* 1-(1) *
落ちていく。
(…なんか、気持ちいい……)
初めは身を斬られるように痛く冷たかった ビルの外壁を吹き上げる風が、次第に不思議と心地よく感じられてき、ハナは静かに目を閉じた。
(これで、全部おしまい……)
*
瞼の裏にボンヤリと、何か、映像のようなものが見えてきた。
(これは、私……? )
だんだんとハッキリ見えてくる映像。
(やっぱりそうだ。まだ小さい、幼稚園の頃の私。……そっか、これが噂の走馬灯……)
小さなハナは、全身 土で汚れ、それでも得意満面で、小さな両手で やっと持てる大きさのサツマイモを、ハナに向かって差し出している。
(どっかで見たな、この場面……。そうだ、藤堂のおじさまが録ったホームビデオ……。おじさまのおうちの菜園でイモ掘りをさせてもらった時の……)
藤堂はハナの父の会社の上司で、代々続く資産家の一人娘である奥さんと その両親と共に、お舅さんの持ち物である超のつく大邸宅で暮らしている。
ハナの父は当時、とても仕事が忙しかったため、普段 ハナの起きている時間に家にいることが ほとんど無く、一緒にいられることが少なかったが、仕事への誇りを持ちながら一緒にいられない家族に対して申し訳なさを感じられる父を、ハナは幼心にも尊敬していた。
父のことが大好きだったこともあり、父のたまの休みに藤堂宅に呼ばれては家族揃って出掛けるのが、幼い頃のハナには、とても楽しみだった。
お呼ばれの内容は、春はテニスコート前の庭の満開の桜の大木の下でバーベキュー、梅雨時には映画上映会、夏は花火大会、秋はイモ掘りに焼きイモ大会、冬はクリスマス会と餅つきと豆まき……といった具合。
逆に、ハナの誕生日やピアノ・バレエの発表会の時など、藤堂のほうが夫妻で来てくれることもあった。
瞼の裏、続いて見えてきたのは、父が自宅マンションのソファの上に陣取り 寝転がってテレビを見る姿の、動きは ほとんど無いが、一応 動画。
ハナの物心ついた頃には既に始まっていた藤堂との行き来は10年以上に渡って続き、最後は4ヵ月半くらい前、藤堂夫妻の銀婚祝い兼藤堂の社長就任祝いのホームパーティー。
……その日が、境だったように思う。
(……? …境……? 何の……? )
ハナの思考と共に映像が一時停止。
その日を境に、父の仕事が それまで以上に忙しくなったことは事実だが、その境ではない。
それより ほんの1ヵ月半ほど後のある日に、やたらと早い時間に帰宅した父が、その後、一歩も外に出ない日が何日も続いた。朝、ハナが学校へ出掛ける時には、まだ布団の中。土・日など学校の休みの日に見ている分には、昼近くになって起きてきても基本ソファの上。食事と風呂・トイレ以外 動かない。きっと長い間 休み無く働きっぱなしで疲れていて、やっと長期の休みが取れたため体を休めているのだろうと、ハナは勝手に解釈していたが、そんな折、ずっと専業主婦だった母が突然パート勤めを始め、ちょっと、あれ? と思った。そのまま1ヵ月が経過。さすがに、長いなと思った。丁度のタイミングで、ハナの疑問に答えるように、母が、ハナに荷造りをするよう言った。引っ越すから、と。父がリストラされ 再就職の目処もつかず 退職金も そう多くはなかったため、貯金と母のパート収入ではマンションのローンなど払えないから、と。初めて自分たち家族が置かれている状況を知らされた。
境は、ハナが 今 落ちている理由の始まり。
普通に考えれば、父が やたらと早い時間に帰宅した日が、境になりそうな気もするが、ハナの中では、何故か ホームパーティー後の忙しい日々と その後のリストラ後の日々がひとつの流れで、ホームパーティーの日こそが境であるように感じられていたのだった。
次に瞼の裏に見えてきたのは、引っ越した先の6畳と4畳半の2部屋しかない手狭なアパートの2階の一室。薄暗い台所の流し台で、父が不器用に皿を洗う姿。
引っ越し以降、父は進んで家事をするようになった。ハナは、その、父が家の中をモソモソウロウロ動く姿が、何となく嫌だった。家事をすること自体は良いことなのだろうが、何かが違う感じがした。何か、変に威張っている感じがするというか、毎日一日中家にいるせいか、ヌシのようになって……もともと父は一家の主であるという言い方も出来るかも知れないが、そういう意味合いではなく、川のヌシとか森のヌシとか呼ばれる生物のように、ただじっと、その場で目を光らせ全てを支配しようとしているような……。だが、結局のところ、父のしている家事は、気まぐれなお手伝い程度で、キチンと責任を持ってこなしているのは、母なのだ。
ヌシ気分で、直接言ってくるのではなく独り言気味だがハナや母に対しては文句が多く、自分はとにかくマイペースな現在の父。仕事をしている頃は、こんなふうではなかった。長い間、家の中にばかりいると、相手を思い遣る、互いに譲り合う、といった 基本的な社会性が失われてしまうのだろか。ハナが水を飲みたくて台所の流しが空くのを待っているのに気づいているのかいないのか、リサイクルに出す目的のペットボトルたった1本を、5分も6分もかけて ノッタリノッタリ洗っていたり、ハナが学校に母が仕事に出掛ける時間も出掛ける直前に必ずトイレに寄ることも知っているはずなのに、自分は一日中 家にいるから、いつでも寄れるはずなのに、わざわざハナや母の出掛ける直前のタイミングでトイレに行って、しかも大のほうをしてみたり……。ひとこと言えばいいのだろうが、父は、特にここ最近、話が長くなった。イエスかノーかで答えればいいだけのはずの話も、平気で10分・20分になる。毎回毎回そんなでは、面倒くさくて、話しかけるのを躊躇してしまう。そんなに誰かと話がしたいなら 早く次の仕事を探して外に出ればいいと思うのだが、再就職の目処がつかないも何も、再就職のための活動をしているようには、とても見えない。自身に就職活動の経験が無いため ちゃんとは分からないが、高校3年生であるハナの、卒業後の進路に就職を希望する同級生たちは、皆、新年度スタートと同時に足繁く校内の進路指導室に通い、夏休みが明けた頃からは、学校を遅刻・早退・欠席してまで、説明会や入社試験のため企業へ出掛けていた。それを見てきたため、家に居ながらにして就活が出来るとは思えないのだ。
白い紙に整然と並ぶ細かく黒い文字。……次に瞼の裏に浮かんできたのは、そんなものだった。
それはおそらく、学校の図書室で借りた本の中の1ページ。自宅にいる時に 父の姿が声が目に耳に入るのが嫌で、図書室で借りてきては、他のモノが目からも耳からも一切入ってこないくらい読み耽っていた。
見たくないのは、モソモソウロウロ動く姿そのもの全て。そして、聞きたくないのも、母に食べさせてもらっている現在の自分の立場もわきまえず いちいちエラそうな 父の発する言葉の全て。
ハナは、母の仕事の話の流れで父が仕事について語るのを聞くと、仕事なんかしてないくせに、と思う。学校が休みの土日にハナが、同じく休日の母も、ゆっくり起床すると、父は、「休みの日だからって何も わざわざ遅く起きる必要は無いと思うけどね」と 自分の考えを述べる。それに対してハナは、アンタは毎日休日だからね、と 突っ込みたくなる。テレビを見ながらの独り言ひとつ採っても、ウザッたくて仕方ない。
しかし、そんなふうに感じていたのはハナだけだったのか、母は、父の話に、うたれている当人は気持ちが良いだろうと思われる相槌をうち、実に調子の良い合いの手を入れる。父が家事をやった時にも、そういえば、何かしらやるごとに、ただの接頭語ではないかと思えるくらいに『ありがとう』と『ごめんね』を多用して父を持ち上げ、立てていた。しかも場合によっては父をおだてるためにハナを悪者として利用することさえあった。納得がいかず、基本は不信・軽蔑、ある意味尊敬、と、母に抱く感情も、いつの間にか複雑なものになっていた。
どうして、いつの間に、父や母に対する気持ちが こんなふうになってしまったんだろう、と、ハナは自分でも分からないし、嫌だった。ハナにとって両親は絶対的な存在で、「尊敬する人は? 」と問われたら、迷わず「両親」と答える対象だったはずなのに……。
瞼の裏、続いての映像は、まるで ひと昔前の青春ドラマの初々しいキスシーン。ただし、主人公たちが若ければ。
それは、今日の出来事だ。
今日は月1回の本の整頓日のため学校の図書室の本が借りられず、本無しで自宅で時間を過ごす自信の無いハナは、何となく帰る気になれなくて、駅前の繁華街の本屋へ寄り道した後、自宅アパートまでの道を、ほとんど足に力を入れずに ただ自宅方向に向けて動かすことで進む。
辺りは既に どっぷりと暗かった。
あと少しで自宅だという所で、ハナは、後ろから、ちょっとフラつき気味の危なっかしい2人乗りの自転車に追い抜かれた。
追い抜かれる瞬間に見えた運転者は、30代半ばくらいの大柄な男性。その荷台部分に少女のように横座りしていたのは、何と、母だった。表情も、少女そのもの。
アパート前に到着した2人が自転車を降りようとして揃って転びそうになり笑い合う姿が、街灯とアパートの通路の明かりに照らし出される。実に楽しそうでキラキラしていて気持ち悪かった。
普通に歩いていると自分もすぐにアパートの前に着いてしまうため、それはバツが悪く避けたいので、ハナは電柱の陰で2人がいなくなるのを待った。
ややして、笑い声が止んだ。男性が母の両肩に手を添え自分のほうを向かせる。
母がビクッとしたのが遠目にも分かった。
男性は軽く身を屈め、母の額に、そっと口づけた。
ハナの体感温度が2・3度上がる。何故わざわざオデコかと、マウスツーマウスなら、きっと、ここまで気持ち悪くない、と。
ハナは見ていられず目を逸らした。
次の映像は、ボストンバッグを手に自宅の玄関を出て行く母。キスシーンから30分も経たない頃の映像だ。
キスシーンの後、目を背けていたハナは、それまで母と共にいた男性がひとり嬉しそうに自転車を漕いでハナの前を通過していったことで、2人がアパートの前から退いたことを知り、電柱の陰から出て自宅へ戻った。
居間的な使い方をしている、玄関を入って正面の4畳半では、父がウロウロ室内を歩き回り、母が玄関に背を向ける形で ちゃぶ台の前に座り、口論していた。ハナの帰宅には全く気づいていない感じだ。
ハナは、両親のいる4畳半の隅を通って奥の6畳間へ行くことも、再び玄関から外へ出ることも、してはいけない雰囲気を感じ、玄関で靴を脱いで上がった位置で、ただ見守るしかなかった。
ハナは初め、父がキスシーンを目撃してしまったために喧嘩になったのかと思ったが、聞いていると、そうではなかった。大雑把に言ってしまえば、喧嘩の中身は、父が全く働こうとしないことに嫌気がさした母が静かに鋭く父を責め、父が激高しながら自らを正当化している、というもの。
ややして母が大きく溜息を吐きつつ立ち上がり、
「もういい」
言って、6畳間へ。
2・3分の後、母はボストンバッグを手に出てきた。
自宅内に入ってから初めてハナは母の顔を見たが、先程 外で見た時とは、まるで別人の顔。だがむしろ、ここ3ヵ月くらいの間の普通の顔。それを若干疲れさせた顔。
母は俯き加減でハナのほうへ直行。
ハナの寸前まで来て初めてハナの存在に気づいた様子で、
「あ」
顔を上げて足を止め、
「ハナも一緒においで。荷物つくるの待ってるから」
ハナは、
「ううん、いい」
断った。母は きっと、さっきのキスの男性の所へ行くのだろうと思ったから。自分は邪魔者でしかないと分かっているのに、ついて行けるわけがない。
母は、
「そう、分かった」
少し寂しそうに言って、玄関を出て行った。
瞼裏画像、次は、いきなりの父の超どアップで、ハナは面喰う。
これは、発作的に自宅を飛び出そうとしたハナを父が玄関で引き止めた場面だ。
出て行く母を見送った後、ハナは、一旦 6畳間へ籠るが、4畳半で父が歩き回るミシミシという軋み、母への恨み藤堂への恨み 世の中への恨みの独り言、物にあたる音が聞こえ、耳を塞いでも聞こえ続け、頭がおかしくなりそうだと思った。
直後、肩を強く掴まれる感覚があり、ハッと周囲を見ると、玄関だった。
ハナは、いつの間にか玄関に立っていた。
頭がおかしくならないようにするため、おそらく、ハナの中の自己防衛本能が、ハナを自宅から出て行かせようとしたのだ。
肩を掴んだのは父だった。
父は至近距離から暗い目でハナを覗き、
「お前まで オレを裏切るのか」
(裏切る? ワケが分からない。気持ち悪い。もう嫌だ! )
ハナは父の手を払い除け、自宅を飛び出した。
そこからは静止画で、画面が高速でパンッパンッパンッパンッと切り替わっていった。
1つ目は、ラーメン屋の屋台。
学校の制服のまま財布も何も持たずに自宅を飛び出したハナは、夜道を当てどなく歩き、駅前繁華街の始点付近にいた屋台を、つい、それほど遠くからではなく見つめてしまった。寒くて、空腹で……。
結構長時間そうしていて、屋台の主人に睨まれ、繁華街へ逃げ込んだ。
2つ目、いかにもガラの悪そうな若い男2人組。
この2人は、ハナにラーメンを奢ってくれると言ってきた。「さっき、ずっと屋台を見てたよね? 」「ラーメン食べたいの? 食べさせてあげようか? 」と。
優しい口調だったが、ハナの体の奥の奥のほう、あるいは体の外かも知れない、どこか遠いところで、危険を知らせる警告の鐘が鳴り響いたため、怖くなって、ハナは逃げ出した。
3つ目は、ブレている。繁華街の外れの古い雑居ビルの金属剥き出しの外階段。幾度も折れ曲がって上へと続く、その途中の部分だ。
ブレているのは、ハナが走っているため。
ラーメンを奢ってくれると言った男たちは、逃げ出したハナに、全く移動せず遠くから、「何だよ、ブース! 」と言っただけで追って来なかったが、それはハナも知っていたが、怖くて、とにかく怖くて怖くて、外階段のあるビルの下まで来た時には、何が怖いのかも よく分からなくなっていたが、恐怖心にまかせて、階段を駆け上ったのだった。
そして最後、4つ目は、雑居ビルの屋上をグルリと囲うハナの胸の高さの柵に掴まり、下を覗いた時に見えた景色。
そのビルは古いわりには高さがあり、周囲のネオンは ほぼ眼下。本来見るはずでない位置からのネオンと街灯の明かりが、夜を ぼんやり優しく彩っている。
男たちの前から、階段も、ずっと走りっぱなしだったハナは、階段の終点から見て真正面の柵に ぶつかることで、やっと止まり、柵の上部を両手で掴んで胸で柵にもたれ、肩で息をしながら考えた。
(これから どうしよう……。どうすれば、いいんだろ……)
母と一緒に行けばよかった? 無理だ。居心地悪いと分かりきっているのに行けるはずがない。……しかし、今の あんな状態の父と2人で暮らすのも無理だ。母から一緒に行こうと誘われた時、全く後先考えてなかったな、と、この時になって思った。父と暮らすよりはマシであると信じて、とりあえず行ってみたほうがよかったのかもしれない。
(お母さんに連絡して、今からでも……)
とも思ったが、
(どうやって? )
母はケータイを持っている……多分、荷物の中に入れて持って行ったと思うが、ハナの手元には、公衆電話で電話をかけるために必要な10円玉もテレホンカードも、どちらも無い。
(一度、家に戻ろうか……? )
そっと、父に見つからないように戻って、自宅から電話するか財布を持ち出すか……。だが、外を歩くのを怖く感じた。また悪そうな人たちに声を掛けられるかも、と。母が本当にケータイを持って出たか分からない、連絡がついたところで 一度 断ったものを受け入れてくれるかどうか分からない、受け入れてくれたところで 居心地良いとは限らない、絶対ではないことのために、そんな力は出せなかった。
(これから どうしよう……って、どうしようも、ないか……。なんか、面倒くさい……。もう、何も考えたくない……。面倒、くさい……)
何となく、頭の奥か胸の奥か分からない辺りがイライラモヤモヤして、溜息を吐き、俯いた先にあったのが、4つ目の静止画の景色だった。
(…キレイ……)
吸い込まれそうで、クラクラした。そのクラクラ感が心地良かった。
(気持ちいい……。落ちてみようか……)
それもいいかも知れないと思った。面倒くさいし、終わりにしても、と。
(そう、ほんのちょっと、身を乗り出すだけ……)
ハナは柵の上部を掴んでいる両手に力を込め、軽く跳ね、腕を突っ張って柵の上に体を支えた。そして、そのまま ゆっくりと前に重心を移していき、重心の移動とともに傾く体が柵に対して垂直の位置を過ぎたところで、両手を離した。
……そんな経緯で、ハナは 今、落ちている。
*
背中と膝の裏に、太めの棒状のものと思われる何かが めり込み、同時に、トランポリンの上で跳ねた時のように、一旦沈み すぐに押し戻されて体が宙に浮いた感覚があった。周囲の空気が止まっている。と、いうことは、もう落ちていない。背中と膝の裏が少しだけ痛い。
何となく思い描いていた おしまいの時との あまりの違いを、
(? )
ハナは不思議に思って目を開けた。
すぐ目の前に、黒いニット帽の下から僅かに明るい色の髪の先が覗く 黒のネックウォーマーで下唇まで隠した 20代後半くらいの男性の顔。ハナは、その男性の腕に 背中と膝の裏を支えられていた。どうやら、落ちてきたのを受け止められたらしい。
男性は、溜息を吐きつつ、ハナが自力で立てることを確かめるようにしながら、静かに静かに、ハナを地面に下ろした。
ハナ、呆然としてしまう。
(…死ねな、かった……)
目の前で男性が しきりに何か喋っている様子なのを、フィルター越しな感じで見、その声を遠くに聞く。
「おい、聞いてんのっ? 」
大きな鋭い声。
ハナ、ハッとする。
男性は片手で自分の額を押さえ、大きな大きな溜息。
「いいか? もう1回だけ言うぜ? あんな高い所から落ちてこられて、もし、まともに ぶつかったりしたら、こっちまで死んじまったりするんだよ。次からは、必ず下を見て、上を見て、右を見て、左を見て、もう一度下を見て、人がいないのを確認してから落ちてくれ」
冷静な口調で一方的に喋り、最後にビシッとハナを指さして、
「分かったかっ? 」
ハナ、反射的に、
「は、はいっ! 」
男性は、よし、と頷き、クルッと背を向けて、
「んじゃな」
後ろ姿で手を振りながら去って行った。
その後ろ姿を見送りながら、ハナの心には悔しさが込み上げてきていた。
(何で、こんな一方的に言われなきゃいけないの……? )
面倒くさいと、一旦は ほぼ停止状態にあった思考回路が、どこかに何かキッカケでもあったのか、いつの間にか復活していた。
(どうして、こんな目に遭わなきゃいけないの? 理不尽だよね。私、何も悪いことしてないのに……。
そう、私は何も悪くない。じゃあ、悪いのは誰? 誰のせいで、私は こんな思いをしてるの? お父さん? お父さんが独り言を言うから、頭がおかしくなりそうだから? 家を出ることになった直接の原因は それだし、今のお父さんは本当に嫌だけど、何か違う。お母さん? お母さんが出て行ったから? お母さんが家にいたら、私は家を出て来なかったのかな? 違うよね。だって私、家を出るより先に、お母さんの誘いを断ってる。大体、お母さんが出て行ったのだって、お父さんが あんなじゃ、無理もないし……。
そもそもは、お父さんが会社を辞めさせられたから……)
そこまで考えが及んだところで、ハナはハッとする。
(そうだ! お父さんは『辞めた』んじゃない、『辞めさせられた』んだっ! 誰に? おじさま……藤堂の、おじさまに……! )
藤堂の笑顔が、ハナの脳裏を過ぎる。
(あんな顔して、私に、こんな思いをさせて! お父さんを、あんなふうにして! 許せない! )
藤堂の顔は、笑顔しか思い浮かばない。消しても消しても、藤堂の笑顔が目の前をチラつく。気持ち悪い……。吐き気がする……。
(死ねなくて、良かった……。何も悪いコトをしてない私が死ななきゃいけないなんて、バカらしい。
生きてたって、これから どうしていいか分かんないけど、帰るトコも無いけど、私がこんなに苦しんでるのに、おじさ……ううん、藤堂が、のうのうと生きてるなんて、我慢出来ない。
死ぬなら、あの男、藤堂。藤堂が死ねばいい。私は、とりあえずまだ生きて、藤堂を殺して、死ぬのは、それからでもいいかも知れない。
っていうか、藤堂が生きてたら、私、死ぬに死ねない。死ねる気が全然しない。……面倒くさく感じてたけど、何か、いつの間にか、ビルから下りれてるし……)
ハナは、足下のアスファルトをグッと踏みしめ、
(行こう……! )
歩き出す。
不思議と、夜道は全く怖くない。寒さも感じない。空腹も気にならない。喉から みぞおち辺りにかけてが熱い。
藤堂宅へ向かってズンズン歩くハナ。途中で、乗ってけとばかりに放置自転車。持ってけとばかり、ゴミ捨て場に、先端がグラつき柄の錆びたゴルフクラブ。




