拠を……。
シーツの中から 以前より重さを増したように感じられる父の手を引っ張り出し、手首の動脈に指を置く。頚動脈に指で触れる。更に大きくシーツをめくって シャツの胸をはだけさせ、心臓があると思われる位置にピタッと耳をくっつける。鼓動が、全く感じられない。
(……嘘だ! )
先程から、ハナが あちらこちら散々いじくりまわしているにもかかわらず、父は何の反応も示さない。
(お父さんっ! )
ハナは堪らず、父の はだけた胸に両手をつき、強く揺さぶった。
「……。……! ……っ! 」
お父さん。お父さん! お父さんっ! と呼びかけたつもりだったが、声にならなかった。
父を起こそうと、揺さぶり続けるハナ。しかし、父は横たわったまま微動だにしない。ただ 冷え切った固ゆで卵の表面のような感触だけが、父の胸に触れている指先から伝わる。
入口のほうで、カチャッと音が鳴った。
ビクッとし、ハナは、弾かれたように身を起こす。
入口のドアが、ごく普通に開いた。
ビクッ、に弾かれた勢いで、ハナ、入口を入って来ようとしている人の脇を姿勢を低くして摺り抜け、外に飛び出し、銀杏街道に面する門まで いっきに駆け抜ける。
門まで来たところで勢いが弱まり、徐々にスピードが落ちて、自然な形で立ち止まったハナは、ドクンドクンいっている胸を押さえながら、後ろを振り返った。誰も追ってきていない。
大きく息を吐いたところへ、ポツンと落ちてきた雫に頬を濡らされ、ハナは空を仰ぐ。
雨だ。雨が、降ってきた。




